第23話
Kと呼ばれた女はおもむろに手を伸ばし、トレーの上のハンバーガーを手に取った。そして包み紙を少しだけ剥がし、中の様子を伺った。部屋に籠って集まりに顔を出さない親戚の子に挨拶をするみたいに。
「チーズ」Kは言った。
「月見チーズだよ」とA子さんは訂正した。
Kはふうん、と興味なさげに言って、包みを元に戻すと再びトレーの上にハンバーガーを置いた。
「調子はどう?」Kはそう尋ねた。本来それは部屋に籠りがちの月見チーズバーガーに向けられるべき言葉だったのかもしれない。そんな印象があった。
「グッド」A子さんは月見チーズバーガーのようにそう答えた。
「そりゃよかった」
Kはそう言って、店内に目を向けた。僕はその視線から逃れるように首を縮めた。それからKは顔を戻し、手元を見た。自分の爪に珍しい生き物が住んでいたことに気づいたみたいに。
そのKの様子をしばらく見てからA子さんは口を開いた。
「いいことがあったの」
「いいこと?」
「うん」
「宝くじでも当たった?」
「宝くじを買うことはないけれど、もしかしたらそうかも」
「知らないだろうけど、宝くじっていうものは買わなきゃ当たりも外れもしないんだよ」
「落ちてるものを拾えば?」
「それは警察に届けるべきだ」
「立派だ」感心したようにA子さんは言う。
「昔から私は立派なのよ」Kはそう言った。
「それで? 何があったのさ」
「シマウマを見たの」
「は? シマウマ?」
「しましま模様の」
「しましま模様じゃないシマウマはただのウマだろ」
「そんなことないけど」
「あるさ。シマウマにとってのしましま模様ってのは存在の定義みたいなもんだ。根源だ。彼らはしましま模様無しには存在できないんだよ」
「定義」とA子さんは言った。「しま無し否定主義者め」
「ま、どうでもいいけどさ」とKは心底どうでもよさそうに言った。「シマウマを見たって、それだけ? そんなにシマウマ好きだったっけ」
「好きだよ。ヤンバルクイナには劣るけれど」
Kは一瞬、きょとんとした表情を見せた。それから言った。「ヤンバルクイナと比べたらどんなものでも劣るだろうさ」
ヤンバルクイナ? 僕は思った。聞いたことはあってもその姿はどうしても思い出せなかった。鳥類だ。それはわかる。どんな姿をしていただろう?
でもそれは決して重要なことではなかった。話の根幹にはヤンバルクイナは少しだって食い込んでいなかった。しかし、それがスイッチにでもなっていたのか、ヤンバルクイナが登場した途端、僕は奇妙な感覚に襲われた。簡単に言えば、落ち着かなくなった。無性に体を動かしたくなった。貧乏ゆすりをして、首を二周回した。ヤンバルクイナがスイッチになっていた。キンとモスキート音が鳴って、世界から音が消え失せた。A子さんとKはまだ何かを話していたが、それはもう聞き取ることができなかった。ひどい熱を出した時みたいに視界がぶれた。
「ふむ」と誰かが言った。「慌てなくていい。車酔いみたいなものだ。すぐに治る」
周りの音は聞こえないのに、その声だけは質感を持って妙に響いて聞こえた。
僕はその声の主にもう少し詳しく説明を求めたかった。この車酔いはあまりに唐突で、配慮というものが完全に欠けていた。どういうことだ、と問いただそうとしたが、それは不可能だった。視界のぶれは激しくなり、吐き気を催した。身体の中を無数の虫が這い回っているみたいだった。皮膚を突き破ってその虫たちが僕の身体から飛び出す様子を想像した。想像せざるを得なかった。しかし、実際に虫が飛び出すことはなかった。声の主の言う通り、目を強く瞑り、吐き気に少しの間耐えると僕はすぐに立ち直った。先程までの不調は何かの冗談だったかのように全くの健康体に戻っていた。スコールが通り過ぎたあとみたいだった。
スコールは言った。
「南アメリカではスコールなんて常識だぜ」
しかしここは南アメリカではない。過去が含まれた水中の街だ。南アメリカの常識なんて知ったことでは無い。スコール? そもそも水の中なのにスコールなんて馬鹿げている。
「カウントダウンみたいなものなんだよ」と僕が落ち着いたのを確認したあとで誰かが言った。「君がこの世界にいることが出来るカウントダウンみたいなものなんだ」
つまりはこの最悪な車酔いを何回か経験をしなくてはいけないという訳だ。
僕は言った。言ったつもりだったが、音になっていなかった。しかし僕は特に気にしなかった。声に出そうが出さまいがきっと声の主には伝わっている。
出来れば段々この症状が軽くなればいいんだけど。僕はそう続けた。
「ふむ」
僕は続きを待った。しかし答えはどうやらその「ふむ」で完結したらしかった。
窓の外は真っ暗になっていた。店内の客はまばらになり、蛍の光がいつ流れても不自然じゃなかった。
僕がその車酔いみたいな状態に陥っている間に(それは体感ではほんの五秒ほどだったのだけれど)随分と時間が経ってしまったみたいだった。
幸いなことにA子さんとKは変わらず、同じ席に座っていた。月見チーズバーガーは既に食べられており、(どちらが食べたのかはわからない)くしゃくしゃに丸められた包み紙だけがトレーの上に載っていた。
「今年もそろそろだね」Kは言った。
ヤンバルクイナの話はとっくに終わっていた。それもそうだ。普通はヤンバルクイナの話を長々とすることはない。
A子さんは頷いた。そしてバッグから茶封筒を取り出した。封筒には何も書かれていない。A子さんはそれをKに差し出し、Kは黙って受け取った。Kが封を開け、中を確認する。お金だった。紙幣が十枚? 十万円? なぜA子さんがそんな大金をKに?
「明日も仕事?」Kはそう聞きながら財布の中に茶封筒の中のお金を入れた。その受け渡しが後ろめたいことみたいに、その所作は人目に晒されることを気にしていた。その時に何かがひらりと財布から落ちた。KもA子さんもそのことには気がついていないみたいだった。
僕は腰を屈めて、それをそっと拾い上げた。名刺だ。派手な飾り文字で「紳士クラブ」と書いてある。中央にはマコとだけ書かれていた。
紳士クラブのマコ。
きっとそこには匿名の紳士が集まるのだろう。その名刺のデザインから僕は思った。つまりは大人の店だ。
Kはやがて立ち上がった。「またね」とA子さんに向けて言って、颯爽と立ち去った。階段の近くにはいつの間にかKが店内に入る時に一緒に入ってきていた男が立っており、Kの荷物を預かると、彼女の後ろをついて店を出て行った。
Kが出て行った後もA子さんはしばらく黙って窓の外の夜景を眺めていた。それから彼女はようやく立ち上がった。僕は彼女に続いて店を出た。
夜道を二十分ほど歩いた。A子さんは歩きながら物思いに耽っているようだった。
やがてA子さんは二階建てのアパートに入っていった。随分古そうなアパートだった。それぞれの部屋から光が漏れていて、そこに人が生活をしていることを知らせていた。
そこがA子さんの自宅だった。
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