第22話
A子さんは過去の僕と喫茶店で別れたあと、狭い道路を抜け、国道沿いの道を北に向かって歩いた。道路の脇に立ち並ぶ多様な店を、まるで初めてその街に訪ねてきた観光客のように興味深そうに眺めながら。
僕はその様子を距離をとって見ていた。映画やドラマだと、尾行をするときはトレンチコートを羽織り、サングラスをつけて、新聞紙を持っていたけれど、僕はそれらを何ひとつ持っていなかった。僕の尾行というものは単に距離をとってA子さんの後ろをついていくというとても粗末なもので、彼女が後ろを振り向けば(この世界の住人が僕の姿を認識できる場合に限るけれど)、きっとすぐに僕の姿を見つけることができたと思う。しかしその心配はする必要がなかった。A子さんは、自分が尾行をされるという可能性なんて微塵も考えていないみたいだった。とても無防備に、そして無邪気に彼女は街を歩いていた。
道は徐々に下り坂になり、ガード下を進んだ。すぐ横を車が忙しなく往来していた。A子さんはそこで一度立ち止まって、スマートフォンを取り出した。そして何かを打ち込んでから(メールを返信したのかもしれないし、調べ物をしたのかもしれない。あるいは何かをメモしただけなのかもしれないが、僕のいた位置からはそれは判別つかなかった)、すぐにスマートフォンをしまって、歩き始めた。
どこに向かっているんだろう?
てっきり家に向かっていると思っていたけれど、もしかすると違うのかもしれない。歩き過ぎている気がした。駅は通り過ぎていたし、住宅街からも離れていた。A子さんの歩き方は目的に向かって進んでいるというよりは気ままに足を運んでいる印象があって、そのまま僕の知らないどこかへ行ってしまうようだった。僕はそのことに、つまりはA子さんが消えてしまうかもしれないということに恐怖を覚えた。A子さんにはそういう儚げで危うい雰囲気があった。
A子さんを見失わないように必死で追いかけ、距離が縮まり過ぎては慌てて離れるといったことを繰り返した。
A子さんが次に立ち止まったのは、国道から一本道が逸れたところにあるハンバーガーショップだった。そのハンバーガーショップの周りは建物がなく、寂しげにぽつんと建っていた。それは何かから逃げ遅れたみたいな印象を与えた。
A子さんはそこに迷いなく入店した。そこが目的地だったらしい。まさかここに住んでいるということはないだろう。夕飯をここでとることにしたのだろうか。
僕はそのハンバーガーショップの前で少し考えた。
A子さんを追って入店すべきかどうか。僕はこの世界に干渉すべきではない。そうすると店内に入ってA子さんに見つかるというリスクを避ける方が無難だ。実際、先程の喫茶店で僕は店の中には入らず、外から彼女を見ていた。しかし、それは僕が知っている過去の出来事だからだ。喫茶店で何を話したのか、A子さんがどのような表情をして、どういう仕草をしていたのかを全て覚えていたから、外から見るだけで充分だった。しかし、今は僕の知らないA子さんの過去の出来事だ。このハンバーガーショップで僕がいた世界のA子さんの居場所に関する重要な手がかりを手に入れられるかもしれない。それに、この店は出入口が二つあった。正面と裏口があり、A子さんが食事を終えてどちらから出るのかがわからなかった。そして僕一人では二つの出入口を見張ることは困難だった。僕が気づかないうちにA子さんはその店を後にしてしまう可能性があった。
僕は窓を覗き込んで、店内の様子を伺った。夕飯時だからか、席は殆ど埋まっていた。規定の制服を身につけた店員が忙しげに店内を歩き回っていた。その店員の後ろを小魚が付いて泳いでいたが、店員も他の客もその魚を気に留めていなかった。
これだけ混雑していたら、見つかる可能性は低いんじゃないだろうか。
僕はそう考えた。
そして、大柄な男と派手な格好をした女のカップルが店内に入っていったすぐ後に、その陰に隠れるようにして僕はそのハンバーガーショップに入った。
店に入ってすぐにレジスターがあり、そこで注文をするシステムだった。店のイートインスペースは一階と二階があり、階段が店の奥に設置されていた。
僕は一階を見回す。A子さんはいない。どうやら二階に向かったらしい。
僕は注文をせずに店内を横切って階段を上がった。A子さんはすぐに見つかった。二階の窓際の二人席に座っていた。僕はA子さんの斜め後ろの二人席を見つけ、そこに座った。そこからならA子さんの様子を確実に観察することが出来た。
A子さんは目の前のトレーの上に乗っている紙に包まれたハンバーガーには目もくれずにスマートフォンに何かを打ち込んでいた。先程、ガード下で打ち込んでいたものの続きだろうか。その様子は僕にとって新鮮なものだった。A子さんは僕といる時はほとんどスマートフォンを出すことがなかった。
やがて、二階に僕の前に入店をした派手な女が上がってきた。はじめ、僕はその女のことをほとんど気に留めなかった。一緒にいた大柄な男はどうしたんだろう、と少しの疑問が頭を過ぎったが、すぐに注文を彼に任せて、自分は席の確保に来たのだろうと納得した。その考えは自然なものだったし、気に留めるべきものでもなかった。僕は意識をすぐにA子さんに移した。
しかし、その派手な女は僕の前を横切ったかと思うと、どういうわけかA子さんの向かいに腰を下ろした。空いてる席は他にもある。どうやら混雑しているから相席を頼むといったことでもないらしい。そもそもその女は男連れのはずだ。相席を頼むなら、四人テーブルを一人で占領しているサラリーマン風のおっさんだとか、二人できゃいきゃいと面白くもない話を世界で一番面白いみたいに話している幸せそうな女子高生たちに頼むべきであって、二人席に座るA子さんに頼むのはお門違いだった。
そして、A子さんはA子さんで、突然目の前に現れたその女に動揺することも無く、一瞥しただけで、すぐにスマートフォンに目を落とした。
僕はその光景が理解できていなかった。どういうことだろう。この店にはそういう文化があるのだろうか。一人で二人席に座っていると、見ず知らずの人間が向かいに座るみたいな。すぐにその考えを振り払う。馬鹿げている。残る可能性はA子さんとその女が顔見知りだったということだ。一番自然に思えるその可能性に思い当たるまでに時間がかかったのはその女の風貌のせいだった。金髪の髪をかき揚げ、胸元が大きく開いた黒のワンピースを着ている。火のように真っ赤な口紅は妖艶な魔女を想起させた。A子さんの交友関係にまるでいそうもないタイプの人種だった。水と油のような二人だった。
やがて派手な女が口を開いた。「えーこ」
A子? 彼女は、A子さんは僕のみならず、この派手な女にも「A子」という偽名を使っていたのだろうか。何のために? いや、意味なんてないような気がした。A子さんのいたずらな笑顔が思い浮かんだ。
派手な女は続けて何かを口にした。しかしそれは聞き取れなかった。店内にいた二人の女子高生がとても大きな笑い声をあげたからだった。その甲高い笑い声に派手な女の言葉は溶けて混じり、消えてしまった。
「確かにそうかもしれない」A子さんは言った。
斜め下を見て――存在するものを見ているというよりはきっと、かたちのないものを眺めて――物憂げに。
それから、A子さんはその派手な女に呼びかけた。
「けー」
その声は柔らか過ぎて、店内の喧騒にまた埋もれてしまいそうだった。しかし、僕はなんとか聞き取った。Kだって?
A子とK。馬鹿げている。
「謎めいている女の方が魅力的でしょ?」と、A子さんの声が聞こえた気がした。それからA子さんの笑顔が頭を過ぎった。僕はその笑顔に弱かった。静かにため息をついて、僕は二人の会話に耳をすませた。
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