第24話

 A子さんの自宅はわかった。これで、元の世界に戻った時にこの場所を訪ねていけばA子さんと再会できる。


 果たして本当にそうだろうか?


 どうにもしっくりこないような感覚があった。回るランドリーボウイの言葉を思い出す。


「実際それはとても難しいことなんだ。君たちの世界の役所手続きくらい難しい」


 僕はため息をついた。役所手続きくらい難しい。


 きっと彼女はもうこのアパートにはいないのだ。確信めいた予感があった。もっと遠回りをして、ひとつずつ問題を解決しなくてはいけない。役所の手続きみたいに。


 僕はアパート前の狭い道路の端に座り込んだ。その位置からはA子さんの部屋の扉が見えた。A子さんが再び外に出る時まで待つつもりだった。


 小魚が僕の前を通り、僕のことを餌だと思ったのか僕の顔のすぐ近くまで寄ってきた。手で軽く払うとその魚はすぐに尾を向け、どこか遠くへ泳いで行った。


 僕はこのアパートの中で洗濯したり、料理をしたり、部屋の掃除をしたり、照明の取り替えをしたりするA子さんを想像した。それはどうしても現実感が伴っていなかった。平面的だった。あるいは彼女は一連の家事を今まで一切やったことがないんじゃないんだろうか。もし必要になれば七人の小人みたいな空想的家事手伝いがどこからともなく現れて、A子さんがぐっすり眠っている間にせっせとトイレ掃除をし、香ばしいパンを焼いて、身体中を洗剤まみれにしながら彼女の服を洗濯しているのかもしれない。僕はその小人たちに嫉妬しないわけにはいかなかった。僕もその小人たちの一員になれたらいいのに、と強く思った。しかし小人たちはそれを許してくれないだろう。僕がどれだけ小人的仕事に優れているかを説明して、やる気や献身的なことをアピールできたとしても、小人は僕の履歴書に目を落としながら仏頂面でこう言うに決まっている。


「でも君の身長は174cmもある」


 彼女の部屋の扉は薄い緑色だった。そこに銀色のドアノブがついていた。どこにでもある平均的なドアノブだった。扉もドアノブもとても静かで、冗談のひとつだって言わなかった。僕が熱心に視線を送っていることにすら気づいていないみたいだった。せっかくなら観客に向けてサービスくらいしてくれてもいいのに。――僕はまたくだらないことを考えている。もっとまともなことを考えるべきだ。時間は限られているんだから。


 だから僕は先程のハンバーガーショップでの出来事について思いを馳せた。


 A子さんとKはいったいどういう関係なんだろう。親しい友人なのだろうか。お金を渡していた。もしかするとA子さんはあのKという女に脅されているんじゃないだろうか。それから「またね」と言っていた。彼女らの関係は僕とA子さんが出会うよりもずっと前から構築されていて、これから先もその関係が続くことを想定されていた。Kという人物は何者なんだろう。


 考えても仕方のないことだった。僕はKどころかA子さんに対する情報もろくに持っていなかった。僕の考えは推論というよりも妄想に近かった。


 しかし僕は彼女らの関係について考え続けた。実際のところ、A子さんが自室から出るのを待つ間、それしかすることがなかったのだ。二回ほどが来た。二回とも一切の手加減がなかった。配慮も気遣いもなかった。融通だって利かない。役所手続きみたいだった。カウントダウンみたいなものなんだよ。誰かが言った。


 やがて辺りに光が差し込み始めた。太陽はどこにも見えなかったが、天から光線が降り注いで、世界の青を際立たせた。白い光の鱗が辺りに散りばめられ、空を泳ぐ魚の影が濃くなったり、小さくなったりした。夜明けだ。


 音が遠くから聞こえてきた。聞いたことのあるエンジン音だった。それは徐々に大きくなって、僕の前で止まった。見覚えのある小さなワゴン車。助手席側の扉が思い出したように開いた。


「ふむ」と回るランドリーボウイは言った。


 彼は窮屈な運転席に身体を器用に折り曲げ、ハンドルを抱えるように握っていた。


「そろそろだ」


 僕はゆっくりと立ち上がった。


「終わり?」そう訊いた。


 回るランドリーボウイは頷いた。


 僕はA子さんがいるアパートに目を向け、それからワゴン車に目線を動かした。


「ここであなたの迎えを拒否したらどうなるかな?」


「個人的にはそれでも構わないけれどね。良くないことが起きるんだろう。きっと。私にもわかっていないんだ。何が起きるか。ただ良くないというのはわかる。君もそうだろう?」


 僕はそれについて考え、頷いた。そしてワゴン車の助手席に乗り込んだ。


「さて、ヒントは見つけられたかな?」


 急発進をして額をフロントガラスにぶつけながら回るランドリーボウイは言った。


「たぶん」


 僕がそう答えると回るランドリーボウイは満足そうに頷いた。


 目の前をマンタが通り過ぎ、回るランドリーボウイがブレーキを思い切り踏み込んだ。僕らは再びおでこをぶつけた。


 白い細かな泡が天に上っていった。


「君に会えて良かったよ」回るランドリーボウイは言った。「実に」


「面白みもない平均的高校生ですよ。どこにでもあるドアノブみたいな」


「ドアノブ?」


「平均的ドアノブです」


 A子さんの住む部屋の扉についていたみたいに、それはどこにだって存在している。特別性を含まないのが彼らの、そして彼らに含まれる僕の唯一の特徴だった。


「ふむ」回るランドリーボウイは言った。理解したのかしていないのかはわからなかったが、彼がそれ以上詳しく訊くことはなかった。


「平均的ドアノブがこんなに奇妙なことに巻き込まれている。どうしてだろう」


「ふむ」と回るランドリーボウイは考える素振りをみせた。そしてこう言い切った。「偶然だろう」


 僕は反論しようとしたが、その前に回るランドリーボウイは続けた。


「必然的偶然だ。たまたまこうなることは決まっていた」


 僕は首を振った。「わけがわからない」


「この世には訳のわからないものなんて無数にある。その中のひとつだと思えばいい」回るランドリーボウイは言った。「いずれにしても君が望んだことだ」


 ワゴン車はコインランドリーの前に止まった。回るランドリーボウイと初めて会った場所だ。


 回るランドリーボウイは大儀そうに車から降りると、真っ直ぐコインランドリーに入っていった。


「コインランドリーになんの意味があるんだろう」


 僕は回るランドリーボウイの後ろを歩きながら言った。


「さあね。好きに意味を見い出せばいい」回るランドリーボウイはそう言って、ドラム式洗濯機の前まで行くと、その扉を開けた。中を覗き込み、満足そうに頷いた。それから僕の方を振り向いた。


「さて、お別れだ。君の未来に幸あらんことを」


 そしてドラム式洗濯機の中に器用に身体を折り曲げて入ると、扉をバタンと閉めた。クールな別れ方だ。


 コインランドリーは神聖な静けさを保っていた。


 このままここで待っていれば僕は元の世界に帰れるのだろうか。


 僕がコインランドリー内を見回そうとすると、先程回るランドリーボウイが入ったドラム式洗濯機の扉が気まずそうに開いた。


「悪いけれど、運転ボタンを押してくれないか」


 回るランドリーボウイは腕だけを洗濯機から出して、運転ボタンを指しながら言った。


「『おいそぎ』とか『おしゃれ着』とかそんな設定はしなくていい。ただ運転ボタンを押してくれ」


 そう言い切ってしまうと、彼は再び扉を閉めた。


 僕は運転ボタンを押した。洗濯機はゆっくりと回り始めた。


 ごうんごうん、とその音だけが存在していた。洗濯機の中の回るランドリーボウイはもう何も言わなかった。既に彼はいなくなっているのかもしれなかった。白い泡が立ち昇っていた。


 僕は長椅子に座り、目を瞑った。そして、肘を太ももに置き、両手を組んで、そこにおでこを載せた。


 それから、じっとその時が来るのを待った。

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