第25話
その時が来るのを待っている間、僕は引き伸ばされた溢れんばかりの色を見た。多くの音を聴いて、何かが僕の頬に触れた。それはアジだったのかもしれないし、ただの気泡だったかもしれない。あるいはクラムボンかもしれなかった。
ごうんごうんという洗濯機の稼働音は遠ざかり、自然の音が重なり合ってひとつの音楽になった。
僕は身じろぎ一つしなかった。
やがて、体の薄い皮膚が剥がれるような感覚があって、まぶたの裏の赤色が見えた。明るいところに出たのだとわかった。音はいつの間にか止んでいた。
古い紙の匂いがした。体に触れる空気が変わっていた。
ゆっくりと目を開けると、ずらりと立ち並ぶ本棚が見えた。しっかりとした木製の床で、そこは2階らしく、左には手すりが付いていて、そこから階下が見えた。見覚えのある光景だった。
振り向くと白い扉があった。どうやら僕はそこから出てきたらしかった。白いペンキは所々剥げていた。
「白い扉には入ってはいけない。それが『図書館』のルールだ」聞き覚えのある低い声がした。
「安心してくれていい。そこから出るのは自由だ」
気がつくと葉蔵さんが目の前に立っていた。
「おかえり」と葉蔵さんは言った。
〇
僕らは1階の入口横の部屋に入った。そこは僕が『図書館』を初めて訪れた時に案内された部屋だった。
葉蔵さんはいつものように淹れたての美味しいコーヒーを僕に提供した。
「それで、ヒントは得られたのかな」
葉蔵さんは言った。
「A子さんの自宅がわかりました。そして、A子さんと親交のあったKという女性についても」
「それなのに浮かない顔をしているね」
「そうでしょうか」僕はそのことについて考え、言い直した。「そうかもしれない」
回るランドリーボウイの言葉が頭に残っていた。
実際それは難しいことなんだ。君たちの世界の役所手続きみたいに。
「あの世界はなんだったんですか」
「あの世界?」
「水に沈んだ街の話です。そこには過去が含まれていて、示唆に満ちていた。あの回るランドリーボウイというのは何者なんです?」
葉蔵さんは顎に手を置いて、僕の顔を見た。それから首を少しだけ傾げた。
「よくわからないな」
僕は思わず立ち上がった。
「からかっているんですか」
「円くん。落ち着いてくれ。どうやら誤解があるらしい。僕は本当にわからないんだ。僕は管理人にお願いをしただけだ。君がヒントを得られるように、と。だから僕は君が何を見て、何を感じ取ったかというのが一切わからない。君がヒントを得るまでの道程に僕は関与していないんだよ」
僕はじっと葉蔵さんを見下ろした。その言葉の真偽を確かめようとした。しかし考えても意味の無いことだと気づき、頭を振って再び腰を下ろした。
葉蔵さんは黙って僕のその様子を見ていた。両手を絡ませ、解く、といった動作を繰り返した。
「回るランドリーボウイはあなたのことを知っていた」
「僕を?」葉蔵さんは不思議そうな顔をした。
「でもあなたはきっとわからないんでしょう? わかっていてもわからないふりをする」
「待ってくれよ。僕は嘘なんてついていない。君は酷く疲れている。それで疑心暗鬼になってささくれ立っている。よく休んだ方がいい」
「大丈夫です。僕は疲れていない」そう言って僕は髪を掻き上げた。そして大きく息を吐いた。
「棘のある言い方をしたのは謝ります。葉蔵さんを責めたかったわけじゃないんだ。僕は、そう、葉蔵さんの言うとおり、わけのわからないことが立て続けに起きて疲れている。疲れているのかもしれない。責めたかったわけじゃない。本当に葉蔵さんには感謝しているんです」それから目を強く瞑った。頭痛に耐えるみたいに。
「その回るランドリーボウイが言っていたんです。世界の変容は17年前の8月13日に起きたことが原因だと。なにか心当たりはありますか」
「17年前の8月13日」
葉蔵さんは言って、下唇に親指と人差し指をあて、僕の頭の上に目をやった。そして頭の中で時間小旅行を済ませたあとで、頭を振った。
「わからないな」
その返答は予想が出来ていた。だから大きく落胆することもなかった。
「なんとか僕の方でも調べてみよう」と葉蔵さんは言った。
僕はお願いします、と頭を下げて立ち上がった。
「待ってくれ」
その言葉に僕は中腰のまま動作を止める。
「このあと、どうするつもりだい」
「どうするって……。A子さんの家に行ってみます。A子さんはもうそこにはいないとしても自分の目で確かめたい。そして、もしA子さんが家にいなかったのならKという女性を探してみます。今のところ手がかりはそれだけだから」
葉蔵さんはそれを聞くと時計に一瞬目を向けた。17時47分。
「円くん。僕から言えるのはひとつだけ。焦らないことだ。君はこのまま何もかも投げ出してA子さんの手がかりを追おうとしている。しかし、立ち止まって考えて欲しい。仮にA子さんに再会できたとして、A子さんのために君が全てを投げ捨ててきたと知ったらA子さんはどう思うだろう? いいか。まずは自分の道を自分の足でしっかり立って、歩くことだ。自分の生活を大切にしろ。焦っても焦らなくても結果は変わらないさ。会えるにせよ、会えないにせよ」
「……気をつけます」僕はそう言った。
『図書館』から出ると、身体を焼き尽くすような熱波が襲った。蝉がみんみん鳴いて、緑が猛っていた。僕が水に沈む街にいた間に多くの季節が過ぎ去ってしまったみたいだった。今の季節はこんなにも暑かっただろうか。額にじんわりと汗が滲み出るのがわかった。
ポケットの中が振動して、取りだしてみると少し前まで何の役にも立っていなかったスマホが息を吹き返して、着信を知らせていた。
周平からだった。
「もしもし」
「おう。急に悪いな。ちょっと頼みがあってさ」
「頼み?」それから思いついて「もしかして話すのがすごい久しぶりっていうことあるかな? しばらくの間、俺の姿を見かけなかったとか」と続けた。
は? という声が電話越しに聞こえて、浦島太郎のように時間が飛んだというわけではなさそうだった。
「なんでもない。それより頼みって?」
「買い物に付き合ってくれ」
は? と今度は僕が言う番だった。
「勘違いすんな。お前に用はない。用があるのは玲ちゃんだ」と周平は続けて、僕はますます困惑せざるを得なかった。いったい何を言っているんだろう。
「……どういうこと?」
「舞城さんへの誕生日プレゼントを買いに行きたいんだよ。彼女の誕生日もうすぐだから。でも俺は女子に誕生日プレゼントを贈ったことがない。だから女子の意見が聞きたい。だから玲ちゃんの意見を聞きたい。玲ちゃんと舞城さんは仲いいらしいし」
「そういう女子へのプレゼントはお前の姉さんに鍛えられてるんじゃないの?」
「うちのは趣味が独特過ぎて参考にならん」
「ふーん」と僕は言った。「話はわかった。けどそれなら玲に直接言えばいいだろ。なんで俺に電話をかけてくるんだ」
「玲ちゃんとお前、仲いいだろ。誘ってくれよ。そして、俺とお前と玲ちゃんで誕生日プレゼント探しに行こう」
「百歩譲って俺が玲を誘うのはいいとして、なんで俺も買い物に付き合うことになるんだ。お前と玲で行って、誕生日プレゼント探しに行けばいいだろ」
「馬鹿おまえ、少女漫画とか読んだことないのか。もしここで俺と玲ちゃん二人きりで買い物なんか行ってみろ。そこで舞城さんとばったり会って勘違いされたらどうするんだ。誰かに告げ口をされる恐れだってある。それでいい雰囲気の二人が険悪な空気になる漫画を俺は山ほど読んできた。しかし、三人なら変な疑いは持たれないだろ。仮に舞城さんとばったり会ったとしても、三人で遊びに行くだけだといえば彼女も納得してくれる」
なるほど、と僕は思った。周平が何を気にしているかはわかった。しかし、僕はA子さんの手がかりを追わなければいけない。悪いけど無理だ。渕でも誘え、と言おうとして、踏みとどまる。
まずは自分の道を自分の足でしっかり立って、歩くことだ。
僕は息を吐いた。
「いいよ。行こう」
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