第26話
周平と約束したのは次の日曜日だった。二日の猶予があった。
『図書館』から出た僕は、家に戻って、暖かいベッドで泥のように眠った。僕は想像以上に疲れていたらしい。
翌朝は生まれ変わった気分だった。寝ている間に全ての内臓と血液とを新鮮なものに取り替えたみたいだった。僕はベッドから出るとのびをして、それから身体中の関節を一つ一つ動かして点検をしてみた。それらは油を差したみたいに滑らかに動いた。錆び付いた音は一切しなかった。
母はとっくに仕事に出かけたらしく、僕はひとりトーストとコーヒー、ヨーグルトを食べてから、A子さんの手がかりを探しに向かった。学校はあったが、中間テストも終わっていたし、あとは夏期休暇前のだらだらとした授業を受けるだけだったから、一日くらいはサボっても構わないだろうと思った。
自分の道を自分の足でしっかりと立って歩かなくてはいけない。
葉蔵さんの言葉が頭に浮かんだが、今まで無遅刻とはいかないまでも無欠席で真面目に通っていたのだ。これくらいは見逃してほしい。
A子さんの自宅までの道のりは例のハンバーガーショップからしか覚えていなくて、僕は家柄木緑地公園からはじめにチェーンの喫茶店に向かい、そこからハンバーガーショップへ行くといった水中の街で僕が歩いた道のりを辿った。
その道程を僕は正確に覚えていた。どこでA子さんが立ち止まり、どこに目を向けたのか、全て覚えていたし、彼女の横を通っていった車の車種さえ覚えていた。
ハンバーガーショップは僕の記憶通りの場所にあった。店内は平日の昼間だからか客はほとんど居らず、店員が退屈そうにテーブルを拭いていた。
中に入り、月見チーズバーガーを注文して、イートインスペースである2階の2人席に座った。A子さんとKが座っていた席だった。そこで僕は硬い椅子の座り心地を確かめて、それからA子さんが見たであろう景色を見た。月見チーズバーガーは平凡な味がした。それを食べて、突然水に沈んだ街に迷い込むとか、アルファベットで名乗る(あるいはドラム式洗濯機から現れるような)謎の人物に出会うとか、A子さんへの重要な手がかりが得られるといったこともなかった。僕は平凡な味の平凡な月見チーズバーガーを学校をサボった平凡な高校生として食した。
店を出る時、金色の髪を後ろで結んだ店員が「ありがとうございましたー」と形式的に言った。僕はその店員が水中のハンバーガーショップにもいただろうかと考えた。しかし、うまく思い出すことが出来なかった。きっとそれは関係のないことなのだ。考える必要がないし、話題に出すべきでもない。
それから20分歩いた(測ってみるとぴったり20分だった)。僕はA子さんが住んでいたアパートの前に到着した。
量産型のドアノブは変わらずそこにあり続けていて、愛想なく僕を出迎えた。
そして、そこにA子さんがもう住んでいないということはすぐにわかった。A子さんが住んでいた部屋から上下グレーのスウェットを着た中年が出てきたからだった。彼はごみ袋を持っていて、それをアパート近くのごみ捨て場に放ると、首の後ろを掻きながらアパートに戻っていった。
僕はそこであらゆる可能性について考えるべきだったかもしれない。
例えばA子さんがあの男と同棲をしているだとか(それは信じられないし、信じたくもなかったけれど)、彼はA子さんの友人でたまたま遊びに来ていただとか、実は堂々とした空き巣で、夕方になれば彼はとんずらし、A子さんは金目のものを全て盗まれたその部屋に戻ってくるだとか、いくらそれらの仮説が馬鹿馬鹿しくても可能性を考慮すべきだったかもしれない。
しかし、その中年の男が出てきて、いや、彼が出てくる前のその量産型のドアノブを見たときから、撃鉄を起こした強烈で空虚な事実が脳天に突きつけられていた。
A子さんはそこにはいない。
状況的証拠でもなく、論理的に導き出した結論でもなく、ただそれは抗うことの出来ない事実としてそこに転がっていて、それはそこから先、本来やるべき確認作業を無価値なものにしていた。
結局、そのアパートの前にいたのは5分にも満たない時間だった。それ以上は蛇足だった。
赤信号で立ち止まる。シマウマが目の前の道路を駆けていった。
スマホが振動して、確認すると、丸井からチャットが来ていた。
[今日やすみ?]
返信をするのが億劫だった。A子さんがそこにはもういないと分かっていたはずなのに、あらためてその事実を突きつけられると一種の絶望みたいなものを感じざるを得なかった。
うさぎが元気よくOKと親指を立てているスタンプを送ったあとでそれが文意にあっていないことに気がついた。訂正をする気力はなかった。
信号が青に変わり、歩き始める。
Kに会う必要がある。
A子さんとハンバーガーショップで親しげに話していた人物。A子さんからお金を受け取っていた人物。
ズボンのポケットに手を突っ込んで、固い紙の感触を確かめる。それは世界を移動しても残り続けていた。Kが落とした名刺。紳士クラブのマコ。
スマホで検索をすると、場所はすぐにわかった。会員制の風俗店。
もちろん僕はそのような類の店に行ったことはなかった。店の内装や料金システムやそこで働く人たちについても、勝手に膨れ上がったイメージがあるだけで、僕にとってそこはファンタジーのようなものだった。
気は進まなかったが、行くしかなかった。Kはきっとそこにいる。
彼女は僕が会いに行くのを待っている。客の男と談笑して、煙草を呑みながら。
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