第27話
紳士クラブは駅の裏側、飲み屋街を抜けた先のラブホテルやホストクラブやキャバクラやらが立ち並ぶ通りにひっそりと隠れるようにして建っていた。
夜は酒気を帯びてネオンが怪しく彩るだろうその歓楽街は、平日の昼間だとその顔はなりを潜めて、何年も前に滅びたみたいに閑散としていた。
僕は窓ガラスに自身の姿を映して自分の身なりを確かめてみた。制服は着ていなかったが、高校生というのは隠しきれない感じがした。変装でもしようかと考えたが、きっと無理に背伸びをする不自然さが出るだけで逆効果な気がした。それに、僕は客として行くわけじゃない。Kに会って話をするだけなのだ。後ろめたいことはなにもない。
深呼吸をしてから、僕は紳士クラブの扉を開いた。
はじめに目に入ったのは赤い絨毯だった。エントランスは狭く、通路の奥に階段が見えた。受付があったが、そこには誰も立っていなかった。セクシーな女の人も、スーツを着た強面の男の人だっていなかった。耳を澄ませても人の呼吸は聞こえず、人以外の生き物もそこにはいないみたいだった。
とてもよく手入れされた廃墟といった印象だった。冷房だけがあらん限りの力で室内を冷やしていて、僕は思わず身震いした。
壁には誰が描いたのかわからないシマウマと少女の油絵が飾られていた。牧場でシマウマが草を食んでいて、赤い帽子を被った少女はそのシマウマにもたれかかって、目を瞑っていた。その絵は異質に感じられた。インテリアとして飾られているわけではなく、そこには誰かの強い意志が存在していた。作者のサインやタイトルを探したが、どこにも見つからなかった。
「1987年に描かれたものです」
突然、背後から声がした。振り向くと、髪をオールバックにしたスーツの男がいつの間にか僕の傍に立って、油絵を眺めていた。
「誰が描いたんです?」僕は訊いた。
「さてね」男は首を振り、それから慎重に僕を観察した。品定め、といった方が正しいのかもしれない。そして眉をひそめて不審を滲ませた。
仕方がない。どうみたって僕はティーンエイジャーで、こういう店を利用し慣れている中年のおじさんに見られるなんてことはないんだから。
「当店のご利用は初めてでしたでしょうか」
男の言葉に僕は頷き、それから言った。
「利用しに来たわけじゃないんです。ただ、Kという人に会いに来たんです」
「K?」
「もしくはマコ」
僕は名刺を見せる。紳士クラブのマコ。
男は目を細めて僕が出した名刺を眺め、それからもう一度僕を見た。なにかを考えているように見えた。
「友人のことを訊きたいんです。彼女ならなにか知っているはずだ」
「友人」
男は僕の言葉を繰り返した。それからトントンと人差し指て自身の頭を叩いた。
「ここに入っていいのはお客様と清掃業者だけで、インタビュアーは許可していない」
先程までの慇懃な姿勢は崩れ、男は冷たい目で僕を見る。
「インタビュアーというか――」
「たまにいるんだ。彼らは友人とか彼氏だとか兄だとか様々な理由をつけて女の子たちに会いに来る。しかし実際には元彼だったり、借金取りだったり、拗らせた元お客様だったりする。当然そういう奴らと女の子たちを引き合わせるわけにはいかない。ここは女の子たちでもってるんだ。彼女らに危険があってはならないんだよ。3年前に歌舞伎町でこういうお店で働いていた女の子が刺された事件は知ってるか? 悲惨だった。犯人は店の近くに待ち伏せていて、彼女が出てくると後ろから彼女を抱きしめるようにして彼女の首を掻っ切った。そして彼女から溢れる血液を嬉しそうに頭から浴びた。犯人はストーカーで、もともと彼女を指名していた客だったらしい」
彼はそこまで言って僕の様子を窺った。
「僕は違います」
「どうしてそれがわかる?」
冷房のごぉーという音だけが残る静寂があった。男は依然、僕を睨みつけたままだった。
「学生証があります。これで身分を証明できる。住所だって言える。あとは何があればKに会えますか」
「学生証? 身分? それがなんの役に立つ? へえ、君はどこどこの誰々で生まれてこの方、万引きも信号無視も立ちションすらしたことがないとわかったところで、君は今日初めて犯罪に手を染めるかもしれない」
「⋯⋯どうすれば会わせてもらえますか」
「会わせない」
にべもなく男は言った。「こちらにはなんのメリットもない。それで君が困ったところで私には何の関係もない」
「Kには関係がある」僕は言う。
「随分強気だな」男は驚いたような、馬鹿にするような声を出す。「もしかして私たちが正当に君と取引をすると思ってるんじゃないだろうね? 法律が君を守ってくれると勘違いしてないか?」
彼はシマウマの絵に近づき、そっとその金の額縁に触れた。その絵が確かにそこに存在しているかどうか確かめるみたいに。
もしかするとこの絵の奥には小さな金庫のようなものがあって、その中には拳銃やナイフなんかが収められているのかもしれなかった。
そして、男はふとため息をついた。何かを諦めたようにも感心したようにも単に息が漏れただけにも見えた。
「グエンを呼ぶ」
男は言った。
「グエン?」
「彼と話せ」
男はそれ以上何も言わなかった。僕もそれ以上なにも尋ねなかった。説明されないのはもう慣れていた。
待合室に案内され、そこで待つように言われた。
待合室では白黒の無声映画が滔々と流れていた。ジョニス・モンローがお金持ちの令嬢としてコメディックな演技をしていた。名前を知っている俳優は彼女しかいなかった。舞台は戦時中のドイツであろうことはわかったが、それ以外は何もわからなかった。ストーリーもジョニス・モンローがどういう役なのかも、なぜチャーチルとヒトラーがジョニス・モンローを取り合っているのかもわからなかった。その映画を観ながらそこで十五分ほど待っていると、受付の男が待合室に現れた。その後ろから大きな体躯の男が顔を覗かせた。その男を僕はどこかで見たことがある気がした。
後から現れた男は言った。
「グエンだ」
グエン。その名前から顔立ちをよく見てみるとどうやら日本人ではないようだった。東南アジア系だろうか。しかし彼の話す日本語はとても流暢だった。
彼も受付の男同様、黒のスーツに身を包んでいたが、スーツの上からでも分かるほどにその身体は鍛えられていた。
「腹は減ってるか?」続けてグエンは言った。
僕は首を振る。
「減ってなくても食えるだろう」
「ええ」と僕は言う。「少しなら」
「よし。ついてこい」
僕はわけも分からず立ち上がる。
どこに行くというんだろう?
受付の男は興味をなくしたらしく、既にどこかに行ってしまっていた。
そして、僕は気がつく。彼は、グエンは水の中の街でKとともにいた男だった。
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