第28話
「傭兵をしていたんだ。カンボジアの紛争に出兵した。五年ほど前のことだ」
グエンはそう話した。グエンは紳士クラブを出、閑散とした通りを迷いのない足取りで進み、僕は彼の四歩後ろを歩いていた。
「今はあそこで雑用係をしている」
「雑用係?」
「女の子たちの要求にイエスという仕事さ。水を買ってきて。イエス。家まで送って。イエス。愚痴を聞いて。イエス。今の彼氏と別れたいからなんとかして。イエス。庭の雑草が伸びてきたから刈って。もちろん、イエス。お金を貸してとかまでは流石に無理だがね」
「どうして雑用係に?」
彼はぽんぽんと自身の右脚を叩いた。
「流れ弾を受けた。その場で適切な治療を受けられれば良かったんだが、あいにくそれは叶わなかった。結局切断をする羽目になって今は義足を付けている。日常生活にはなんの支障もないが、傭兵を続けるのは難しくてね」
僕は彼の脚を見た。そこにはなんの違和感も見受けられなかった。とても正常に見えた。
「傭兵を辞めてからしばらく何もせずにぶらぶらしていた。すると俺が何もしてないことをどこから聞きつけたのか元傭兵仲間から日本に来ないかと誘われた。腕っ節の強いやつを探していると。別に誘いに乗っても乗らなくてもどっちだってよかった。たまたま電話を受けたときに手元にリボルバーがあった。弾を一発だけ残して、残りを抜いた。ここで頭を撃って死ななかったら誘いに乗ろうと思った」
彼は微笑み、人差し指と親指を立てて拳銃に見立てると、その小さな想像の銃を自身のこめかみに当てた。
「なぜそんなことを?」
「そのとき、俺の人生はほとんど終わっていたんだ。全てをやり終えてあとは死を待つだけの老人みたいだった。どっちだってよかったんだ。だから運に任せた。俺は死ぬべきか、まだ生きてやるべきことがあるのか神に委ねようと思った」
そして、彼は続けた。
「結果はこの通りだ。神は俺にまだ生きるべきだと言った。生きて日本の風俗店で働く女の子たちの要求を聞くべきだと」
どうして彼はどっちだってよかったんだろう?
脚を失ったのは確かに大きなショックだと思う。けれど、彼がそのような考えになるのはそれが大きな要因では無い気がした。彼はきっと別の何かに絶望していたんだと思った。僕は彼の人生について考えた。彼が何を信じて、何を経験して、何を愛したのか想像してみた。
「なぜ傭兵に?」
「稼げたからさ。人間の動機なんて金か愛しかないんだ」そして僕を見た。「君がけーに会いたいというのはどうやら後者かな」
そのことに正直に答えるか迷った。受付の男は倒錯した愛を持つ人間が女の子たちに危害を加えることを警戒していた。僕の動機が愛であるならばそれは彼ら目線では危険因子となるんじゃないか。そう考えたけれど、誤魔化すのは不可能だとすぐに思い直した。彼の言う通り、人間の動機なんて大抵金か愛で、僕が金銭トラブルを起こすなんて見えそうにない。誤魔化す方が返って不自然だった。
僕が頷くとグエンは嬉しそうに笑みを見せた。
「正直だな」
「Kに危害を加えるつもりは無い」僕がそう付け加えると「意図せず傷つけてしまうことの方が多いんだよ。悲しいけれど」と彼は言った。
「自覚していないだけで君が傷つけている人もいる」
そして、顔を上げ、息を吸った。
「それに気づけず、俺は妻と娘を失った」
僕は何を言うべきかわからなかった。彼は本当に傷ついて、打ちのめされているように見えた。体格差があって、戦闘経験もきっと僕なんかとは比べ物にならないくらいに豊富な彼を今なら簡単に無力化できる気がした。
グエンは横断歩道で立ち止まった。信号は赤だった。
「そこだ」と彼が指差した先はなんてことはない何処にでもあるファミリーレストランだった。秘密の合言葉を言うと多種多様な武器がずらりと出てくるみたいな彼らのアジトっていうわけでもなさそうだった。
信号が変わり、グエンは再び歩き始める。横断歩道を渡る僕らをシエンタやハイエース、シマウマや軽自動車、大型二輪なんかが暇そうに眺めていた。
「けーに君のことを訊いた」グエンは言った。「田淵から――あの受付にいた男だ――君のことを聞いた時にすぐにけーに連絡をとった。君に会いたいという少年がいるらしい。知り合いか、と」
彼は僕の方に一瞬目を向けて、すぐに前に向き直った。
「けーは知らないと言っていた」
僕は唾を飲み込んだ。とても冷たい声だった。殺されるかもしれない、と思った。それは言い過ぎでもそれに準じた暴力を受ける可能性も十分にあった。
Kが僕のことを知っているはずがない。水に沈んだ街で、僕が彼女を一方的に見ただけなのだ。
「どういうことだ? お前とKはどういう関係だ?」
グエンは立ち止まり、僕に向き合った。ファミリーレストランの目の前まで来ていた。
「……グエンさん」
「グエンでいい」
何を言うべきかわからなかった。どうすればこの男の疑念を払拭できる? 正直に全てを話すか? 無理だ。水の街で見かけたなんて誰が信じられる? Kは僕のことを知らない。その時点でグエンたちにとってKと僕を引き合わせるメリットなんてない。何を言えばいい?
「グエン。あなたはさっき、自分でも気づかないうちに誰かを傷つけていることがあると言った。むしろそのことの方が多い、と」
A子さんの顔を思い浮かべた。そしてグエンが先程、家族を失ったと話していたときの表情を思った。きっとA子さんがいなくなってから、僕も同じ顔をしていた。打ちのめされて、世界に絶望していた。
「……謝りたいんだ。僕は彼女を傷つけていたのかもしれない。嘘をついた。もう一度会って、謝りたい」
グエンは眉を顰めた。
「そのためにKに会う必要がある」
「君の言う謝りたい人というのはけーではないのか?」
「ええ。でも関係がある。たぶん、密接に」
彼はしばらく厳しい表情をしていた。彼の思考の流れが見えるみたいだった。目まぐるしく、多くの疑念が浮かび、排除していく。濃縮された時間だった。やがてグエンは表情を緩め、鼻から大きく息を吐いた。そして首の後ろを掻いた。
「実を言うと、けーはお前のことを知らないと言った後でこう言った。会う、と。もともとけーが会わないと言えば会わせないつもりだったし、会うと言ったなら会わせるつもりだった」
「え、じゃあ――」
グエンは僕の言葉の続きを待たずに店に入った。店員の案内を断り、真っ直ぐ奥のテーブル席に向かうと「お待たせしました」と言った。
そこにKが座っていた。もう何年も前からそこで僕を待っていたみたいに。
Kはアイスコーヒーをストローを使って飲んでいて、ふと目線を上げて僕を見た。丁寧に僕を観察した後でKはようやく微笑み、口を開いた。
「やあ、円くん」
ゼブラと信号機のレディ ちくわノート @doradora91
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