第12話
「ハニートースト」
「え?」
「ほら、あそこ」
A子さんが指を差した先にはカフェがあって、入口に置かれた小さな黒板には可愛らしくほぼ1斤の食パンの上にバニラアイスが乗り、その上に蜂蜜をふんだんにかけたハニートーストの絵が描かれていた。
「わたしの夢なんだ。あれ」
「ハニートーストになることが?」
「そんなわけないでしょ。朝、早起きして太陽がまだ昇りきっていないうちに町を歩くの。犬を散歩させてる人とすれ違って、ジョギングをしている人に後ろから抜かれる。世界が今日という日を心待ちにして、楽しみにしていた舞台を今か今かと席に座ってパンフレットを見ながら待っているように静かに騒がしくなっていく時間帯。わたしはふらっとあんな感じのカフェに入って優雅に珈琲とハニートーストを食べる。きっとハニートーストは思ったよりも甘くて、一杯の珈琲じゃ中和しきれない。そして思ったよりもそのハニートーストは大きくてわたしは食べきれないかもしれない。それでもそういう朝を過ごせれば一日は最高のものになる」
「ふうん。やればいいじゃないですか。明日にでも」
「それが不可能だから夢なんだよ。一日は短すぎる。特に朝は。ハニートーストなんか食べてたら確実に遅刻しちゃう」
「それじゃあ休みの日ならいいんじゃないですか」
「わたしが休日の睡魔に勝てると思う? いつも会社に行くために甘えてくる睡魔をなんとか引き剥がして起きてるんだよ。休日くらい睡魔を甘やかしてもいいでしょ。そうじゃないと睡魔が可哀想」
「じゃあ約束をしましょう。僕と日曜日の朝、ハニートーストを食べる約束。人と待ち合わせをしてると思えばA子さんも心を鬼にして睡魔を引き剥がしてくれるはずです」
「うーん。たしかにね。それは一理あるかもしれない。でもそれでわたしが結局睡魔に負けて来なくても怒らないでよ」
「そういう保険が良くない。来なかったらめちゃめちゃ怒りますよ。僕。絶対に来てください」
A子さんはやや不服そうに下唇を突き出す。
「頑張るよ。きっと」
僕らは横断歩道の前で止まる。歩行者信号は赤。目の前を車が走り抜けていく。
目的地は公民館。僕が昨日シマウマを見つけた場所になっているところ。
僕がシマウマを見つけたと言った時、A子さんは目を輝かせて僕を質問攻めにした。
なんで早く言ってくれなかったの、という問いにはせっかく見つけたのにみすみす逃がしてしまったのが申し訳なかったから。
どこで? 公民館の近く。
何頭? 1頭。
何時くらい? 18時過ぎ。
雄? 雌? わからない。
シマウマはどこに向かって行った? 東の方。
あまりにも流暢にそれらの嘘は溢れ出た。その嘘を恐らくA子さんは信じた。嘘をつくと大なり小なり胸が締め付けられると思っていた。しかしその時僕が抱いたのは安堵だった。これからもきっとA子さんと『午前と午後のゼブラ』の活動を続けられるという。僕は自分がそのような最低な人間であると知る。
信号が青に変わる。
僕らは再び歩き始めて白と黒のしましま模様の上を通る。Zebra crossing。
「Zebra crossingって言うんだよね。横断歩道のこと」
僕はA子さんの顔を見る。
「Cross walkとかPedestrian crossingとも言うらしいけど、わたしはZebra crossingが一番好きだな。わかりやすいし可愛い」
白と黒のしましま。ゼブラ。この縞模様が僕とA子さんを繋いでくれている。そう考えると縞模様が愛おしく思えた。
「僕もそう思います」
「ほんとに思ってる?」
「心の底から」
A子さんが突如足を止め、声をあげる。
「あ」
「え?」
「シマウマ!」
A子さんの視線の先を追う。見覚えのある縞模様。シマウマが居た。シマウマは高架下に佇んでいて、くるりと顔を僕らの方に向けるとゆっくりと走り始めた。
「追うよ!」
「はい!」
シマウマは町中を悠然と走る。たてがみをたおやかに揺らし、狭いはずの歩道をサバンナで走っているみたいに自由にすいすいと進んでいく。
距離が少しずつ開いていく。
「捕まえるぞおお!」
隣でA子さんが息を切らしながら叫ぶ。
「はい!」
絶対に捕まえる。シマウマの謎を解明するために。『午前と午後のゼブラ』のために。A子さんのために。
僕は地面を力強く蹴り上げる。
シマウマは横断歩道を駆けていく。
「あ」
歩行者信号は赤だった。
車がシマウマに向かって突っ込んでいくのが見えた。シマウマは車に驚いたのか、足を止めて向かってくる車を呆然と眺める。
そして次の瞬間、シマウマはどろりと横断歩道に溶けて消えた。
シマウマがつい先程までいた場所の上を車が通り過ぎていく。
僕らは横断歩道の手前で足を止める。
「······見た?」
「はい、しっかりと」
「まじか」
信号が青に変わった。
僕らはシマウマが消えた横断歩道の真ん中付近まで進むと横断歩道を調べる。他の歩行者が横断歩道の真ん中で座り込む男女を怪訝そうな顔をしながら見て、通り過ぎていく。
地面を触ってみてもざらざらとしたコンクリートでそこにはなんの違和感も存在し得なかった。
横断歩道は何の変哲もない横断歩道だった。
「シマウマは液体だった」
A子さんは言った。
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