第11話

 目を覚まして枕元に置いてあったスマホを手に取る。スマホの画面には5時49分と表示されていて、窓の外はまだ暗い。


 首を持ち上げて丸井の様子を伺うと丸井はまだベッドの上で軽くいびきをかいていた。


 僕は床に敷かれた布団を音を立てないように綺麗に畳んで端に寄せ、LINEで簡素に泊めてくれたお礼と先に家を出る旨を伝えると窓をそっと開けて新聞紙の上に置かれていた靴を外に出した。


「ん⋯⋯。もう行くの?」

「あ、悪い。起こしちゃったか。そう。もう行くわ。ありがとな。泊めてくれて」


 丸井は手を挙げて僕の言葉に応えると再び毛布を被って寝息を立て始めた。


 僕はその様子を確認してから荷物を纏めて外に出た。

 空気はひんやりとしていて僕は身震いをする。

 庭を抜け、歩いて五分ほどの距離にあるコンビニに向かうと、そこで缶コーヒーと菓子パンを2つ買った。

 そのまま缶コーヒーと菓子パンが入ったレジ袋を揺らしながら河川敷を目指す。


 健康のためかジョギングをしている人は2人ほど見かけたが、それ以外の人は見かけなかった。世界はしんと静まり返っていた。それは嵐の前のように。

 イヤホンを耳に突っ込んで『Day dream believer』を流す。そしてそれを口ずみながら歩いた。


 河川敷にはすぐに着いて、土手に座ると先程買った缶コーヒーを開けて一口飲む。葉蔵さんが淹れるコーヒーには及ばないが、それは微かに残った眠気を飛ばすには良かった。袋から菓子パンを取り出して齧った。


 A子さんのことを考える。

 今日は『午前と午後のゼブラ』の見回りがある。A子さんに会えるし、A子さんに『図書館』のことも話すことができる。A子さんは『図書館』に興味を持って行ってみたいと言うかもしれない。

 そして僕らは『図書館』でシマウマについて調べる。葉蔵さんが淹れてくれた珈琲を飲んでA子さんは舌鼓を打ち、どうやって淹れているのかを訊く。葉蔵さんは企業秘密だ、と言うとA子さんは不満げに頬を膨らませる。


 そんな想像をする。

 その時、僕は自分に不都合なことや少しの違和感を忘れている。自分が見たいと思うものしか見ていないことを自覚していない。


 パンを食べ終わってゴミをレジ袋にまとめて突っ込んだとき、世界は明るくなり始めていた。


 〇


「お前、俺より遥かに早く起きて出ていったのに遅刻かよ」

「どうやら時間の流れ方が違うみたいだ。学校はせかせかし過ぎている」

「馬鹿言え。お前が遅いんだ」


 渕と周平は将棋を指している。渕は居飛車、周平は四間飛車。局面は中盤で、駒の損得こそ無いが周平側は攻め手が作りづらく、やや渕が有利といったところ。周平は長考が多くなってきている。


「おい、早く指さないと休み時間終わるぞ」


 丸井がそう声をかけると「わかってる。わかってる」と返ってくる。しかし周平の手が動く気配はない。盤面を一心に見て手を探している。

 ようやく周平が一手進めるが、渕はすぐに次の手を指して周平はまたもや長考に入る。


「今日もなんか賭けてんの」

「ジュース1本だって。よくやるよ。いつもぼろぼろに負けてるくせに」


 僕と丸井がそう話していると「前回は惜しかった」と盤面に顔を向けたまま周平が言った。


「俺が桂馬の効きを見逃してなければ勝ってたんだ。前回は」

「へえ。それで? 今回は勝てそう?」

「まだ⋯⋯分からん」


 丸井が僕に向き直る。


「お前はどっち?」

「渕が勝つ方にジュース1本」

「俺も渕が勝つ方にジュース1本」

「それじゃ賭けにならんだろ」

「うるせえぞ。お前ら」


 そう言いながら周平が指したその手は大悪手で次の瞬間には飛車をただで取られていた。


「あ」

「ほら」


 周平はがっくりと項垂れる。


 〇


 僕が家柄木緑地公園(そこが見回りを始める際の集合場所だった)に着いた時にはA子さんは既に僕を待っていた。普段は僕が先に着いているため、僕は少し驚く。


「やあ」


 A子さんは手を上げてそう言う。


「早いですね。今日」

「そうかな。そうかもしれない」

「仕事、早く終わったんですか」

「ううん。いつも通りだけど。何故だか早く来ることが出来た気がする。もしかしたら気のせいかもしれないけれど」


 僕は頷く。それは大した問題では無いと考える。


「それじゃあ行きましょうか」

「あ、ちょっと待って」

「なんでしょう」

「そういえば今朝会わなかったね。横断歩道で」

「ああ、今日は事情があって友達の家に泊まっていたから」

「ふうん。ああ、いや。言いたかったのはそうじゃなくって、ええと、私たちほぼ毎日のように見回りをしてるけど今までシマウマを見つけられてないでしょ」

「⋯⋯はい」


 嫌な予感がした。


「だからさ。もし今日も見つけられなかったら解散しようか。『午前と午後のゼブラ』。」


 一瞬頭が真っ白になる。それは僕が絶対に聞きたくない言葉だった。僕の聞き間違いではないかと何度も頭の中でA子さんの言葉の音を並べ直す。何度並べ直してもそれは正しい位置に収まり、淡々とした事実を僕につきつける。


「ごめんね。今まで付き合わせちゃって。円くんだって忙しいのに。でも今日でお終い。そもそもシマウマを見つけたところでだからなんだっていう話だしね。まあそれでも今日は全力で探すよ。ラストチャンス! 頑張ろう!」


 嫌です。僕はいつまでもあなたと一緒に『午前と午後のゼブラ』の活動を続けたい。たとえ実在しないシマウマをずっと探し続けるという不毛な活動だとしても僕はあなたと一緒にいたい。

 そう言いたい。伝えたいが、喉に引っかかってうまく発声出来ない。


 A子さんは既に僕に背を向けて歩き始めている。このままでは『午前と午後のゼブラ』は解散してしまう。嫌だ。それは絶対に嫌だ。


「あの!」


 A子さんが振り向く。


「見ました。昨日。シマウマを」


 A子さんの目が見開かれる。


 僕は嘘をついた。

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