第10話
「残念ながら、そろそろお時間のようだ」
その声で顔を上げて壁掛け時計を見る。5時55分。閉館5分前。
机の脇には葉蔵さんが探してきてくれた数冊のシマウマに関する本が積まれている。
「今回読みきれなかった分はまた来て読むといい」
葉蔵さんは数冊の本を纏めて立ち上がる。葉蔵さんも僕に付き合ってシマウマについて調べていてくれたようで、彼が手に持ったその数冊の本は全て既に読みきってしまったらしかった。僕の右手側に積まれている本の殆どは手つかずだった。
「何かめぼしい発見はあったかな」
力なく首を横に振る。
僕がシマウマについて関心を抱くようになった経緯については詳しく葉蔵さんに話していた。高校前にシマウマが突如現れたこと。別日に再びシマウマを見つけ、追いかけていくともう一頭のシマウマとシマウマを追うA子さんに出会ったこと。僕らがシマウマの謎を解くための『午前と午後のゼブラ』という同盟を結んだこと。
「簡潔に言えば、君は奇跡のように結ばれたそのA子さんとの繋がりを切りたくないわけだ」
葉蔵さんは話を聞き終えると全てを見透かしたかのようにそう言った。
隠すのは無理があるし、葉蔵さんに対して僕の心を隠しても仕方がない様な気がして渋々頷いた。
「まあ君と僕は会ってまだ数十分の関係だが、僕は君に縁のようなものを感じている。親しくなれるようなね。協力をしよう。君とA子さんの関係が続くように」
僕も葉蔵さんにならって本を纏めて立ち上がると、葉蔵さんは僕の手から本を受け取り、閲覧室を出る。
「また来れるでしょうか」
「え?」
階段を降りながら、葉蔵さんは振り向く。
「僕はまたこの場所に来れるんでしょうか」
葉蔵さんは一瞬不思議そうな顔をした後、笑顔になり、言った。
「もちろん、真に君がそれを望むのなら」
僕は『図書館』を出たあとも何度か振り返り、そこに『図書館』があることを確かめた。その場所がシマウマのように跡形もなく消えてしまうのではないかと思ったが、『図書館』はいつまでもそこにあり続けた。
僕は『図書館』に来る前と比べ、少しばかりシマウマについて詳しくなって帰路に着いた。
自宅に着き、玄関の扉を開けた時、そこに見覚えのない大きな靴が一足並べられているのが目に入った。
扉を開ける音が聞こえたのか、母が奥の部屋から顔を出すと「ごめん!」といった様子で片手で僕に謝り、再び部屋の奥に引っ込んだ。母は家の中にいるにも関わらず、普段よりもおめかしをしていた。
僕はその様子で状況を察して、出来るだけ音を立てないように2階の自室に向かうとタンスから着替えを引っ張り出してリュックサックに詰め込み、再びそろりそろりと階段を降りて外に出た。
今、家の中には母とその彼氏がいる。僕はその彼氏が誰なのかは知らない。何の職業をしているのか。かっこいいのか不細工なのか。高学歴か低学歴か。僕は母の彼氏について一切の情報を持たない。
僕は今日、泊まる場所を探さなくてはいけなくて、しかし僕は金欠だった。このように母が男を連れ込む時はいつも僕は外に追い出され、適当にネカフェや友達の家、もしくは公園のベンチで夜を過ごすことが度々あった。
この時の夕食代や宿泊費は後日、母がお金を渡してくれるが、やはりそれは全て後精算であって前借りをすることは難しかった。
やろうと思えば、家に戻って母からお金を貰うことは出来るのだが、彼氏がいる中で僕が顔を出すことを母はいい顔しないだろうし、また僕も自分の母親の彼氏と顔を合わせたくはない。
したがって、今日泊まる場所は友達の家か公園のベンチだが、当然ながら公園のベンチは最終手段だった。
渕の家はここから遠く、電車で1時間近くかかる。今の僕にその電車代を捻出する能力は備わっておらず、渕の家の大きく柔らかいベッドを諦めて周平に電話をかける。
3コール目で周平は出た。
「急にごめん。悪いんだけど今日お前ん家泊まらせてもらうことって出来る?」
「あー、なに。また彼氏来てんの」
「そー。このままだと今日、野宿になっちゃうからさ。なんとかならない?」
「いや、すまん。今日俺ん家も姉ちゃんの彼氏が来てて、俺も追い出されそうなんだわ」
「まじか」
「まじ」
「あー、そっか。ありがとう。お互い頑張ろうぜ」
「おう」
電話を切る。やはりどの家でも女性陣の権力は強いようで、僕はこのとき女に生まれなかったことを少しばかり悔やむ。
スマホの画面をスクロールして丸井の名前を見つけ、タップする。電話はすぐに繋がる。
「もしもし」
「丸井、悪いんだけど今日泊まれる?」
「えー、またー? 俺はいいけどさ。また窓から入ってこいよ。見られないように。あと風呂が使えないのは覚悟しといてな」
「まじか。助かる。風呂は大丈夫。なんとか銭湯代は絞り出せそうだから、銭湯寄ってから行くわ。まじ丸井愛してる」
「うるせぇ」
僕は取り敢えず、今日の宿泊場所を見つけられたことに安堵して銭湯に向かう。
丸井の家に着いたのは21時を回った頃だった。
僕はすっかり馴染んだベージュの家を見つけると、できるだけ音を立てないように庭に回り込んだ。
庭に面した窓から室内の明かりが零れて、綺麗に手入れされた芝生を照らしている。
僕は体を縮めて、その室内の様子を少し探ったあと、軽く人差し指の第二関節で窓を叩く。
窓はさっと開き、中から白くほっそりとした手が伸びる。僕は右足の靴を脱いでその手に手渡すと、右足をそのまま窓のへりに乗せる。その後、左足を持ち上げて靴を脱ぎ、丸井にそれを手渡してから僕は丸井の部屋に侵入した。
「スパイ映画みたいだ」
「大袈裟だろ」
僕が手渡した靴は新聞紙の上に載せられ、部屋の隅に置かれていた。
丸井の部屋はぬいぐるみが多く飾られ、白を基調とした部屋だがアクセントのようにパステルカラーの小物が置かれていた。
それらはきっと丸井の趣味ではない。
「可愛らしいだろ?」
僕が部屋を見ていることに気づいたのか、丸井が口を歪ませてそう言った。
「まあね。相変わらず」
丸井はため息をつく。
「早くここを出たいんだけどね」
その言葉は諦念を孕んでいる。
「難しいんだろ? それは」
僕が言葉を継ぐと、丸井は頷く。
「あの人たちからしてみれば俺は自慢の娘だ。可愛らしくて頭が良くて気立てがいい。自分たちの安心のために囲っておきたいのさ」
丸井の口から発せられるそれは自慢でも冗談でもなく、憎々しい事実として語られる。意図せず口に入れてしまった嫌いな食べ物を吐き出すように。
僕は丸井の肩ほどまで伸びた栗色の髪の毛を、大きな瞳を、小さな口を、控えめに主張する膨らんだ胸を見る。丸井が丸井でなかったのならきっとその恵まれた容姿を活かし、かっこいい男と付き合い、結婚して幸せに暮らしたんだろうと思う。しかし、そうはならない。いや、そもそもこの考えがステレオタイプに囚われている。
「視点を変えれば探していたものは見つかるかもしれない。レンチキュラーのように」
舞城さんの言葉が再生される。その言葉は一体何について言っている?
シマウマが駆ける。あのシマウマはどこから来た? 果たしてあのシマウマは本当にシマウマなのだろうか。
紙をめくる音。葉蔵さんの横顔。なぜ僕は『図書館』に導かれた? 入ってはいけないあの白い扉はどこに繋がっているのだろう。
僕は雑然とした考えを頭から振り払う。これは僕の癖かもしれない。思考があちこちに飛んでいくこと。
話を変える。できるだけ明るい口調で。
「そういや、カラオケどうだった?」
「あー、楽しかったよ」
「それはよかった」
「今度はお前も来いよ。女の子に囲まれて渕が可哀想だ」
僕は言葉に隠れる棘に気付かないふりをして頷く。
「今度は行くよ。予定が詰まっていてもきっと空ける」
僕のその言葉はきっと確証を持たない。
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