第9話

 彼は自身のことを葉蔵と名乗った。


「人間失格」

「え?」

「読んだことない? 太宰の『人間失格』。同じ名前なんだよ。『人間失格』の主人公と。僕の両親が『人間失格』を読んでいたかどうかは知らないけれど」


 彼は滑らかにそう言った。きっとそれは言い慣れているのだろう。あまりにも自然にその言葉は流れた。


 葉蔵さんは僕を『図書館』の中に招き入れると、入口から入ってすぐ右にある小さな部屋に案内をした。そこは中央に年季の入った木製のテーブルが設置され、それを挟むような形で革の二人がけソファが置いてあった。僕はそのソファに座らされた。その後、僕の目の前に珈琲の入ったカップが置かれた。珈琲の芳しい香りが部屋に漂う。


「砂糖、ミルクは?」


 そう訊かれ、僕は首を横に振る。


「好みが同じだね。僕も珈琲はブラック派だ」


 彼はそう言って、自分の分のカップを手に僕の真向かいに腰をかけた。

 僕はテーブルの上に置かれた珈琲を一口飲む。


「美味いだろう。それは僕が淹れたんだ。自信過剰に聞こえるかもしれないが僕が淹れる珈琲は相当美味いよ。数少ない僕の特技でね。もっとも、それもいい豆があっての話だがね」


 それは事実だった。その珈琲は僕が今まで飲んだ珈琲の中で一番と言っていいくらい美味しかった。

 珈琲を飲みながら葉蔵さんの顔を見る。歳は20代から30代前半くらいだろうか。しかし、彼の所作は洗練されていて、もう少し上の年齢だと言われても違和感はなかった。


「······美味しいです」

「それはよかった。言ってくれればいつでも淹れるよ。もちろん無料で。閲覧室は飲食厳禁だけど、この部屋と、それから後で案内をするけど休憩室のようなところがあってね。そこならいくらでも飲み食いしていい。僕が淹れる珈琲も飲み放題だ」

「ええと、あなたがここの管理人なんですか」

「いいや、僕はただのアルバイト、というかお手伝いというか、まあそのようなものだと思ってもらえれば。管理人は別にいてね。ただその人は滅多に姿を現さないから、館内で困ったことや気になることがあったら僕に言って。ああ、そうだ。ちょっと待ってて」


 葉蔵さんはそう言って一度その部屋から出ていくと、数分後に何枚かの紙を持って再び戻ってきた。


「ここの説明をしなければね。ここは小さいけれど蔵書数は10万冊ほど。本はこの『図書館』から持ち出すことは出来ないけれど、館内ならもちろん自由にどの本でも読んでもらって構わない。ああそう、読み終わった本はそこのカウンターの近くに置いてある籠の中に入れておいて。僕が元に戻しておくから。

 ええと、それから―――」


 彼はそう言ってテーブルの上で一枚の紙を僕の方に向けて差し出す。


「利用者カードを作る必要があってね。この用紙に名前と住所、連絡先を書いてほしいんだ。ここと、ここ。それからここの欄」


 ほっそりとした指を用紙の上で動かしながら彼は説明する。


「あー、あの」


 葉蔵さんは用紙から顔を上げ、僕の顔を見た。


「あの、本当はここに来るつもりはなくて」


 彼は片眉を少し上げる。


「······おや、僕の早とちりだったかな。すまないね。てっきりこの『図書館』に用事があるものだと」

「ああ、いえ。いいんです。元々図書館を目指していたので、ここが図書館だというのなら僕の目的は果たせると思います。ただ不思議なことがあって」

「不思議なこと?」

「元々、町の真ん中の方にある市営の図書館に行くつもりだったんです。僕はそこを目的地に設定をして、マップアプリの案内通りに歩くとここにたどり着きました。一応訊きますけど町の方の図書館がここに移設したって訳じゃないですよね」

「ふむ。そうだね。町の図書館とここは別物だ。確かに不思議なことかもしれないけれど、もしかするとそれは機械のバグのようなものかもしれないし、君が勘違いをして目的地の設定を間違ったのかもしれない。まあ、いずれにせよ。そののおかげで僕らは出会えたわけだ」


 僕は用紙に個人情報を記入しながら葉一さんの言った内容を考える。機械のバグ。僕の設定間違い。


「円くんというのか」


 葉蔵さんが僕の手元を覗き込んでそう言う。


「いい名前だ。円というのは最も完璧な形の図形だから。シンプルで複雑で美しい」

「果たして僕の母親がそのことを承知の上で名付けたのかは分かりませんけど」


 僕がそう言うと葉蔵さんは少し不思議そうな顔をして、その後笑いだした。


「いずれにせよ、きっといい意味が込められているんだろう。それはもちろん、君も僕も」


 彼は僕が書き終えた用紙を取り上げてざっと目を走らせると、立ち上がった。


「よし。じゃあ館内を案内しようか。これは君が望めば、ということになるけれど。もちろん君はこの申し出を断ることが出来る。一切の申し訳なさを感じる必要も無く」


 僕が葉蔵さんに案内をお願いすると彼は微笑んで、その部屋を出た。僕も彼の後を追って部屋を出る。

 葉蔵さんは流暢に話しながら本棚の間を歩く。ここからここまでが近代日本文学、ここは海外文学、ここのエリアは専門書、といった具合に。

 その『図書館』の一階部分は全て本で埋められており、二階は半分が本のスペース、もう半分が閲覧室と休憩室に分けられていた。


「それから、この先。ほら白い扉が見えるだろ。あそこだけは入らないでくれ。この『図書館』にはいくつかの小さなルールがあるが、白い扉の部屋には入らない、というのはこれまで説明したルールよりも遥かに大きなルールで、正直、それさえ守ってくれればその他のルールは破ってもいいくらいだ。······まあ、それは流石に冗談だけど、それくらい重要だと覚えておいてくれ」


 僕らが2階の休憩室を見た後に休憩室前の廊下の先にある白い扉を指差しながら彼は言った。その白はペンキで塗られているようで、所々ペンキが剥げて、元の木の色が顔を覗かせていた。

 彼の言い方は単にStaff Onlyの部屋について言っているというよりはこの『図書館』の重要な秘密がその部屋に隠されているかのような慎重な言い方で、僕はそのことに少し引っ掛かりを覚えた。


「これで大体全部かな。疑問点はあるかな?」


 僕が首を横に振ると彼は満足そうに頷いた。


「さて。ええと、君は何を求めてこの『図書館』に来てくれたんだったかな」


 僕はどう言おうか迷う。町中に突如現れたシマウマの正体を探るためだと言ったら彼は信じてくれるだろうか。しかし結局は正直に言うことにした。


「僕はこれから少し変なことを言うかもしれません」

「構わないよ」


 彼が頷いたのを確認して僕は言う。


「シマウマを探しているんです」


 彼は一瞬きょとんとした表情になる。


「シマウマ?」

「そうです。白と黒のあのシマウマです。なので、シマウマに関する本を探しに来ました」

「ええと、それは図鑑だとか?」

「図鑑でも小説でも、シマウマが出てくるのであればなんでも」


 僕の要求に首を捻りながらも、葉蔵さんは少し考える素振りを見せて「わかった。探してみよう」と言った。

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