第5話

「えいこさん」


 僕は先程彼女が口にしたその名前を繰り返す。


「英語の英ですか?」

「ううん。アルファベットのA」


 彼女はにかっと笑って両手でAの形を作ってみせる。

 公園でシマウマを見失った僕らは近くのチェーンの喫茶店に入り、向かい合わせで座っていた。そこは窓際の席で外の様子を簡単に見ることができた。

 テーブルの上に置いてあるアイスコーヒーの氷が溶け、からんと音を立てる。


「A子さん」


 再び繰り返す。


「本名、じゃないですよね?」

「まあ、そうだね」

「ええと、それは僕と会ったばかりだからとかそういうことですか」

「まあ、それもあるかもしれないけど謎めいている女の方が魅力的でしょ?」


 彼女は片眉を上げ、ストローでアイスコーヒーを飲む。確かにその姿は彼女のことを見る男たちを骨抜きにするかのように魅力的だった。

 彼女のマスクをとった姿を見るのは初めてなことに気がつく。その姿に違和感を抱くようなことはなく、かといって思い通りだったというのは違う気がして、僕は適切な言葉を探す。たぶん、自然という言葉が近いかもしれない。


「円くん、だったよね」

「はい」

「シマウマを見たのは今日が2度目」

「はい」

「前見たシマウマと今日見たシマウマに違いのようなものはあった?」


 僕は記憶を探る。シマウマの白黒の模様を、彼らの筋肉を、黒い目を思い出す。


「わかりません」


 彼女は細くため息をつく。


「どうしてシマウマは消えてしまったんだろう」

「わかりません」

「……ちょっとは考えてよ」

「考えてます。考えてるんですけど、さっぱりわからないんです。シマウマが消えるなんて有り得ないし、たまたまあのシマウマが公園を出ていくところを見ていなかったって考えた方がまだ説明がつく」

「あの狭い公園で2頭のシマウマを見失ったなんて有り得る?」

「でも僕もそうですし、A子さんもシマウマたちから一度も目を離さなかったわけではないでしょう?」


 A子さんは口を閉じて、アイスコーヒーのストローを弄ぶ。


「わたしはシマウマを見たのは今日が初めて。会社の目の前にあのシマウマがいて、朝は皆興味深そうにシマウマを見ながら出社してた。でもそれだけ。皆がそれ以上シマウマに興味を示さなくて、わたしはずっと気になって窓からそのシマウマを見ていた。朝から夕方までそのシマウマは同じ場所に居続けて、もしかしたらそのシマウマは本物じゃなくてマネキンかなにかじゃないかって思ったの。とてもよく出来た、本物と見間違えるようなマネキン。朝、わたしが近くでそのシマウマを見た時もちらっとしか見てなかったからね。それで外に出て近づいてみたらあのシマウマは逃げ出したの。そのシマウマの後を追って行ったら君ともう一頭のシマウマがいた」


 A子さんはそこで一呼吸置く。


「君は五頭のシマウマを見た。昨日。そして今日、一頭のシマウマを見かけて追いかけたらあの公園にたどり着いた。そうだね?」


 僕は肯く。


「どちらにせよ、あのシマウマは普通じゃない。それこそ常識では考えられないような存在だとわたしは思う」

「常識では考えられないって。確かに少し気になるところはありますけど.......」

「シマウマは気体だった」

「……はあ?」

「わたしたちがシマウマを見失ったのは実はあのシマウマたちが気体だったからじゃないかっていう説」


 僕は黙ったまま、A子さんを見る。


「どう?」

「どう? って」


 僕は気体のシマウマについて考えをめぐらす。風に流され、姿が崩れていくシマウマを想像する。それはすこし滑稽に思えた。


「まあ、考えにくいかと」

「ありえないって言い切らないのがいいね」


 彼女は満足そうに頷く。

 僕としてはありえないという意味の言葉をオブラートに包んだだけのつもりだったのですこし気まずく思う。


「わたしはあのシマウマたちに興味を持っている。あのシマウマたちがただのシマウマではなく、例えば世界のメタファー的存在だとか、地球外生命体のようなものだと思ってる。君はどう? 円くん」


 僕はそれについて考える。僕が二度見たシマウマたちの正体。少なくとも僕が見たシマウマは全て本物のように思えて、メタファー的存在だとか地球外生命体にはいまいちピンと来なかった。ただ一つの事実として、僕もあのシマウマたちに興味を持っていた。


「興味はあります。あのシマウマたちに。あのシマウマたちが何者で、どこから来たのか」

「よかろう」


 A子さんは頷く。


「同盟を結ぼう」

「同盟?」

「そう。シマウマの謎を追求する同盟」


 僕はぱちくりと彼女の顔を見る。


「Alliance to Pursue the Zebra Mystery 略してAPZMかな」

「えーぴーぜっとえむ」


 僕は彼女の言葉を繰り返す。


「言いづらいです」

「ええー」


 A子さんは不服そうに頬を膨らませる。


「じゃあ君もいい感じの名前、考えてよ」


 彼女は紙ナプキンをとり、その上にボールペンでAPZMと書く。それを並び替える。AZPM、PZAM、ZPAM.......。


「そうだ」


 彼女は嬉しそうに顔を上げ、紙ナプキンの上に書いた文字を指す。


「さっきのAPZMの中には午前と午後が入ってるんだよ。気づいた?」


 そう言ってAとM、PとMを結ぶ。AMとPM。


「だから『午前と午後のゼブラ』っていうのはどう? なんかお洒落じゃない?」


 少し無理やり過ぎませんか。という言葉は飲み込む。言ったら彼女は機嫌を損ねるだろうと思ったし、そもそも僕は同盟の名前にこだわりを持たなかった。


「いいよね?」


 彼女のその問いかけに僕は頷く。


「よし、これからシマウマの謎を追う同盟『午前と午後のゼブラ』けっせーい!」


 A子さんはアイスコーヒーの入ったグラスをビール瓶のように掲げる。グラスの周りに付いた水滴がテーブルに落ちた。


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