第6話

『午前と午後のゼブラ』が結成されて僕の生活はささやかに変化した。


 まず、毎朝渡る横断歩行で信号待ちをしている最中、A子さんは僕の姿を確認すると笑顔で手を振ってくれるようになった。これはほんの数日前は考えられないことで、信号がいつまでも赤になればいいと本気で思った。


 次に午後6時からの見回りが日課に追加された。A子さんの仕事が終わるのが午後5時40分で、そこから僕たちは合流をして町内をあてもなく歩き回り、シマウマを探した。それは僕にとっては幸せな時間で、シマウマというよりはA子さん目当てで、その日の見回りを楽しみにするようになった。見回りの最中、A子さんは口数が多くなくて、もしくは僕が会話をリードするべきだったのかもしれないが、A子さんと僕の間に流れる沈黙は甘美で居心地がよかったし、その沈黙こそがその空間での正解だとも感じた。


 見回りが日課に加わってから、学校が終わってA子さんが仕事を終えるまでの間、僕は一時間、または二時間ほどの時間を持て余すようになった。そういうときは一人で町内の見回りをすることもあれば、シマウマの正体について延々と考えることもあった。しかしいずれも納得のいく考えは思い浮かばず、僕の拙い考えをA子さんに伝えることもなかった。


 そして、ほとんど毎日町内を見て回っているのに、シマウマは僕とA子さんが会った日から姿を僕らの前に現すことはなかった。

 ただ、シマウマが姿を現さなくなったからといっても、シマウマに皆が興味をあまり示していなかった時のような奇妙でささいな違和感はまとわりついた。


 例えば、畠中が突き指をした。


 畠中はバスケ部のエースで運動神経抜群だった。彼は普段から慎重な男で、ラフプレーを好まず、相手のわずかな隙をついてボールを奪い、得点に繋げていた。そういう彼の洗練されたプレーを見ていたので、畠中が突き指をしたときに僕は僅かな違和感を抱いた。畠中のプレー姿と突き指がどうにも頭の中で結びつかなかった。

 しかし、突き指は誰でもする可能性があるものだし、もしかすると、シマウマに皆が興味を大して持たなくなってから、僕の違和感を判断する軸がぶれて、敏感になっているのかもしれなかった。


 僕は畠中が保健室に行くのを付き添うと言って、体育館を出て畠中に訊いた。


「お前が怪我するの珍しいな」

「そうか? ……そうかも」


 畠中は突き指した指を眺めながら言った。


「大会とかは? 近いうちにないの?」

「土曜に他校との練習試合があるけど、別にそれは出れなくてもいいし、それにこの感じだと2、3日で治ると思う」

「ふうん、それならいいけど」


 彼は自分が怪我をしたことをうまく受け止められないような、呆然とした表情をしていた。

 彼の怪我の原因となったのは味方からの緩やかなパスだった。


 畠中を保健室に送り届け、体育館に戻る途中、体育館に繋がる廊下で、座り込んでいる体操服姿の舞城さんを見かけた。

 体育は1組と2組の男子、1組と2組の女子がそれぞれ合同で行われ、1組と2組の女子は体育館の半分を使ってバドミントンをやっているはずだった。


「舞城さん」


 僕は思わず声をかけた。

 舞城さんは座ったまま僕を見上げる。


「どうしたの。こんなところで」

「……円くんだ」


 舞城さんは僕の顔をしばらくぼんやりと見てからそう言った。僕は舞城さんが僕の名前を覚えていたことに驚いた。僕と舞城さんとの接点はほとんどなく、もしかすると僕のことは周平から聞いたのかもしれなかった。


「座んなよ」


 そう促されて僕は舞城さんの隣に腰を下ろす。腰を下ろしながら舞城さんの様子を横目で見て、具合でも悪いのかと訝る。女の子の日、とか?


「どうしたの」


 僕はもう一度訊く。


「どうもしてないよ。さぼり」

「さぼり?」

「うん」


 舞城さんにさぼりという単語は似合わなかった。小さな子どもが無理をしてブラックコーヒーを飲んでいるような、そんな感覚。

 それか、もしかすると僕が舞城さんという人間を図り間違えているのかもしれない。僕と舞城さんはほとんど話したことがないのだからその可能性は高かった。


「そういうことしない人なのかと思ってた」

「そういうことって、さぼり?」

「そう」

「するよ。すごく。私は弱い人間だから嫌なこととかからすぐに逃げちゃう」

「あー、一緒。もしかして夏休みの宿題とか最終日まで残すタイプ?」

「ううん。うちはお母さんが厳しくて、夏休みの宿題とか都度進捗を報告しないといけなかったから。でもたぶん、お母さんがいなかったらそうかも。私も最終日まで残してたかも」

「そうだよなー。あれを計画的にできる人っておかしいよな。ロボットとかじゃないと無理だと思う。計画的に、なんて」

「ロボットって」


 舞城さんはけらけらと楽しそうに笑う。舞城さんのその笑い方は魅力的で、やはり、僕の頭に疑問が浮かぶ。


「ねえ」

「ん?」


 舞城さんは僕の方を向き、小首を傾げる。


「なんで、周平なの?」

「……どういうこと?」

「いや、舞城さんほどの人だったら正直、選び放題じゃん。たぶん、舞城さんに告白されたらほとんどの男子がOKすると思う。そんな中でなんで周平なのかなって」

「周平くんじゃ駄目なの?」

「いや、駄目とかじゃなくて純粋に理由が知りたいんだよ。周平はそんなに目立つタイプでもないし、これまで舞城さんと周平って関わりもあまりなかったでしょ。周平のどこが気に入ってるのか傍から見るとわからなくて」

「私が男子を選び放題だとか、周平くんが目立つタイプじゃないとか、それは円くんの基準でしょ」

「え?」

「それは独善的じゃない? もしかすると」


 独善的。思ってもみなかった言葉が投げかけられて僕は戸惑う。


「……そうかな。そうかもしれない。ごめん、気を悪くしたのなら謝るよ」

「気を悪くした訳ではなくて、目線を変えてみたら? そう言いたかったの。目線を変えるだけで思ったよりすぐそばに求めている答えは見つかるかも。それは例えばレンチキュラーみたいに」


 目線を変える。僕はそれについて考える。舞城さんの言うことは周平のことが好きな理由について話しているようにも聞こえるし、それよりももっと大きな例えば、世界の秘密について言っているようにも聞こえた。


「あ、舞城さん。こんなとこにいたの。探したよー」


 声がして顔を上げると、すぐ傍に玲が立っていた。手にはバドミントンのラケットがある。


「あれ、なんで円もいるの」

「ああ、ええと、畠中が突き指してさ。畠中を保健室に送り届けた帰りに―――」

「円くんが具合が悪くて座ってた私を心配して声をかけてくれたの」


 僕の言葉を遮って舞城さんがそう言う。


「え、舞城さん。具合悪いの?」

「ううん。円くんと話してたら治っちゃった。ごめんね。心配かけて。体育館戻ろ」


 舞城さんは立ち上がり、玲の背中を押して体育館に玲を促す。


「円くん、ありがとね」


 後ろを振り向き、舞城さんがそう言う。「ああ、いや」意表をつかれて僕は戸惑う。


「どう、いたしまして」


 舞城さんの背中にそう声をかける。舞城さんがもう一度振り返ることはなかった。

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