エピローグ ※千花視点

 暦の上ではもうすでに秋だったけれど、まだまだ外は死にそうなくらいに暑い。

 

 わたしはクーラーでギンギンに冷やした家の中で、ニスズを待っていた。

 夏休みを利用して、我が家で同好会の合宿をしようと画策したからだ。


 両親は実家に帰省していた。

 もちろん、わたしも連れて行くつもりだったのだろうけれど、断った。

 姉が行かないのに、わたしだけ行くのも違う気がしたからだ。


 姉は今、留学と称して一人で海外へ旅立っている。


 あの日――ゴールデンウィークを間近に控えた週末、姉は突如として海外留学したいと言い出した。

 元々、車の免許を取るように貯めていたはずの全財産を使っての暴挙だった。

 父も母も、初めての海外に単身で――それも男性恐怖症の娘が――行くことに、猛反対した。


 しかし、姉の決心は固く、止められる者は誰もいなかった。

 女子校に通うのを懇願した時のような、意志の強さを感じた。


 姉に何があったのか、わたしは知らない。

 

ただ、あの日から、姉は変わってしまった。


 前ほど「麗が、麗が」とは言わなくなった。その代わりかどうかはわからないが、『白髭先生』なる人物の元で、研究の手伝いを始めたそうだ。

 海外留学もその研究の一環らしい。

 ……一体、何の研究をしているやら。


 その研究室の影響か、前より知り合いが増えたような感じだった。

 同時に男の影がチラついてもいる。

 まだ彼氏は出来ていないようだったが、それも時間の問題のような気がした。


 父との微妙な距離感も、修復されているように思う。

 二人で買い物に出かけた事を知った時は、さすがに驚いた。


 母とは相変わらずのようだ。

 誕生日のオムライスをベタ褒めされたせいか、その後も我が家の食卓は姉が担当している。

 上手く乗せられているだけだと、わたしは思う。


 そして、あのニスズともたまに連絡を取り合っているらしい。

 何でも「ヴァイオリンリサイタルのチケットが余っているから」と、二人にあげたのがきっかけのようだ。

 

 そういえば、ヴァイオリンの練習も再開していた。

 先生のところには通ってなくて独学だけど……一体どういう風の吹き回しだろう?

 

 ゆみ子さんとも、以前より更に親密になっていた。

 一度、少しお腹の大きくなったゆみ子さんが家に来たことがあった。

 二人で人生がどうの、存在がどうのと小難しい話をしていた。

 ああいうのが胎教にいいのだろうか。

 

 わたしとの関係も変わった。

 

 姉の方からああしたほうがいいんじゃないとか、私だったらこうするとか、自分の意志や意見を表明するようになった。

 

 時にはケンカに発展することもあったけれど、ケンカしなかったそれまでの方が、きっと異常だったのだ。

 

 お人形さんとは、ケンカは出来ないのだから。


 壊れたはずの人形は、意志を持って動き始めた。


 思えば4年前――あの事件があった後、わたしが姉に手を差し伸べたのは、人形の終焉を期待していたからかもしれない。


 傷ついて、壊れたお人形が立ち直ったその時、ようやく対等な関係が築けるのではないか、と――

 

 ふと、スマホにメッセージが来ていることに気が付いた。


 発信者は、姉だった。


『現地で財布をスられてしまった。

 困っていたら若い男性が寄って来て、食事を驕ってくれた。

 

 だけどこの人、やたらと私の身体を触ろうとしてくる。

 のらりくらりとかわして、今はお店のトイレの中。

 

 これからどうしよう?』


 …………完全に自業自得だろう。


 ピンポーン。


 インターフォンが鳴る。


 玄関の扉を開けると、案の定ニスズだった。

 

「こんにちは、千花ちゃん」

「今日はよろしくね」


 どうやら、ここまで車で送ってもらったらしい。この暑い中、二人とも汗一つかいてない。

 

 まったく、良家のお嬢さんともなると、取り扱いもレアな美術品のように丁寧になるらしい。


「早速始めるよ。わたしはパティシエになりたいんだから、遊んでたら時間がもったいない」


 ――そう。


 わたしはパティシエになることを決めた。


 今まで、わたしはあれこれ理由をつけて逃げていたんだと思う。


 だって、そうでしょう?


 自分が大好きで唯一の取り得たるお菓子で失敗したら、わたしには何も残らなくなってしまう。


 お菓子を無くしたわたしは、何の価値もないただの小娘でしかない。


 でも、そんなわたしを姉は――あの姉が、こう𠮟りつけた。


「お菓子があっても無くても、千花は千花。私の大事な妹だよ。

 失敗してもいい。その時はどうすればいいか、私も一緒に考えるから」


 人形らしからぬセリフに、わたしは違和感を覚えた。


 ――きっともう、人形はいないのだ。


 キレイで、可愛くて、ただそこにいるだけで人々を笑顔にするお人形さんは、その役割を終えた。


 わたしはスマホを手にとり、姉にメッセージを返す。


『わたしに連絡する余裕があるなら、ホームステイ先か大使館にでも連絡すれば?』


 姉はいつの間にか、わたしと対等どころかそれを飛び越え、手の届かない所へ行ってしまった。


 今度はわたしがその背中を追いかけて、対等になってやる番だ。


 わたしは、姉が大嫌いだった。


 そんなわたしでも、姉は大好きなんだと思う。

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人形の終焉 ヴォルフガング @praxidis6

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