第5話:15日(土) 逢魔時
私は幼い頃から、一人でいるのが好きだった。
友達と遊ぶよりも、一人でお砂遊びや絵本を読んでいるような子だった。
千花が生まれてからは、両親が共働きだったこともあって面倒を見る事が多くあったけど、千花のやりたい遊びに付き合うばかりで、『一緒にこういうことをして遊びたい』という気持ちはあまり無かったような気がする。
小学生になっても、そうしたスタンドアローンな性格は変わらず、積極的に関わろうとはしなかった。
そんな私の性格を見かねたのか、母は私にヴァイオリンを習わせた。
私のようなケースでは、チームスポーツや合唱など集団生活に馴染むような習い事をさせるべきだったのではないか――と今では思う。
けれど、当時の母は何を思ったのか、私の個性を伸ばすような方向へ舵を切った。
ヴァイオリンは先生とのマンツーマンレッスンだから、他に関わるような相手もいなかったのだ。
ヴァイオリン自体は好きでも嫌いでもなかった。
ただ、譜面どおりに、先生に言われたとおりに弾くだけ。
もちろん、最初はきちんと音を出すだけでも苦労はしたが、習熟してくればそれなりに聴ける音にはなっていた。
年に一度、先生のクラス内で行われる発表会――といっても小規模なものだったが――にも参加していた。
そうして、ヴァイオリンの練習時間が増えれば増えるほど、反比例するように他人と関わる時間が減っていくのは自明だった。
私は学校では浮いた存在で、大抵は一人無言で、みんなの様子を観察しているような子だった。
だから、修学旅行などの集団行事は苦手だったが、それでも求められればそれなりに周囲へ合わせる事が出来たので、先生やクラスメートに非難されたり、いじめたりされるという事は無かった。
この傾向は、中学に上がっても変わらなかった。
私の通った中学には吹奏楽部しかなく、ヴァイオリンを活かせる部活がなかったため、読書クラブに入った。
週に一度、一時間だけ本を読むという何とも地味なクラブ活動だった。
そんな穏やかな毎日がずっと過ぎていくのだと思っていた。
転機が訪れたのは、中学二年生になった時だった。
思春期という心も身体も変容を遂げる厄介なこの時期、私は男子生徒からちょっかいを出される事が増えて来た。
私自身は相変わらず周囲からは浮いていて、集団活動時は空気みたいに大人しく過ごしていたつもりなのだが、顔がどうの胸がどうのと言われてからかわれたり、教科書やノートを隠されたり落書きされたり……
更に悪い事に、私にちょっかいを出してくる男子に好意を寄せているらしい女子からも、嫌味や嘲笑を受けるようになっていった。
そうしたストレスが続いていく内に、学校の成績はメキメキと下降していき、ヴァイオリンの腕も停滞していった。
学校に行きたくない――いつしか、そんな風に考える事が多くなった。
母にそれとなく告げたこともあったのだが、理由がうまく説明できなくて、結局ずるずると学校へ通う羽目になった。
私は何もしていないのに。
何も悪いことはしていないのに。
ただ生きて、そこにいるだけで、どうしてこんな苦しみを味わわなければならないのか――
私の鬱屈したこの気持ちは、けれども誰にも相談出来なかった。
両親は仕事で忙しく、帰りはいつも遅い。
千花もその頃はすっかりお菓子作りにハマっていて、私には見向きもしなかった。
仲の良い友達もおらず、担任の先生は産休で学校へ来なくなってしまった――
ここまで話すと、ゆみ子さんは両手でそっと私の右手を包んだ。
「誰にも言えない状況で、よく頑張ったわね」
私は被りを振って答えた。
「自業自得なんです。もっと周囲に溶け込めるような性格だったら、もっと友達をたくさん作れるようにしていたら、ああいう事にはなっていなかったはずだから……」
「それでも、紗奈ちゃんは一人で闘っていたんだもの、立派だわ」
私は沈黙して答えるしか出来なかった。
「それで、紗奈ちゃんはどうやって乗り越えたの?」
私はすっかり冷めてしまったチャイティーを飲み干してから、続きを話し始めた。
周囲は敵だらけ、味方は誰もいない――当時の私にとっては世界の終わりとも呼べる絶望的な状況は、しかし思わぬ方向へ動いていった。
そのきっかけとなったのは、学習塾だった。
学校の成績が芳しくない私を憂い、母に強制的に通わされたのだった。
塾なんて通った事がなかったので、当初は不安で心細くて仕方がなかった。
けれど、意外にも学習塾の環境は私に適していた。
なにせ、同じ学校に所属している塾生はほんのわずかで、学校でも塾でも違うクラスの子だったので、私にちょっかいを出すようなことは無かった。
更に学習塾の授業は、学校で教わるよりも分かり易く、何より面白かった。
分からないことが分かるようになる、知らなかったことを知るようになる、出来なかったことが出来るようになる。
そうした経験は、私が忘れかけていた感情を掘り起こすのに十分な役割を果たしてくれた。
私の成績はV字回復を果たし、更に塾へ通う前よりも成績が上がっていった。
また、中学三年になってクラス替えが起きると、私にちょっかいを出す子たちとは軒並みクラスが離れた。
教室内も次第に受験色に染まっていき、私が味わっていた苦しみがウソのように鎮まっていった。
高校受験が近づくに当たり、私はヴァイオリンをお休みして、勉強一筋に打ち込んだ。
私が目指したのは私立の女子校だった。
あの悪夢のような毎日は、女子生徒からも影響を受けたが、そもそものきっかけは男子生徒だった。
だから、女子校にいけばあんな事はもう二度と起こらないに違いない――そう考えた私は、両親にお願いして私立を受けさせてもらった。
あの時の両親の驚きようは、今でも忘れられない。
そうして私は両親から受験の許可をもらうと、無事に第一志望の高校へ合格する事が出来たのだった。
「すごいじゃない!」
ゆみ子さんは自分事のようにはしゃいでいた。
「そんな、大した話では……」
「ううん、紗奈ちゃんが頑張った結果じゃない。もっと、誇ってもいいと思う」
「……そう、ですね。ここで話が終わっていれば、それでも良かったんですけど――」
私の沈鬱な表情を察してか、ゆみ子さんは「お茶のお代わりを用意する」と言って、ティーカップごと厨房へ消えて行った。
私は何気なく外へ目を向けると陽はかなり沈んでおり、雨がパラついていた。
晴雨兼用の日傘があったので濡れる心配はなかったけれど、心はザワついていた。
「雨、降って来たみたいね」
戻って来たゆみ子さんは、第一声にそう言った。
「帰りは車で送っていくわ」
「え、そんな……悪いです」
「悪くないの。紗奈ちゃんはなぁんにも悪くない。ただ、ちょっぴり悪戯な神様がいるだけ」
ゆみ子さんは小さく笑って、ティーカップを渡してくれた。
透き通るような鮮やかな香りが、鼻を賑やかす。
この香りは――
「……ペパーミント?」
「そう。あんまぁいチャイティーも良かったけど、今はこっち方がいいと思って」
確かに、決して甘い話にはなるまい――
私はペパーミントのハーブティーを五感を使って楽しむと、意を決して話を続けた。
高校受験が終わり、卒業式を迎えると、私はヴァイオリンのレッスンを再開した。
受験中も息抜きに、軽く触っていたけれど、やっぱり腕は鈍っている。久しぶりのレッスンだったせいか、練習時間を大幅に延長してしまった。
そして、それが全ての過ちだった。
その日、レッスンを終えた私は、少し浮かれていた。
受験という重石が取れ、あまり良い思い出のない中学生活が終わりを迎えた。
更に、夜道も震えるほどには寒くない――
私はのんびりと、先生のご自宅から家へと歩いて帰っていた。
商店街を通って帰ると遠回りになる。
だから、私は人通りの少ない路地方面から帰ることにした。
あのT字を曲がれば自宅はもうすぐ――電柱の明かりが頼りない通りに差し掛かった、その時。
一台の車が私の横を通り過ぎて行った。ヘッドライトが上向きだったため、一瞬眩しさに目がくらんだ。
「……っ?!」
気付けば、私は後ろから誰かに抱き着かれていた。
体格からして、相手が男性だとすぐに分かったが、分かったところでどうしようもない。
私が離れようと必死に身じろぎしても、圧倒的な力で押さえつけられている。
口を塞がれ、恐怖に苛まれ、声を上げる事も出来なかった。
男性の手が、私の脚に触れてくる。私の目尻に涙が浮かぶ。
ヤダ、ヤメテ……!
ダレカ、タスケテ……!!
「ちょっと、あなた何しているの?!」
それは、本当に幸運だったというべきだろう。
たまたま自転車で通りかかった女性が、大声を上げて駆けつけてくれた。
男は、女性の声を聞くや否や、猛然と走り去って行った。
私はその場にへたり込んで、肩を抱いて震えていた。
女性は私の肩を抱きながら、スマホで警察に連絡してくれていた。
そのあとのことは、あまりよく覚えていない。
多分、警察に言って事情聴取を受けた後、母に迎え来てもらって家に帰った――そんなところだろう。
私は自分が汚されたような気がして、お風呂で何度も何度も身体を洗った。
でも、身体に触れれば触れる程、あの時の恐怖が蘇り、返ってボロボロと涙が溢れるばかりだった。
どうしてあんなに酷い事が出来るのだろう?
私が何か悪い事をしたのだろうか?
ヴァイオリンのレッスン時間が延びたから?
それが、そんな罰を受けるほどの事だったのだろうか?
次から次へと繰り出される疑問は、私の頭と心を蝕んでいった。
気が緩むとフラッシュバックであの時の体験が蘇ってくる。
その度に、胃の中にあるモノを戻していった。
自分の中にある汚れた何かを、全て吐き出すように、何度も、何度も――
気分転換に外へ出ようとしても、また襲われるのではないかという恐怖が勝り、事件から一週間は、家に引きこもっていた。
幸か不幸か、中学を卒業したばかりで学校へ行く必要はなかった。
それでも、高校の入学式は三週間後にやってくる。
食事も喉を通らず、すっかり瘦せこけた私に救いの手を差し伸べたのは、意外にも千花だった。
私は千花と共に外に出る訓練を始めた。
始めは昼間に少しだけ、それから徐々に時間を伸ばしていって、朝、昼夕方と出られるようになっていった。
その頃から、千花がよく話しかけてくれるようになった。
お菓子作り一辺倒だったはずの千花は、私のためにクッキーやらフィナンシェやらを作っては食べさせてくれた。
千花のおかげで二週間も経つと、一人でも外出が出来るようになっていた。
ただ――
夜だけは、ダメだった。
特に、一人で"あの時の道"は絶対に歩けない。
身体がすくんでしまって、動悸と息切れが止まないのだ。
それから、男性に過度な恐怖心を抱くようになっていた。
小さい男の子や同世代くらいまでの男子だったら問題なかった。
だが、一定以上の年齢の男性を見かけるだけで、身体が強張ってしまう。
たとえ相手が自分の父親であっても、だ。
そして、更に悪い事に、あの時の犯人は、4年経った今でも捕まっていない――
そこまで話すと、私はしゃくり上げて泣いていた。
胃の中から酸っぱいものがこみ上げてくるのを、何とか堪えながら。
ゆみ子さんは私の隣まで来ると、そっと抱き締めて、優しく頭を撫でてくれた。
「紗奈ちゃん、よく話してくれたわ。ツラかったわよね……ごめんなさいね、無理に話をさせるような事をして」
何か言いたかったが、嗚咽がひどくて言葉にならなかった。
私は永遠とも思える時間、ゆみ子さんの胸の中で泣いた。
雨足の強まる音が、私の声をかき消してくれるといいのに――そんなことを願った。
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