第4話:15日(土) 夕闇

 せっかくの休日だというに、あいにくの曇天だった。


 私はゆみ子さんのいるカフェへ向かうべく、散歩がてら歩いていた。

 通常はバスを乗り継いて行くのだけど、特に運動らしい運動をしていない私にとっては、身体を動かす良い機会だった。


 気にし過ぎかな、と思いつつ、一応日傘を差している。

 曇り空でも紫外線は出ているようだし、シミになるのもイヤだった。

 ふと、そんなことを考えている自分に対し、おかしさがこみ上げてくる。


 一体、誰が私のシミなど気にするのだろうか――


 どのみち、目的地は目の前だ。

 私は軽くため息を吐いて、日傘をバッグへしまった。

 そして、やおらにカフェのドアを開ける。


「いらっしゃいませ――あ、紗奈ちゃん♪ いらっしゃ~い、待ってたわ♪」


 私を満面の笑顔で出迎えてくれたのは他でもない、ゆみ子さんだった。

 ゆるい三つ編みのロングヘア、オレンジのたすき掛けエプロンに白いワイシャツ、そしてハイウェストのクリーム色ロングスカートをまとっている。

 おっとりとした雰囲気を醸し出す、癒し系の美人だった。


 その母性の塊のような笑顔と、のんびりした口調から勘違いされがちだが、彼女は意外と芯の強い女性である。

 旦那さんと結婚する前、カフェの修業へ行くといってヨーロッパへ旅立った彼の後を追いかけて、現地でプロポーズをしてきたという。

 それから、日本へ戻ってきてから結婚し、夫婦でカフェを始めた。

 

 私とゆみ子さんとは年齢が離れているし、彼女の住まいも長らく海外だったりとあまり接点は無かったのだが、カフェが私の実家近くに出来たこともあり、ここ2~3年で家族ぐるみの付き合いになっていた。

 

 比較的新しい店内は休日の夕方という事もあり、ほぼ満員状態。

 決して狭い印象ではないのだけど、テーブルとテーブルの間が広く取られている為か、座席数はそれほど多くない。

 更にはゆったりとしたピアノソロのBGMが流れていて、喧噪とはほど遠い、落ち着いた空間を演出している。

 

 私はゆみ子さんに空いている二人掛けの席へ案内されると、「いつものでいい?」と聞かれ、二つ返事で頷いた。


 ゆみ子さんはホールを一人で切り盛りしている為、忙しそうだった。


 私も長期休暇中だけとはいえ、ここのスタッフなのだから手伝った方がいいのかな? なんて考えたりもする。

 けど、ゆみ子さんのことだから「大丈夫だから、ゆっくり休んでて♪」なんて言いそうだ。


「おまたせ~」


 ゆみ子さんが注文の品を運んできてくれる。

 カフェインレスのホットコーヒー、ノンシュガーのミルク有り。

 これが私の定番メニューだった。


「もうすぐ閉店だから、それまでゆっくりしていってね~」

「あ、はい。ありがとうございます」


 ゆみ子さんは笑顔をたたえながら、忙しそうにレジへ向かって行く。


 私はコーヒーにミルクを注ぐと、心の中で「いただきます」を唱えて、口を付ける。

 カフェインレスというと味が薄くて美味しくない、なんて話をよく聞くけれど、この店に限ってはそんなことはなかった。

 しっかりとコクがあり、尚且つ脳と心をすっきりさせるほど香りが立っている。

 

 店の調理は全てゆみ子さんの旦那さんであるマスターが賄っていた。

 マスターはどちらかといえば寡黙な人で、キッチンからほとんど出て来ない。

 私もアルバイトの時以外では、あまり話した事はないのだけど、仕事となればテキパキと指示は出してくれる、職人気質の人だった。

 

 そんな不器用な人だからゆみ子さんとは好対照で、夫婦の相性はとても良く感じられる。

 二人に子供はいなかったが、その分、年の離れた私と千花を娘のようにとても可愛がってくれる。

 千花なんかは『お菓子に合う飲み物』を探究しに、ちょくちょくこの店へ顔を出して、閉店後に店主から熱心に色々と教わっているようだった。

 

 この店は立地が閑静な住宅街という事で、閉店時間は17時と比較的早い。

 だから、私も安心して千花を任せられるのだけど、たまに帰りが遅くなるとハラハラしてしまう。

 千花本人は全く気にしていないようなのが、なんとももどかしい。


 私の飲んでいるコーヒーが残り半分を切った頃、閉店時間になった。

 店内にいるのは私と右隣りにいるおじいさん、とその奥にいるパソコンとにらめっこしている男性のみとなっていた。

 

 どことなく気まずくなった私は、カフェに置いてある女性用ファッション誌を手に取って眺める事にした。

 かわいい、キレイ、おしゃれ、コーデ……そんなきらびやかな文字が、華やかなモデルと共に踊っている。

 パラパラと雑誌をめくっていると、ふと目に留まったページがあった。それは白のブラウスにデニムのショートパンツを着たモデルだった。


 これから夏に向けて、私もこんな涼し気な恰好をしたい。

 でも、こんな服装で外出していたら、また……


 ページをめくればめくるほど、露出の多い女性が目につく。

 彼女たちは自由に自分を表現しているように見えた。

 それに引きかえ、私は自分の服装さえ、自由に選べない。

 

 ――違う、そうじゃない。


 私が選べないんじゃない、自らの意志で選ばないのだ。

 恐い、どうしても……男の人の目線が、行為が、私に向けらる感情が――!


 どうして?

 どうして私はこんな――こんな人間なの?

 どうしてこんな人間に生まれてきたの?

 私の何が悪いの?


 私はいつも、ただそこにいるだけなのに……何も悪いことはしていないのに!!

 気が付けば、瞳から溢れ出た感情が、雑誌にいくつものシミを作っていた。


「……紗奈ちゃん、どうしたの?!」


 ゆみ子さんが慌てた様子で駆け付けると、タオルハンカチをくれた。


「ご、ごめんなさい……なんでも、ないんです……」

「何でもないって……」

「いえ、本当に……だいじょうぶ、です、から……」


 私は嗚咽を漏らしながらどうにか答えると、立ち上がって店内のお手洗いに向かった。


 なんてみっともないのだろう……

 よりにもよってゆみ子さんのお店で、突然泣き出すなんて……!


 お手洗いの鍵をしっかりとかけて、私は鏡の前で泣き腫らした。

 もうイヤだった。こんな自分が。なぜ泣いているのか、自分でもよく分からない。

 

 私は、悲劇のヒロインなんかじゃない。

 ただ、毎日が穏やかに過ぎ去ってくれるのを願うだけの、ちっぽけな人間だったはずだ。

 それなのにどうして――涙は止まってくれないのだろう。

 

 私は、こんな激情は望んでない。

 

 なのに、それなのに――

 

 私は、声にならない声を上げ続けて、むせび泣いた。


*********


 お手洗いから出ると、お客さんは誰も残っていなかった。

 私が突然あんな風に泣き出したものだから、居心地が悪くなってしまったのかもしれない。

 しかし、私の目はうさぎのように充血していたので、ゆみ子さんには申し訳なかったが少しだけ安堵した。


「紗奈ちゃん、大丈夫?」


 ゆみ子さんが心配そうに寄り添ってくれる。


「はい、もう落ち着きました……ごめんなさい、タオル濡らしちゃって……後日、洗濯してお返しします」

「そんなことはいいのよ。それより、何があったの?」


 なんと答えていいのか分からず、私は俯いて「すみません……」とだけ答えた。

 ゆみ子さんは仕方ないわね、といった調子で軽く嘆息すると、私を先ほどまでいた席へ座らせる。


「少し、待っていてくれる?」


 笑顔でお願いをしているようで、有無を言わさぬ迫力があった。

 私としてはこのまま帰りたい気持ちが半分、話を聞いてもらいたい気持ちが半分だった。

 

 ふと、私はテーブルにあったはずのファッション誌――私が汚したものだ――が、片付けられている事に気が付いた。

 そういえば、店内のBGMもいつの間にか、ピアノソロからヒーリングミュージックに変わっている。きっと、ゆみ子さんの配慮なのだろう。


 まったく、どこまで世話を焼かせれば気が済むのか、私という人間は……

 再び気分が滅入りそうになったタイミングで、ゆみ子さんがティーカップを2つ、手にして戻ってきた。


「チャイティーよ。落ち着くと思うから」

「すみません……私、雑誌も汚してしまって、ドリンク代と合わせて――」


 払いますから――と言い終わる前に、ゆみ子さんに止められた。


「もう、自分が大変な時にそんな事考えなくていーの。そんなに気にするなら、いつも頑張っている紗奈ちゃんに、私からのご褒美ってことで♪」


 ゆみ子さんはキレイにウインクすると、私の前の椅子に腰かける。

 まったく、この人には叶わない……

 私は「いただきます」と断ってから、淹れ立てのチャイティーを口に含めた。

 

 ……とても、とても甘かった。

 シナモンの香りが鼻孔まで広がり、身も心も温まる心地だった。

 味も、香りも、今の私にとってベストな状態に調整してある。

 ゆみ子さんの心遣いに、私は再び涙腺が崩壊しそうになった。


「お店は閉めちゃったから、もう誰も来ないわ」


 ゆみ子さんに言われて、私は店の入り口に目を配る。

 確かに「CLOSED」の札が掛けられていた。


「今日はいつもよりお客さんが多かったの。きっと、紗奈ちゃんが来てくれたおかげね♪」

 

「私は、何も――」

 

「そうかしら? 紗奈ちゃんにホールを任せていた日は、私の時より売り上げが良かったのよ? 若いっていいなぁ~、嫉妬しちゃうなぁ~、お肌プニプニだなぁ~」


 言いながら、ゆみ子さんは私のほっぺを指でツンツンと突いて来る。


「や、やめてくださいっ」


 私は恥ずかしくなって、ゆみ子さんから身体を少し離した。

 ふふふ、とゆみ子さんはお茶目に笑って、チャイティーを口にする。


「…………あの」

「ん~?」

「私、本当は今日……母の誕生日に出す料理について、相談しようと思ってたんです」


 ゆみ子さんは我が家の誕生日の風習を知っている。

 去年も相談させてもらっていて、その時はゆみ子さん一押しのミネストローネのレシピを教えてもらった(これで旦那さんの胃袋を掴んだらしい)。

 それを母に振舞ったところ、大絶賛されたのだった。

 だから、今年も――と思ったいた。


「でも昨日、ちょっとイヤなことを思い出しちゃって……」

「嫌な事?」

「はい。それをまだ引きずっていたみたいで、それでさっき、あんな――」


 あんな醜態を晒したのだった。


「良かったら、話してみない? 私、結構色んな人から相談なんかされるから、自分で言うのは変だけど、聞き上手みたいなの♪」

「それは……でも、何をどう話していいか……」

「ぜんぶ♪」

「……え?」

 

「ぜーんぶ話しちゃえば? 最初から最後まで、ね。多分、紗奈ちゃん、誰にも言えなくて辛かったんじゃない?」


 そうでなければ、あんな泣き方はしない――そう、言われているような気がした。


「……話、まとまってないかもですけど」

「だいじょ~ぶ。私、聞き上手だから♪」


 ゆみ子さんは私の逃げ道を悉く塞いでくれる。

 私は観念して、全てを話す事にした。

 ゆみ子さんの言葉どおり、最初から最後まで、ぜんぶ。

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