第3話:13日(木) 宵の口

 なんということだろう。


 私はすっかり暗くなった夜道を、早足で歩いていた。

 千花にヴァイオリンの話をされて動転していたのか、自宅の醤油が切れていた事を忘れていたのだ。

 

 肉じゃがを作るのに醤油がないなんて……!


 めんゆつ等で代用しても良かったのだけど、醤油は味の決め手だ。

 美味しく作るなら醤油だし、どうせすぐに必要になるからと、私は千花に火の番をさせて家を出たのだった。

 千花は「私が行くよ?」と言ってくれたのだが、私の落ち度だったし、こんな時間に妹を外に出したくはなかった。


 スーパーまでは10分弱、往復で20分あれば済むはずだ。

 なのに、人通りの少ない住宅地を軽く肩で息をするくらいに疲弊させながら歩く私。

 時折とおる車のヘッドライトが、心臓の鼓動を更に加速させる。

 

 苦しくて、息が詰まりそう……っ


 息も切れ切れにどうにかスーパーに着くと、急いで醤油を購入して、再び来た道を戻って行く。


 ――大丈夫、誰もいない。


 いざという時の対抗手段もある。

 あの時とは違う。

 私はショルダーポーチに手を触れて、アレの感触を確かめる。


 うん、ちゃんと持って来ている。

 そして、自宅へ向かう最後のT字路を曲がろうとした、その刹那。


「……紗奈?」


 突如、正面かけられた声に、私は思わず身をすくませた。

 太く沈んだ、胸に響くような男性の声。

 私は咄嗟にショルダーポーチの中身を出そうとして、気が付いた。


「お、とう、さん……?」

「ああ……驚かせたみたいで悪かった。買い物か?」


 スーツ姿の父は、私がレジ袋を抱えているのを見て言った。


「えっ、あ……うん。醤油、切らしてて……お父さん、今日は早いんだね」

「母さんが遅くなるって言うから、早めに切り上げてきた」

「そう、なんだ……」


 それから、父と並んで――少し距離を取って――自宅へ向かう。


「最近は、その、どうだ? 大学ではうまくやっているか?」

「うん、何とかやってるよ」

「そうか……」


 父と私の間には、以前から形容しがたい微妙な空気が流れるようになっていた。

 父が嫌い、という事はない。思春期特有の反抗期はとっくに過ぎていたし、父がいつも私を気遣い、適度な距離を保って見守っていれているのはよくわかる。

 

 だけど、それでも、私は――


「そういえば」


 父が星を見ながら、思い出したようにのたまう。


「もうすぐ、母さんの誕生日だろう?」

「……あ、うん、そうだね。もうそんな時期だね」

「今年は何をプレゼントしようか」


 我が家では、誕生日には必ず家族揃ってお祝いをするという風習(?)があった。

 私が料理担当、千花がケーキ担当、父がプレゼント担当。

 担当者が誕生日の時には、母がそれぞれの穴埋めをするポジションだった。

 

 20歳近くもなると、さすがにこういうのも恥ずかしくはなってくるけれど、麗に「家族団欒なんて羨ましい限りじゃない」なんて諭されてしまったので、今でも変わらず参加していた。


「お母さん、最近忙しいみたいだし、マッサージとかはどう?」

「俺がやるのか?」

「それもいいけど……マッサージ店の回数券とか、美容サロンのギフト券とか」

「ふぅむ……」


 父は顎に手を当てて考え始めてしまった。

 そんなに思い悩むということは、それだけ真剣に相手を思いやっているという事なのだろう。

 娘の私から見ても夫婦仲は良好――というより、ほとんど『かかあ天下』で滅多にケンカにならないし、仮にケンカしても父が簡単に折れるから長引かない。


 それもこれも、父よりも母の方が稼いでいるから、というのが大きいのかもしれない。

 父も会社ではそれなりの役職についていると聞いている。

 それでも母の方が稼ぎがよくて、更に家事も育児もこなしてきた――となれば父の立つ瀬がない。

 

 けど、母はそんな父のことを見捨てるわけでも邪険に扱うわけでもなく、あくまで対等なパートナーとして接している。

 少なくとも、私にはそう感じられた。


「……いっそ、二人でマッサージに行っちゃうとか」

「俺の誕生日じゃないぞ?」

「うん……でも、お父さんと一緒に過ごす時間が、お母さんには一番のプレゼントかなって」

「――だといいんだがな」


 父は苦笑しただけで、否定も肯定もしなかった。


 その後、少し沈黙が続いた。

 私は無意識に力が入っていたのだろう。

 醤油の入ったレジ袋がガサッと音を立てた。


「……やっぱりまだ、慣れないか」

「――ごめん。お父さんは何も悪くないのは分かっているんだけど……」

「謝る必要はないさ。辛いのは紗奈の方なんだから」


 私は謝る代わりに俯いた。


「前にも話した事があったと思うが、ウチの会社には社内診療所があってな。家族でも受けられるから、気が向いたら言ってくれ。すぐに手配するから」

「……うん」


 このままじゃいけない。それは分かっている。

 けど、診療所なんて――私は、そこまで弱い人間じゃない。

 そう、思いたかった。


 自宅の真ん前、明澄の表札――私の苗字だ――を背にして、父はおもむろに足を止めた。


「……どうしたの? 早く入ろうよ」

「いや、その……いつでも頼っていいんだからな」

「……うん、ありがとう」


 そういえば先ほど、麗にも似たような事を言われた気がする。

 ……私はきっと、しあわせ者なんだろう。

 優しい父がいて、立派な母がいて、愉快な妹がいて、頼りになる友達がいて。

 生活には何ひとつ不自由することなく、大学にも通わせてもらえている。

 これ以上、何かを望むなんて欲張りだし、そんな事をしたら罰が当たってもおかしくはないとも思う。

 

 それでも――

 それでも、私は。

 こう、問わずにはいられなかったのだ。


『どうして私は、生まれて来たの?』と――

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