第6話:15日(土) 小夜
「すみませんでした。お見苦しいところを、一度ならず二度までも……」
私は深々とゆみ子さんに頭を下げた。
「いいから、顔を上げて。私が無理に聞き出したんだもの、紗奈ちゃんはちっとも悪くないわ」
ひとしきり泣き腫らしたあと、私は再びトイレへ向かい、顔を整えて来た。
目元が完全に腫れてしまっていて、明日はどこにも出かけられそうにない。
「ただね、申し訳なさついでなんだけれど」
と、ゆみ子さんは前置きして、こう言った。
「続き、聞かせてくれないかしら?」
「つづき、ですか……?」
もう、あれ以上話すことはないと思ったのだけど。
「そう、続き。高校へ入学してからこと、聞いてなかったから」
「ああ、そういう……」
高校生活は、別段大した事は無かった。
一人で外へ出られるようになった私は、普通に高校へ通っていた。
女子校という事もあり、男子を気にしなくてよかったし、先生方も女性が多かった。
私は依然浮いた存在をやっていて、部活動にも入らず、毎日一人で過ごしていた。
もちろん、話し掛けられればそれなりに答えるし、学校行事等の集団行動ではそれなりに合わせてはいた。
ただ、自分から話し掛けたり、友達作りをしようなどとは、全くしなかった。
その代わりというわけでもないのだけど、勉強だけは頑張っていたので、成績はクラスでも常に上位にあった。
群れない、成績がいい、おまけに容姿が優れている――
私の特徴をあげつらったクラスメート達はにいつしか、「気取っている」「鼻持ちならない」「高嶺の花」なんて噂されるようになっていた。
しかし、中学時代とは違って、直接的な害を受ける事はなかったし、友達作りはしなかったけれど、友好的に振舞ってくれる人たちもいた。
そんなこんなで、高校三年間は何事もなく孤独な女子校ライフを貫き通したのだった。
変化らしい変化といえば、ヴァイオリンを止めたことくらいだ。
「ヴァイオリン、どうして止めちゃったの?」
ゆみ子さんはぬるくなったハーブティーを飲み干してから、訪ねてくる。
「……才能が無いのは分かってましたから。元々、母に言われて始めた事でしたし。それに――」
「それに?」
「……レッスンが学校帰りになると、どうしても遅くなってしまうので」
「そう……」
それだけつぶやくと、ゆみ子さんは「最後に」と断って、こう続けた。
「大学を女子校にしなかったのは?」
少し考えてから私は告げた。
「変わらないといけない――そう、思ったんです」
「変わる?」
「このまま大人になったら、私は多分、この社会で生きていくことが難しい。だから、少しでも何かを変えるようと……共学なら何かが変わるかもって」
「じゃあ、うちでアルバイトを始めたのも?」
「そうした気持ちの現れ――ですね」
実際、アルバイトをして分かった事がある。
店のスタッフとして働いていれば、男性に恐怖を感じる事は普段より少なくて済む、ということだ。
もちろんゼロではないのだけど、さすがに人目のある店内であんなことはしないだろう――という安心感がどこかにあった。
「そう。紗奈ちゃんはちゃんと自分と向き合って、前を向いて歩いているのね」
「そんな大げさなものでは」
「ううん。立派なことだと私は思う。変えたい、変わりたいって人は多いけれど、実際に行動に移せる人はそう多くはないと思うから」
私はそれ以上、何も言えなかった。
それから私たちは厨房にいるマスター――ゆみ子さんの旦那さん――に挨拶をしてから、店を出た。
目が腫れている事で何か言われるかと思ったが、ゆみ子さんが事前に話をしていたのだろう、「またおいで」とだけ言ってくれた。
雨は本降りになっており、雨足はパンプスを超えて足首まで侵入してくる。
さすがに、歩いて帰るのはキツイ……
私は母にこれから帰る旨を連絡すると、ゆみ子さんのお言葉に甘えて、車で家まで送ってもらう事にした。
英国製の赤い軽自動車。何度も見かけたことはあるが、乗るのは初めてだ。
「それじゃあ、出発するわね」
「よろしくお願いします」
私は助手席に座ると、シートベルトを締める。
シートベルトの圧迫感はどうにも苦手だ。
車がゆっくり発進するや否やワイパーは全力で振り切っており、視界はかろうじて数メートル先を視認出来る程度だ。
「紗奈ちゃん、免許はもう取ったの?」
赤信号で車が止まっていると、ゆみ子さんが話し掛けてきた。
「あ、いえ、。アルバイトのお給料が貯まったら、取るつもりでいるんですけど……」
「そうね、車は持ってなくても、あると色々便利だから」
「早く自動運転社会にならないかな、って祈ってます」
「ふふっ、私も同じ気持ち」
目はまだ赤いけど、私の心持ちは冗談を言えるくらいにはなっているみたいだ。
雨は一向に止む気配がない。
車であれば、カフェから自宅まではそう時間はかからないはずだったが、この雨足の影響で、いつもよりは時間がかかりそうだった。
と、そんな事を考えていたら、ふとある事を思い出した。
「ゆみ子さん、ゴールデンウィークなんですけど、一日お休みをいただいてもいいですか?」
「アルバイト? ええ、それは構わないけれど、何かあったの?」
「友達からチケットをいただきまして」
麗とヴァイオリン・リサイタルへ行く事を伝えた。
「そう。いいお友達を持ったわね」
「はい、おかげさまで」
「……あ、それって何日だったかしら?」
私は日にちを告げる。
「そう、それなら大丈夫ね」
「ゆみ子さんも予定が?」
「ええ、大学時代の先輩と久しぶりに会う約束をしていて」
「へぇ、どんな方なんですか?」
「そうねぇ、一言で説明するのは難しいけれど……」
ゆみ子さん曰く。
『帰国子女でトライリンガル、外資系に勤めるバリキャリ。昨年の秋、初婚で14歳年上の男性(子持ち)と結ばれる。包容力がありつつも、叱る時はきっちり叱ってくれる才色兼備。ただし、虫が大の苦手』
「色々とすごそうな人ですね……ゆみ子さんとは、どうやって知り合ったんですか?」
「サークルが同じだったの。どういうわけか、私は彼女にいたく気に入られちゃってね。良く悪くも目立つ人だったから、一緒にいるだけで私まで変な噂が立っちゃって」
「……なんとなく想像出来ます」
少しだけ、私と麗に似ていると感じた。
麗も目立つ存在だから、ゆみ子さんの気持ちはわかる気がする。
「でも、今の私があるのは、彼女のおかげでもあるの」
「どういうことですか?」
「彼女はカフェ巡りが趣味でね、私も随分と付き合わされて」
「……あ、もしかして、マスターと出会ったのって――」
「ええ、そのカフェ巡りの過程で知り合ったの」
このゆみ子さんをして「私の人生に多大な影響を与えた」と言わしめる人物。
会ってみたいような、そうでないような……
土砂降りの中、車は駅前を通り過ぎていく。
ここまでくれば、間もなく自宅だ。
ゆみ子さんのおかげで、私はすっかり調子を取り戻す事が出来た。
家族とも友達とも違う、独特の距離感と安心感。そして何より、ゆみ子さんの発する空気感が、私には心地よかった。
そんな感謝と有難みの念がわいて来たその時、しかしゆみ子さんは無残にもこんな事を言い放った。
「紗奈ちゃん、私、紗奈ちゃんに宿題を出そうと思うの」
「……宿題、ですか?」
何ともゆみ子さんらしからぬ言葉の響きだった。
「そう、宿題。私ね、今日、紗奈ちゃんの話を聞いて思ったの。紗奈ちゃんはこれからどう生きたいのか、って」
どう生きたいか? 急にそんな事を問われても……
やりたい事もない、好きな事もない、唯一の取り得だったヴァイオリンすら辞めてしまった。
おまけに、これから社会へ出て働く事を考えれば、不安しかない。
そんな私がこれからのことなんて「わからない」としか言えなかった。
私はそれを素直に、ありのままを伝える事にした。
「だからこそ、よ。 わからないからこそ、答えを探すの」
「答えを、探す……」
「そう。どう生きたいか、あるいはどう生きたくないか。紗奈ちゃんにとっては、後者の方が簡単かもしれないけれど」
ゆみ子さんは悪戯っぽく笑う。
「人が……人が、生きる事に意味なんて、あるんでしょうか?」
「それも含めての宿題ね。人生に意味があるのか、ないのか。あるのだとしたら、どんな意味があるのか。ないのだとしたら、それはなぜか」
私は途方もなくハードルの高い宿題を前に言い訳を始めようとしたが、ゆみ子さんには一蹴されるどころか、むしろ宿題を増やされた。
私は観念して、受ける事にした。
「期限は、いつまでですか?」
「そうねぇ……じゃあ、一週間後で♪」
「一週間っ――」
思わず、大声を出しそうになってしまった。
『私の生き方』なんて壮大なテーマに、下手をしたら一生かかっても出せないような答えを、一週間で出させようとは……
「来週、またうちのお店に来て。今日より少し遅い時間で――閉店の少し前くらいがいいかな。その時に紗奈ちゃんの答えを聞かせて」
私はただ、頷くしか出来なかった。
そして、頷くとの同時に、車は自宅前へ到着した。
「今日はその……色々とありがとうございました」
「いえいえ、かわいい紗奈ちゃんのためだもの♪」
私は忘れものがないか確認してから、折り畳みの日傘を半開きにする。
「叔母様によろしくね。あとで私からも電話をしますと、伝えておいてくれる?」
「はい……何から何まで、ありがとうございます」
私は再びお礼を言うと、車を出た。
降りしきる雨の中、傘を差して自宅の玄関先へ向かう。
その場で佇み、ゆみ子さんの赤い軽自動車が視界から消えるまで、見送りをした。
そこで私は、ふと気が付いた。
結局、母の誕生日用の料理については、何も相談出なかった事に。
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