第15話:21日(金) 夕暮れ

 麗と分かれた後――私は一人でランチを済ませると、午後の講義に出た。

 講義室は小さく、受講生も少ない。

 

 いつもなら麗と一緒に出ているのだが、彼女は泣き腫らして顔が赤かったのと、今更ながら現在付き合っている彼氏のことが大事に思えたらしく、午後はサボって彼氏の元へ行ってしまった。

 

 所詮、友情は恋愛に勝てない儚いものなのだろうか? などと冗談じみた事を考えていた。

 それというもの、私は宿題の答えが出せずに悶えているからだ(現実逃避ともいう)。


 講義はもう、ほとんど耳に入って来ない。

 私は講義に集中することを諦め、これまで調べたことと、人から聞いた話を反芻してみることにした。

 

 千花はお菓子作りへの追究と情熱。

 父は他者への奉仕と貢献。

 母は自らの天命に従い、自らの役割を果たそうとしている。

 麗はギターを通じての自己表現、あるいはアイデンティティの確立。

 高月くんは人生を楽しむことを是としている。


 皆一様でなく、それぞれに人生の意義を見出しているように思える。

 

 どうして私には何もないのだろう?

 どうして、私だけが答えを見出せないのだろう?

 もし、神様がいるとしたら、私に何をさせたいのだろう?

 どうして? どうして? どうして――――


 問いだけが延々と頭の中を駆け巡り、答えを求めて彷徨い続ける。


「――では、来週までにレポートを提出するように。今日はこれまで」


 ……しまった、レポートの内容を聞きそびれた。

 麗もいないし、周りの学生たちも続々と退出してし始めている。


 仕方がない、先生に直接聞きに行こう。

 男性の先生だけど、もう老齢と言っていい感じだし、そこまで警戒することもないはず。

 

 ――と、思ったのだが、先生の前には学生の列が出来ており、すぐに聞ける雰囲気ではない。

 そうこうしているうちに、次の講義が始まってしまう。

 

 こうなったら、あとで先生の研究室を直接訪ねよう。

 私は急いで、次の講義室へと向かって行った。


*********

 

「すみません、失礼します」


 本日、最後の講義が終わったあと。

 私はレポートの内容を聞く為に先生の研究室を訪れていた。

 場所が研究棟の最上階に位置しており、ここまで移動するのに少々骨が折れた。


「はいはい、どうぞ」


 おっとりとした、それでいてしっかりとした意志を感じさせる声音が響いてくる。

 私はそっと扉を開けて中に入る。そこには白髪に長い白髭を蓄え、さらに白いワイシャツ姿の仙人のような人が、一人でデスクのパソコンに向かって何かの作業をしているようだった。


 その研究室は本、本、本だらけで、まるで本の森に迷い込んだみたい。

 私はバッグの中のアレを確かめてからこう切り出した。


「2年の明澄紗奈と言います。今日の講義内容でお伺いしたいことがありまして」

「ふむ、何かな?」

「課題レポートの事で、その、内容を聞きそびれてしまったので……」


 すると、先生の目がスゥッと細くなった。


「なるほど……キミは確か講義中『心ここにあらず』といった様子だったね」


 そして、ニッコリと笑う。まさか、バレていたとは……


「すみません、少々考え事をしていたもので……」

「ふむ」


 先生は長い白髭を手でこすりながら、こう言った。


「キミの考え事の中身を話してもらえるかな?」

「……は?」

「そうしたら、レポートの内容も教えてあげよう」


 これは、交換条件というやつだろうか。

 それにしても学生相手に、一体なぜ?


「あの、それはどういう――」

 

「いやいや、深い意味はないよ。ワタシも今年で70歳を迎え、引退となる。そんなジジイの元にこうしてやってくる学生も滅多にいなくてね。冥途の土産に、少し話をしたくなったというだけなんだ」


 冗談なのか本気なのか、さっぱり分からない。


「あの、すみません。私、その……」

「――人が苦手、かな?」


 ドキっとする。なぜ――


「『なぜわかった?』という顔だね。そう難しい事ではないよ。キミはワタシに用があるにも関わらず、入口から全く動かない。肩は緊張で少し強張っていて、バッグを握り絞める手は力んでいる。おまけに、視線は一か所に落ち着かない。その様子だと、呼吸も浅そうだ」


 言われて初めて気づいた。意識すると、更に身体に力が入ってしまう。


「しかし――キミは講義中、いつもあの藤本くんと一緒だったね。ということは、人が苦手というより『男性が苦手』ということなのかな?」


 こ、この人、何者……?

 どうしてそんなに私の事が分かってしまうのだろう。

 それに、麗のことまで……


「怯えさせたのなら、すまない。ワタシの講義は知ってのとおり、受講生が少なくてね。学生の顔と名前はすぐに憶えてしまうんだ。特に藤本くんは、よく目立つからね」


 一緒にいる私も必然的に目立つ――ということか。

 先ほど仙人のような見た目と形容したけれど、中身まで仙人のようだ。


「ワタシのようなジジイを男性カテゴリーに括ることはない――といっても、無理があるかな」


 何がおかしいのか「わっはっは」と先生は笑い出した。


「なら、こうしよう。そこのデスクに座り給え」


 研究室のデスクは4つあって、2つずつ向かい合ってくっついている。

 その内の1つは現在、先生が座っていて入口に最も近いデスク。

 そして、先生が指差したのは、その斜め左にある入口から最も遠いデスクだった。


「こうして斜め向かいで話せば、多少は警戒感も薄まるのではないかな?」

「はあ……」


 そうまでして私と話したいのだろうか?

 それとも、別の目的がある?

 だとしたら、それは何?

 

 面倒な事にならなければいいのだけど……


 私はおずおずと指定されたデスクに向かい、「失礼します」と言って着席する。


「さて、明澄くんだったね。話を始める前に、1つ教えてほしいことがある」

「……何でしょう?」


 嫌な緊張感だ。


 先生は常に落ち着いていて、余裕たっぷりな印象。

 そのもったいぶった話し方、人の内面を見通すような眼差し。

 最早、何を言われてもおかしくはない。

 そして、何を言われても動揺してしまいそうになる。


「そのバッグ、一体何が入っているのかな?」

「……なんのことでしょう?」

「キミは先ほど、私に話しかける前、バッグに手をかけたね。あれは――そう、ちょうどバッグの中身を確認するような動きだった。 万に一つもないとは思うが、物騒なものだったら、さすがに見過ごせない」


 この人の前では、隠し事一つ通せない……

 私は観念して話し始めた。


「……催涙スプレーです、護身用の」

「なるほど。過去にそういうことが?」

「……未遂、でしたが。もう4年も前のことです……」

「そうか」


 先生は頷いただけで、それ以上は何も聞かなかった。


「キミの事情はわかった。疑ったりしてすまなかったね」

「いえ……」

「ワタシはこう見えても昔、武術をかじっていたことがあってね。そのせいか、相手の挙動や心理を捉える癖が出来ているんだ」


 なるほど、それで……


「それはある意味で、人を信用していないとも言える。信用してたらそんなに注意深く観察する必要もないからね。だから、警戒心の強さではキミにも負けていないはずだよ。もっとも、こんなジジイを狙ったところで何も得はないだろうがね」


 わっはっは、と先生は笑った。でも、私は笑えなかった。


 きっと――きっと、先生にもあったのだ。

 

 他人を信用できない時期が。

 人を警戒しなければ生きるのが困難だと信じていた過去が。

 

 そうでなければ、ここまで人を理解しようとはしないのではないか――

 私には、そう思えた。


「さて、本題に入ろう。キミがワタシの講義中に、一体何を考えていたのかを」


 私は洗いざらい白状した。

 一応、宿題のことは伏せておいて、ただ人生について知りたかったと嘯いて。

 この人にどれだけ意味があるかはわからなかったけれど――


「中々、面白い事を考えるねぇ、キミは」


 先生は白髭をさすりながら、面白いおもちゃでも見つけたように破顔する。

 私は固唾を飲んで、先生の次の言葉を待った。


「そうだねぇ、生きていればそういう悩みにはぶち当たるだろう。ワタシ自身も悩んだことはあるし、学生からも相談を受けることもある。それで、キミ自身の答えは出たのかな?」

 

「いえ……」

「そうか」


 言って、先生はまだ白髭をさすりながら黙ってしまった。

 この沈黙がひどくイヤだった。先生のプレッシャーに飲まれてしまいそうで。


「講義でシミュレーション仮説について話したのを、覚えているかな?」


 この世界は、本当は誰かが作ったヴァーチャルな世界で、動物も植物も自然現象すらも、単なるプログラムに過ぎない――そんな仮説だったと記憶している。


「そう、よく覚えていたね」


 先生は満足そうに、深く頷くとこう続けた。


「話を分かり易くするために、コンピューターゲームで例えよう。キミはゲームはよく遊ぶ方かな?」

「いえ……あまり詳しくはないです。でも、理解は出来ると思います」


 先生は満足そうに頷くと、こう言った。

 

「では、このコンピューターゲーム――どんなゲームでもいいんだが――には当然だが製作者がいる」

「はい」

「その製作者は一体、何を考えてゲームを作るのだろう?」

「……それは、ゲームによりけりだと思いますけど」

「例えば?」


 私は「そうですね……」と言いながら、具体例を考えた。


「例えば、趣味、自己表現、営利目的――それから社会貢献というのもあるかもしれません」

「そうだね。いずれにしても、ゲームの製作者はゲームを作る何かしらの『意図』がある」


 肝心の先生がこんな質問をする『意図』が分からなかったけれど、私はとりあえず話を合わせる事にした。


「もし、シミュレーション仮説が正しいとするなら、この世界もコンピューターゲームように、誰かのプログラムで作られたことになる」

「そう、なりますね」

「では、この世界というゲームは、誰が、どんな意図で作ったと考えられるだろう?」

「それは……」


 そんなこと、私にわかるわけがない。

 自分の人生だって分からないのに、世界の、しかも仮説の話だなんて、答えようがなかった。


「では、質問を変えようか。もしキミが全く新しい世界を、一から創造するとしたら、どんな世界にするかな?」

「私が、世界を……?」


 私が創りたい世界。

 私が創る、新しい世界。

 それは――


「誰も、傷つかない世界……」


 ぽつり、と自分でも気づかないうちに言葉を発していた。


「ほぅ」


 先生は感嘆の声を漏らした。


「どうして、そういう世界を作りたいと思ったんだね?」

「わかりません……ただ、言葉が勝手に口から出たというか……」

「ふむ……」


 先生はまた白髭をさすって、何事かを考え始めた。


「あるいは、それがキミの本心なのかもしれないね」

「え……?」 

「理由はない。ただ、そうであってほしい、それが純然たるキミの気持ち」

「どう、なんでしょう……」 

「キミは他人から『考えすぎだ』と言われることはないかな?」

「あり、ますけど……」


 先日、高月くんに言われたばかりだ。


「しかし、ワタシに言わせれば、キミはまだまだ考えが足りない。それは私に比べて知識や経験が足りない、という意味ではないよ。考えて考えて考え尽くして、何も考えられなくなるくらいに考えて初めて『考えすぎ』という境地に至る、という意味だ」

「何も、考えられなくなる……?」

 「中途半端にあれこれ考えても答えは出ない。キミはこの一週間、あれこれ悩んで、考えて、調べて、人から話を聞いても答えは出なかったのだろう?」

「はい……」

「そのアプローチが間違っていたとは思わない。人によってはそれで答えが出ることもあるからね。だが――」

「――私には、合わなかった」


 先生はニッコリと頷いた。


「さて、今一度問おう。この世界というゲームは、誰が、どんな意図で作ったと思う?」


 私が『誰も傷つかない世界』を望むということは、この世界はそうなっていない、ということだ。

 言い換えれば、この世界は『誰かが傷つく世界にプログラムされている』。


 ――だとしたら、それはなぜ?

 誰かが傷つくことにどんなメリットがあるというの?


「ふむ、またあれこれと思考の枠に閉じこもってしまったようだね」


 先生は白髭をさすりながら苦笑する。


「さすがに『考え尽くせ』と言われても、そうすぐに上手くはいかないかな?」

「そう、みたいです……」

「では、考えるヒントを出そう。もし、この世界がキミの望むとおり『誰も傷つかない世界』だったと仮定する。その時、『傷つかない』ことにどれくらいの価値があるだろう?」

「傷つかないことの、価値……?」


 言われてみれば、確かにそうだ。

 私が誰も傷つかない世界を欲するのは、傷つかない事にとても大きな価値があるからだ(少なくとも、私にとっては)。

 

 でも、もし『傷つかないことが当たり前の世界』があったら、その世界では傷つかないことにどれほどの価値があるのだろう?

 

 例えば、私たちは毎日当然のように水を使っている。

 手を洗う時、水を飲む時、お風呂に入る時……この水を使うが当たり前の世界では、水の価値を感じる事は難しい。

 

 しかしながら、もし天災や人災によって水が使えなくなったら?

 

 手は洗えない、水も飲めない、お風呂にも入れない――

 そういう体験を経てようやく気付くのだ、水の価値に。

 当たり前に存在していたものの価値に。

 

 傷つくからこそ、傷つかないことに価値が生まれる。

 苦しみがあるからこそ、楽しみに価値が生まれる。

 悲しみがあるからこそ、喜びに価値が生まれる。


 そうか、そういうことだったのだ。

 

 不幸、戦争、貧しさ、醜さ……そういうものがあるからこそ――

 幸福、平和、豊かさ、美しさといったものに価値が生まれるのだ。


 もし、苦しみも悲しみもない、不幸も戦争も貧しさも醜さもない世界があったなら、その世界には楽しみも喜びも、幸福も平和も豊かさも美しさもない世界になってしまうに違いない。

 

 たとえあったとしても、それらに価値は感じられない。

 なぜなら、それらは当たり前になってしまうからだ。

 

 そんな世界はとても――とても、寂しい世界だ。

 

 だから。

 

 だから、きっと。


「……この世界を作ったのは、きっと寂しがり屋だったんです」

「ほぅ?」

「寂しがりだから、色んなものを創ったんです。それがどんなにイヤなものであったとしても、それと正反対のポジティブなものが生まれるから。そういう、良いものも悪いものも含めて、たくさんのものに囲まれていたら……きっと、寂しくないから」

「それが、キミの答えかな?」

「はい」

「ファイナルアンサー?」

「ふぁ? ファイナルアンサー……」

「……」

「……」

「…………」

「…………」


 何? この間は一体何の間?

 長い長い沈黙を経て、先生がようやく口を開く。


「……正解!」

「ほっ……」

「――かどうかは、わからない」

「えぇ……」


 がっかりする私。


「さっきも言ったとおり、シミュレーション仮説はあくまで仮説。仮説が正しいかどうかは検証されるまで誰にも分からない。仮に仮説が正しかったとしても、キミの答えと一致するとも限らない」


 それじゃあ、今までの会話は一体なんだったの……?


「しかし、キミの答えは中々ユニークだね。ここは寂しがり屋さんが、寂しくならないように作った世界か。存外、絵本や童話作家なんかが向いているのかもしれないねぇ」


 もう何度目からわからない白髭をさすりながら、ニタニタと意地悪く笑う。今更ながら、自分が出した答えに恥ずかしくなってくる。


「あの、それじゃあ教えてください」

「んん? 何をだね?」

「課題レポートについて」


 そのためにここまで来て、こんな話に付き合ったのだ。そろそろ解放して欲しい。


「もう、教えただろう?」

「え?」


 一体、いつ?


「『この世界というゲームは、誰が、どんな意図で作ったと思う?』と。そして、『全く新しい世界を、一から創造するとしたら、どんな世界にするか』。これがレポートの課題だよ」


 ……それじゃあ、私はずっとこの人の手の平で踊らされてたという事?


「ただ、口頭での答えは受け付けてないからね。A4用紙1枚内で後日提出すること。でないと、単位はあげられないよ。期限は来週の講義まで」

「わ、わかりました……」

「あぁ、それと今日は、藤本くんはお休みだったね。あとで連絡しておいてあげなさい」

「はい……」


 なんだか、どっと疲れた。

 私はよろよろと立ち上がると「失礼します」と言って入口へ向かった。


「ああ、明澄くん」

「はい?」


 入り口前で、呼び止められた。


「また、何か聞きたい事があったら、いつでも来なさい」

「そう、ならないことを祈ります……」

「わっはっは、そう嫌わないでくれたまえ。お詫びというわけではないが、一つ教えておこう」


 あまり聞きたくはなかったけれど、先生を無碍にも出来ない。


「……何をですか?」

「ワタシには3歳になる孫がいるんだがね、それがまあ可愛くて可愛くて――」

「すみません、結論だけ簡潔にお願いします」

「いいねぇ、いい感じにほぐれているじゃないか」


 言われてみれば、ここに来た時の緊張はカケラも持ち合わせていなかった。これも先生の策略だったのだろうか。


「私の生きがいについてなんだがね」

「生きがい?」

「そう。孫なんだよ」

「お孫さん?」

「そう。孫の成長を見守るのが楽しみで楽しみでしょうがない」


 単なるノロケ話だった。


「それが、ワタシの生きがいだ」

「はぁ」

「実に、シンプルだろう?」

「そうですね」

「このシンプルさが『考え尽くした結果』というヤツだ」


 私はもう、何も答えたくなかった。

 言えばまた、話が長引きそうだったから。

 

 先生にお礼を言って研究室を出ると、研究棟の窓から覗く外の世界は薄暗くなっていた。

 疲労もピークに達しており――主にメンタル面で――今日は寄り道せず、まっすぐ帰りたい気分だった。

 

 けれど、先生から、だいぶヒントを得られた。

 これなら明日、ゆみ子さんへ良い回答が出来そうな気がする。


 ――この時の私はまだ、そう思っていた。

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