第16話:22日(土) 真昼

 ゆみ子さんの宿題回答日がやって来た。


 しかし私は、特別なことをするでもなくオムライスを作っていた。

 明日が母の誕生日だったので、そのリハーサルだ。

 

 ケチャップで文字を書くなんてやったことがないし、マッシュルームとニンジン、ピーマン抜きのオムライスなんて作ったことがない。

 本番でいきなり失敗するよりは、事前に試しておいた方が無難だろう。


 千花はすでにパネトーネを完成させていたらしく、今日は家でのんびりするみたいだ。

 リビングのソファに寝転がりながら、お菓子関係の雑誌を読みふけっている。

 

 父はワインを買いに外へ出ている。

 本当は昨日、会社帰りに買ってくるはずだったのが、すっかり忘れていたようだ。

 一昨日の夜、すき焼き屋さんで話をした後でアルコールが入っていたので、失念していたと言い訳じみたことを言っていた。


 ――と、彼らの担当分は本人たちに任せておこう。

 私は自分の心配をしなければ。

 

 さて、ニンジン抜きオムライスは千花が嫌いなこともあって普段から作っているからいいとして、マッシュルームは私が苦手でも今まで我慢して入れていた。

 ここから更にピーマンを抜くとなると、具材は玉ねぎと鶏肉しか残らない。


 そもそも、なぜ母のレシピではマッシュルームとピーマンを入れていたのか?


 簡単だ、マッシュルームは旨味成分のグルタミン酸、ピーマンは苦味として味全体のバランスを取っているに過ぎない。


 だから、グルタミン酸が豊富で苦味のある素材で代替すればいい。

 更に家族の好き嫌いを加味すれば、結論としてほうれん草を代わりにするのが最適だと判断した。


 元々が母のレシピだ、マズイはずがない。

 だから、マッシュルームやピーマンがほうれん草になったところで、好き嫌いさえなければ、美味しいはずなのだ。


 幸か不幸か、母は今日も出勤だった。

 明日の昼間は父が母を温泉に連れていく事になっているので、夕飯にみんなでお祝いすることになっていた。

 

「お姉ちゃ~ん、電話鳴ってるよ~?」


 千花がリビングで叫んでいる。

 そういえば、リビングテーブルにスマホを置いたままだった。

 料理で汚れた手を急いで洗うと、ぱたぱたとリビングへ向かう。


 が――


「切れちゃったね」

「うん……」


 私はスマホを手にとり、発信者を確認する。


「ゆみ子さん……?」


 電話の相手はゆみ子さんだった。

 今日、会う約束をしていたが、それは夕方の話である。

 時計を見ると、正午を過ぎた頃だった。

 

 …………イヤな予感がする。

 

 私はゆみ子さんへ折り返し電話をかける。

 ――五回、六回と着信音が鳴るも、ゆみ子さんは出ない。

 何かあったのだろうか……


「千花、最近ゆみ子さんと話した?」

「ううん。春休みにお姉ちゃんと一緒に会ってから、一度も話してない」

「そう……」


 まだ、何かが起こったわけではない。

 でも、どうしても不安が拭えない。

 私はお店の方へ直接電話をかけてみる。

 営業日だから、当然ゆみ子さんが出るはずなのだが――


「お店も出ないなんて……」


 絶対、何かあったに違いない。


「何? ゆみ子さん、何かあったの?」


 千花も心配そうに声をかけてくる。


「ううん、わからない……ただ、スマホもお店の電話も出なくて」

「お店も……? 今日はやってるんだよね」


 頷いた。

 千花も私と同じことを考えている。


「千花、私、ちょっとお店まで行って見てくる」


 何もなければそれでいい。

 たまたま電話に出られなかったとか、どっきりでしたとか、そんな笑い話で済むなら、それで――


「お姉ちゃんはオムライス作りかけでしょ? いいよ、私が行って来るから」


 千花はソファからぴょんと立ち上がると、身支度を始める。


「でも――」

「私の自転車の方が早いでしょ?」


 千花は高校まで自転車で通っていた。

 私は小学生の時に乗って以来だから、今乗るとなると多少不安がある。

 こういう時、車の免許があれば――いや、車は父が乗って行ってしまった。


「……わかった、お願い」

「うん。着いたら連絡するから」


 スマホを手元に置いておけ、と言いたいのだろう。

 千花を見送ると、私はオムライス作りの続きを始めた。

 が、とてもそんな気分にはなれない。


 ゆみ子さんに何かあったらどうしよう?

 両親に連絡した方がいいのだろうか?

 大人が誰もいないのだから、こういう時、私がしっかりしなければ――


「あ……」


 考え事をしていたせいか、包丁で軽く指を切ってしまった。

 幸い、血が滲む程度で大事ではない。


 私は救急箱から消毒液と絆創膏を取り出して、応急処置を済ませる。

 一体、何をやっているのだろう、私は――


 その時、スマホが鳴り出した。


 慌てて電話に出る。


「もしもしっ」

『あ、紗奈ちゃん? よかった、私、ゆみ子です』

「ゆみ子さん?! すみません、さっき電話に出れなくて――」

『ううん、いいの。こっちこそごめんなさい。折り返してくれたのに』

「それは全然――それより、何かあったんですか? お店に電話しても誰も出なくて」

『あ、うん。そのことで連絡があって……紗奈ちゃん、今日の約束、申し訳ないけれどキャンセルさせてくれるかしら?』


 キャンセル。

 ゆみ子さんは確かにそう言った。

 延期、ではなく。


「それは、構いませんけど……何かあったんですか?」

『実は今、病院――の外からかけてるんだけど……』


 病院?


 まさか――

 

 思わず、息を呑んだ。


『その、私……お――』

「お?」


 お、って何?

 何なの、ゆみ子さん?!


『――おめでた、みたいで』

「……………………………………」


 私はへなへなと膝から崩れて、その場にしゃがみ込んだ。


「それは、おめでとうございます……」

『ありがとう。ごめんね、何だか心配かけちゃったみたいで』

「いえ……」


 一気に脱力してしまって、思うように言葉が出て来ない。


『今朝お店に出てたら、私、急に倒れちゃって。意識はすぐに戻ったんだけど、主人が慌てて救急車を呼び出すわ、お客さんはみんな帰しちゃうわ、お店も臨時休業にするわでもう大騒ぎで――』


 ゆみ子さんは困ったように、しかし明るくしゃべり続ける。

 完全に、私の独り相撲だったようだ。

 ……いや、杞憂で良かったのだ。


「――それで、今はもう大丈夫なんですか?」

『ええ、軽い貧血だって。妊娠初期にはたまにあることだからって』

「そうですか……とにかく、ゆみ子さんがご無事で良かったです」


 ゆみ子さんは『ありがとう』と言って、こう続けた。


『それでね、主人と相談して、今日はこのままお店を休むことにしたから……紗奈ちゃんとの約束、反故にする形になっちゃって……』

「それはもう大丈夫ですから」

『明日はお店を開けるから、もし良かったら埋め合わせを――』

「病み上がりなんですから、無理しないでください。それに明日は母の誕生日なので』


 どうしてゆみ子さんはこう、自分を置き去りにして他人のために一生懸命になれるのだろう。

 私は少し苛立ちながら言ってしまった。


『あら、そうだったわね。すっかり失念していて……叔母様にあとでお祝いの電話を――』

「もう……そういうの、いいですから。母には私から言っておきますので。今日くらい、ご自身――と赤ちゃんのことを考えて、ゆっくり休んでください」

「……そう、ね。ごめんなさい、色々と。また折を見てお話させてね」


 それから、ゆみ子さんと二言三言話して、電話を切った。

 それにしても、ゆみ子さんが妊娠……

 私は近くにいたのに、全然気付けなかった。

 むしろ、目の前にあんなに大泣きして心配させて……


 私はいつもそうだ。

 自分のことばかりで、他人への気遣いなんて、考えもしない。


 私に、ゆみ子さんの十分の一ほどでも気遣いの出来る人間だったら――

 と、またスマホに電話がかかってきた。


「もしもし?」

『あ、お姉ちゃん? 今、お店の前にいるんだけど臨時休業の張り紙が張ってあって――』


 ……千花のこと、すっかり忘れてた。

 本当に、私は気遣いの出来ない人間だった。


 千花に事情を説明して、戻って来るように伝えた。

 怒ってはいないようなので、安心はしたけれど、申し訳ないことをしてしまった。

 

 千花との電話を切るや否や、リビングの扉が開いた。

 えっ――もう帰ってきた?


「ただいま――って、どうした紗奈? 具合でも悪いのか?」

「……お父さん。お帰りなさい。ううん、何でもない」


 台所にしゃがみ込んでいた私は、のろのろと立ち上がった。


「ワイン、買って来てくれたんだ」

「ああ。ただな――」


 ただ?

 ただ何なの?

 その否定語の先は、今は聞きたくない――


「母さんから連絡があって、どうも明日も出勤せざるを得ないらしい。だから、誕生日会は来週に延期だな」


「………………」

 

 私は再び、その場にしゃがみ込んでしまった。


「おい、どうした紗奈? 本当に大丈夫か?」

「うん……」


 先生、ゆみ子さん、母と立て続けに私を疲れさせてくれる。

 もういい、今日は何もしたくない。

 ゆっくり休もう。


「なあ、オムライス作りかけみたいだが……」

「…………………………」


 私には、ゆっくり休める時間など、ないのかもしれない。

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