第1話:13日(木) 昼過ぎ
「ちょっと紗奈、聞いたよ~? あんた、また男フッたんだって?」
500人ほどが収容出来る大学の講義ホール。
講義が終わって帰り支度をしていると、横から軽く肩を叩かれた。振り向くと、そこには意地悪そうにニヤけた女性が立っていた。
ショートカットに赤いメッシュ、黒いジャケットとパンツ、背中にはギターを担いでいる。
強めのアイシャドウに真っ直ぐな瞳、背丈は小柄なのに存在感がある女性、藤本麗。それが、彼女の名前だった。
「麗、あんまり大きな声で変な事言わないで」
私は右の人差し指を唇に当てて、『しぃっ』と彼女を叱った。
「そんな仕草も可愛らしいねえ」
麗はくっくっと笑いながら、隣に座って優雅に脚を組むと、こう言った。
「で?」
「で、って?」
「だから、また男をフッたって話。本当なの?」
私はまだホールに残っている学生達の視線を感じて立ち上がる。
そして、「外で話そう」と座ったばかりの麗の腕を取って、外へ向かう。
ホールを出た私達は、構内中央にある噴水前までやってきた。
空は青々と澄み渡っており、少し強めの風が吹くたびに、私の胸元まである横髪が顔に張り付いてくる。
私は髪を耳にかけ直しながら、時折、風に乗ってやってくる春の香りが鼻孔をくすぐるのを感じていた。
お昼を少し過ぎたこの時間、この場所の学生達はまばらであり、他人に話を聞かれる心配はなさそうである。
私は手近なベンチを見つけると、白のロングスカートを抑えながら腰かけた。
外はホールと違って暖かな陽気が充満しており、思わずベピーピンクのカーディガンを脱ごうかと思ったけど、万が一のことを考えて止めておいた。
麗は私の隣にでんっ、と座ると「それで?」と再び催促してくる。私はため息をつきながら、こう返す。
「いつも思うんだけど、どこから仕入れてくるの? そういう情報」
麗はどういうワケか情報通だった。パッと見は派手な身なりをしているし、黙って座っていたらちょっと声をかけずらいタイプだ。
軽音楽部でギターをやっているから、そっちの筋からの情報だろうか。
「まあ、情報の出どころは言えないけどさ。とにかく、あたしはあんたが心配で様子を見に来たワケよ」
「どうして私が心配されてるの?」
私が振られたのなら心配する理由もわかる。けれども、振った方を心配するというのはどういう心根だろう。
「あんたはバカが付くほど優しいから、きっと相手の事を考えて傷ついてるんじゃないか――と思ってね」
……悔しいけれど、当たらずとも遠からずだった。
私が優しいかどうかはともかくとして、相手の事を考えてモヤモヤとしているのは本当である。
「傷ついている訳じゃないけど、ちょっと思うところはあった――というか」
「やっぱりフッたのはホントだったんだ」
麗は額に手を当ててケタケタと笑った。
「……心配してたんじゃないの?」
「いや、心配だよ? いつまで経ってもあんたにゃ男が出来ないし、フッた相手の事を考えていまだにウジウジしてるし」
「別にウジウジしてるわけじゃ……」
「じゃ、『ちょっと思うところ』って何なのさ?」
麗はずいっと身を乗り出し、私との距離を詰めてきた。
不意に、ほのかなシトラス系の香りが漂ってきた。
麗らしく、自己主張しながらも繊細で、真っ直ぐな匂い。
そんな彼女だから、私の事を気遣ってくれているのは、とてもよくわかる。
わかるのだが……
「……とても、一言では言えない」
「いいよ、付き合うから。サークルまで時間があるし」
ニッと白い歯を見せる彼女に、私は嘆息した。
話さないと帰してはくれなさそうだ。私は観念してぽつりぽつりと話し始めた。
事の起こりは、昨日の夕方の事である。
構内の売店で文房具を物色していた私は、日が沈みかけているのを拝むと、速足に帰路へ着こうとした。
あと少しで校門に辿り着こうとしたその時、背後から男性に話し掛けられた。
一瞬びくっとして、恐る恐る――それとは気づかれないように――振り向くと、見知った顔がそこにあった。
しまりのない笑顔に、すらっとした長身。
ぼさぼさの黒髪天然パーマにベージュのパーカー、くるぶしを露にするくらいに短めの黒のスキニーチノパン、そしてスニーカー。
ダークブラウンのリュックを片方の肩にだけかけていた。
ラフな格好だったけど、それが似合ってはいるのが不思議な感じの人だった。
彼の名前は、高月――たかつき、なんだったか? 下の名前は忘れたけれど、とにかく高月くんが声の主だった。
彼との出会いは大学へ入学してすぐの頃。
筆記用具を忘れたらしい彼が、たまたま近くに座っていた私に「ペンを貸して欲しい」と話し掛けてきた事がきっかけだったと思う。
それ以来、講義で顔を合わせると挨拶くらいはする仲になっていた。
私は校門前で高月くんと一言二言、会話をすると、そろそろ帰りたい旨をそれとなく伝えた。
すると、何を思ったのか、彼はいきなり私に告白してきたのだ。
大学に入ってから異性に告白されたのはこれまでも何度かあったけど、どの人も一度断ると二度と告白してくる事はなかった。
ところが――
高月くんは違った。
彼からの告白は二度目だったのである。
一度目は確か――そう、大学に入学して最初の大学祭の時だった。
「そういや、言ってたね。学祭であたしの演奏聴き終わった後で告白されたって。なるほど、あの時のアイツか」
麗も高月くんの顔は知っているらしい。
彼女の言うとおり、麗のバンド演奏を聴き終えた私は、興奮冷めやらぬ状態で、ステージ近くの休憩スペースで休んでいた。
そこで高月くんに声をかけられ、話の流れで告白されたのだった。
「……で?」
私の話を聞き終えた麗は、つまらなそうに聞いてきた。
「で、って?」
「いやだから、あんたの言う『ちょっと思うところ』って、結局何だったの?」
「だって、2回も告白してきたんだよ? そんなこと今まで、一度もなかったから……だから、ちょっと戸惑ってるっていうか、なんていうか……」
私が視線を彷徨わせていると、麗は「……はぁ~~~っ」とそれはそれは深い深いため息をついた。
「あのねぇ、告白を2回するくらい、珍しくもないでしょうよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。それくらい、あんたのことが好きって事なんじゃないの?」
「……え? どう、なんだろう……?」
言われて、一瞬ドキっとした。
男の人が何を考えているか――なんて考えた事もないし、考えたくもなかった。
私は、肩が小さく震えているのを感じていた。
「まあ、恋愛経験の一つもないんだから、仕方ないっちゃ仕方ないかもしれないけどさぁ。チャンスはいくらでも舞い込んでくるクセに、ぜーんぶお断りしゃって。そんなんだから『高嶺の花』なんて揶揄されるんだよ」
「高嶺の花って、悪口だったの?」
「……これだよ」
麗はベンチの背もたれに身体を預けると、空を仰ぎ見た。
釣られて私も、空を見上げる。
遠くに薄っすらと雲が隠れていたが、私の心を洗い流すかのように青々としていた。
「……あたしはさ」
しばらく空を眺めていると、そのうち麗がぽつりとつぶやき出した。
「別にあんたが恋愛しようとするまいと、どっちでもいいと思ってる。ただね、あんたが本当は恋をしたいのに、それを抑圧しているように見えるんだ。もちろん、あんたの事情は聞いてるよ? それでもね、やりたい事が出来ないってツライ事だと、あたしは思うんだよ」
「……うん。麗の気持ちは嬉しい、とっても」
私は本心を告げて微笑むと、麗はガバっと抱き着いてきた。
「あ~~~~~もうっ!! あんたってば、なんでこんなに可愛いのさ!!」
「ちょっと、麗?! 苦しいってば!」
「あたしが男だったら、絶対に放っておかないのにぃ!!」
「そんなこと言って、彼氏に怒られない?」
「いーのいーの。彼氏に怒られようが別れられようが、私には紗奈がいるもーん」
言いながら、頬をすりすりしてくる。麗の肌は高級シルクみたいにスベスベで、とても気持ち良かった。けれど、さすがに人目があったので、無理矢理に麗を引きはがす。
「まぁ、でもさ。ストーカーとかされてる、ってワケでもないんでしょ? そのタカツキに」
「……うん。それはない、と思う」
少なくとも、そういう気配は感じた事がない。
私が気付いていないだけかもしれないし、これからも無いという保証はどこにもないけれど。
「だったらいいけどね。 何かあったらすぐにあたしを呼んでよ。すぐに駆け付けてボコボコにしてやるから」
麗はシュッシュッとシャドーボクシングを始める。
その様子がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
麗はいつも、こんな風に私を元気付けてくれる。
でも、たまに考えてしまう事があった。どうして彼女は、私なんかにこんなに良くしてくれるのだろう、と。
麗との出会いはちょうど高月と同じ時期だったように思う。
その日は電車が遅れていて、私は授業に遅刻してしまった。
講義室に入るとほぼ満席。
どうにか空いてる席を見つけ座ったその時、隣にいたのが麗だった。
当時の彼女は、何だかとてもドライに見えた。
見た目は今とそう変わらなかったように思う。
左手を顎に置きながら、右手でペン回しを、つまらなそうに授業を聞いていたのだった。
それでも、彼女のノートはキレイにまとめられているのが、私の視界に入った。
私は小さい声で――とてもとても小さな声で――彼女にここまでの授業ノートを見せて欲しいと頼み込んだ。
すると一瞬、驚いたような顔をした麗だったが、すぐにルーズリーフを解いて渡してくれた。
それ以来、私と麗はちょくちょく話すようになり、一年経った今ではこんな関係になっている。
私は彼女に対して、何か特別な事をしたつもりはなかった。
ただ、自分の知らない世界をたくさん知っている彼女と、一緒にいるのが楽しかっただけなのだ。
「あ、そーだ。紗奈にイイモノあげる」
「いいもの?」
麗はカバンを漁りながら、何かを取り出した。
「じゃーん!」
麗が取り出したのは、2枚の紙きれ。
「……チケット?」
「そ。なんかバイト先の先輩が行けなくなったんで、あげるって言うからもらった」
「もらったって……」
「あんた、好きでしょ?」
チケットを見ると、ヴァイオリン・リサイタルと書いてある。
演奏者は海外の有名なコンクールで賞を取った人だった。
演目にソナタがあるから、ピアノ伴奏もあるのだろう。
以前、麗に私もヴァイオリンを習っていたと伝えた事があったので、それを覚えていてくれたようだ。
開催日は、ちょうどゴールデンウィークの真っ最中。
「でもこれ、クラシックだよ?」
「たまには違うジャンルの曲を聴くのも、勉強になるっしょ――あ、連休中はバイトなんだっけ?」
麗の言うとおり、長期休暇中は従姉が経営しているカフェでアルバイトをさせてもらっていた。
「うん……けど、シフトは柔軟に変えてくれると思う」
「じゃ、決まり♪」
麗は強引にチケットを私に握らせて来る。
「……いいの?」
「いいも悪いも、あんたが行かないならあたしも行かないから、これはゴミになるだけ」
「それは――」
さすがに、気が引ける。
友人の好意だ、ここは有難く受け取っておこう。
「うん。ありがとう、麗」
「いーのいーの。むしろ、あたしが紗奈とデート出来てラッキーなくらい♪」
「デートって……」
そういう誤解を招くような事を言うのはやめて欲しい……
それから、麗としばらく他愛のない話をした後で、私はおもむろにベンチから立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね。陽も傾いてきたし――」
「あ、うん。じゃあ、また明日。恋愛相談ならいつでも乗るからね~♪」
「また、そんなこと言って……」
私は半ば呆れながら手を振って、麗と別れた。思わず腕時計を確認する。
昨日の告白のこともあって、自然と駅へ向かう道は速足になっていた。
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