第20話:28日(金) 黄昏

 朝から降っていたまとわりつくような雨は、午後になってから少し小降りになってきた。


 私は大学の講義室で、白髭先生の講義を聴いていた。


 あの後――英美さんと高月くんに会った後――、私は自身の中にあった黒い感情に頭が押しつぶされそうになりながら、どうにか帰宅した。


 自室のベッドにそのまま倒れ込むと、夕飯の支度もせずにそのまま半日も眠り込んでしまった。


 そして、今日。


 シャワーを浴びて幾分かスッキリすると、心配する両親を振り切って――千花はそうでもなかったけれど――、大学へ通った。


 あのまま家に引きこもっていたら、吐き気を催していたかもしれない。

 少しでも、外の空気を吸いたい気分だった。


 麗には会ったが、バンドメンバーと一緒にいたので、まだ昨日の事は話せていない。


 高月くんとは避けるようにしていたためか、会う事は無かった。

 また倒れた――なんてことはないと思うけれど。


「前回のレポートを拝見したところ、皆さん大変よく書けていました。中には、『新しい世界を創るとしたら?』という問いに対して、『世界がない、という世界を創りたい』と回答するユニークなレポートもありました」


 クスクスと、どこかで小さな笑いが起きた。

 おそらく、書いた本人なのだろう。


「また『この世界は寂しがり屋さんが創った世界』と可愛らしい回答をしたレポートもありました。この学生はレポートの日本語が美しく、思わず唸るような読後感を味わわせてもらいました」


 よもや自分のレポートが紹介されようとは……

 恥ずかしいやら照れくさいやらで思わず先生の方を見ると、先生と目が合ってしまった。


 ――笑っている?


 孫の成長を喜んでいるおじいちゃんのような笑みだ。

 私は目礼して返す。


「それから『新しい世界はいらない、今のままで十分』というレポートもありましたね。この学生は今がとても満たされているようだ。幸せな恋愛でもしているのかな?」


 室内から笑いが起きる。

 ひょっとしたら、これは麗が書いたレポートかもしれない――と考えると、私には笑えなかった。


「さて、皆さんにこのようなレポートを書いてもらったのは、前回も言いましたが、我々の世界は言葉によって区切られている、という事をある程度実感してもらうためのものでした。皆さんがレポートに書いた『新しい世界』は、『これまでの世界とは違う区切り方』によって構成されている。つまり、皆さんそれぞれの言葉の音と意味によって――」


 私は講義内容を必死にノートにメモする。

 しかし、昨日のことが度々フラッシュバックのように襲って来て、集中が続かない。

 麗が講義に出ているから、最悪はあとでノートを見せてもらえそうだけど、近頃、麗と少し距離があるように感じられて躊躇もしてしまう。


 そういえば、高月くんも入院していた期間の講義についてノートを見せて欲しい、と言っていた気がする。

 そうか、私が困っているように、高月くんもノートが見られないと困るに違いない。


 ……それとも、あれは私に近づくための方便だった?

 昨日も『今はまだ付き合ってない』という意味深なことを言っていたし。


 そもそも、彼はどうして、私のことが好きなのだろう?


 二回も告白してきたくらいなのに、昨日はやけにそっけなかったような……


 英美さんがいたから?

 だとしたら、なぜ英美さんの前では私にそっけなくするの?


 ……いけない、また思考の枠にはまっている。

 考えが足りない証拠だ。

 何も考えられなくなるくらい、考え尽くさないと――


「――では、本日の講義はこれで終わります。本日はレポートを出さないのでゆっくり休んでください。良い連休を」


 ……また、講義を聴き逃してしまった。

 どうせ、先生には上の空だったことはバレているに違いない。


 それなら、いっそ――


 私は決意すると、次の講義室へ向かって行った。


********


「失礼します」


 先刻、先生の講義を受けた私は次の講義――今週最後の講義――を終え、白髭先生の研究室に再びやってきた。

 すっかり止んだ雨のおかげで荷物になっていた傘を研究室前に置いてあった傘立てに入れる。

 ノックをして先生の声を確認すると、やおらに扉を開ける。

 先生は先週と同じデスクに座っていて、書類に目を通していた。


「――やあ、明澄くんか。今日はどうしたのかな?」


 相変わらずの白髪・白髭・白ワイシャツ。

 口元は笑みを浮かべているが、眼光は鋭く私を観察しているようだった。


「先生に、ご相談したいことがありまして……」

「ふむ……まあ、とりあえず入り給え」


 私は軽くお辞儀をして、扉を閉める。

 先生に促されて先週も座ったデスク――先生の斜め向かい――の椅子に腰かける。


「キミは再び、ここに来るんじゃないかと思ってはいた」


 先生は目を細めて言う。

 

「しかし、これほど早くに訪れるとはねぇ。講義でまた考え事をしていたのが関係しているのかな?」


 やはり、バレていたようだ。

 

「……はい」

「ふむ」


 白髭をさすりながら、先生は私の次の言葉を待っているようだった。


「先生は……人はどうして生まれて来るとお思いでしょうか?」


 先生はたっぷりと間を取ってから、こう言った。

 

「どうしてそんなことを?」

「私は……私は、わからないんです。自分のことが……」


 私は先生に全てを話した。

 一人が好きだった事、ヴァイオリンを習っていたこと、4年前のこと、麗のこと、そして高月くんのことも――


「一人が好きで一人でいたいと願えば、誰かが私の側に寄ってくるのに、私が誰かと一緒にいたいと願えば、みんなは私から遠ざかっていってしまうんです。私はどうすればいいのでしょうか? どうして、私はこんな私に生まれたんでしょうか?」


 黙って私の話を聞いていた先生は、厳しい口調でこう言った。


「キミはみんなが遠ざかっていくと言っているが、遠ざかっているのはむしろ明澄くんのほうじゃないかな?」

「え……?」

 「藤本くんの例でいえば、彼女は本当にキミと親友になりたかったのだろうか。もし、そうでないなら、親友と言う言葉は彼女にとっては重荷になる」

「……私が勝手に前へ進もうとしたから、麗が遠ざかっているように感じるということですか?」


 先生は私の疑問には答えずに、こう続ける。


「高月くんの例もそうだ。彼は何も変わっていない。キミが勝手に思い違いをして遠ざかっているように思うがね」

「………………」


 確かに、先生の言うとおりだ。

 私は高月くんのことをよく知りもしないで、英美さんとの関係を勘繰ったり、私への態度を疑ったりしていた。


「従姉のお姉さんの件も同様だ。ワタシはその方に会ったことがないから断定は出来ないが、彼女は『埋め合わせをする』と言っていたのだろう? しかし、キミは『彼女に悪い』というもっともらしい理由をつけて遠ざかっている。子供を宿した彼女が、自分のことを前ほど可愛がってくれないのではないか――そんな恐怖を覚えてはいないかな?」


 先生の言葉は研ぎ澄ました刃のように、私の心に突き刺さっていた。


「キミは一人が好きだ、一人で心の平穏を保っていたいと言っていたね。だからこそ、ワタシは『考え尽くす』という方法論を伝えたのだ。あれなら思い悩んだ時、一人で解消できるだろう?」

「はい…………でも、でもダメだったんです。高月くんの前ではすぐにまた、思考の枠に囚われてしまって――」

「キミはどうして他者と関わりたいと思ったのかな?」

「え……?」


 どうして……?

 どうしてなんだろう?

 私は一人が好きなはずだったのに。

 どうして他人と一緒にいたいと願ってしまったのだろう?


「別に『考え尽くす』という方法でなくとも、キミが心の平穏を保つ方法などいくらでも教えられるよ。呼吸や姿勢、動作や言葉など、それこそ無数にね。ただ、それを他者と共にある時に行おうとすると、難易度は跳ね上がる。相応の訓練が必要だ」

「……先生が武術をやっていたように、ですか?」


 先生は厳かに頷いた。


「そもそも一人が好きなら、ここへも来ていないのではないかな?」


 そのとおりだった……


「もう一度問おう。キミはどうして他者と関わりたいと思ったのかな?」


 大学へ入学して麗と友達になって、アルバイトを始めてゆみ子さんと親しくなって、告白してくれた高月くんとリサイタルに行きたくて――

 

 それらは、私が一人じゃないということを、実感させるには十分だった。


 私が孤独じゃないって教えてくれたのは、常に他者の存在だった。


 そう、私は知ってしまったのだ。


 自分の中にある、本当に気持ちに――


「………………寂しかったから」


 そうなのだ。


 そういうことなのだ。

 

 世界を作った寂しがり屋の誰かさんは、私だったのだ。

 

 一人が好き、一人でも平気、それは確かにそうだ。


 でもそれは、他者の温もりを知らなかったから。


 他者と本気関わろうとする前だったから――


「……でも、ツライんです。他者と関わろうとすると、自分の中にある醜いものや汚いものが出て来て、それがイヤで、私は――」

「――ついて来なさい」


 先生はそれだけ言って立ち上がると、私の言葉を無視してスタスタと研究室の外へ出て行ってしまった。


 私はワケもわからず、慌ててあとを追いかける。


 部屋を出ると先生が階段へ向かって行くのが見えた。バッグを置いてきてしまったことに気付いたが、先生を見失うといけない――そう思い、手ぶらで階段へ向かった。

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