第21話:28日(金) 春宵

 私が階段に着くと、先生は階段を上って行くのが見えた。

 ここは研究棟の最上階だったはず……?


 訝しみながらも、私は先生の後を追う。


 先生が階段を上り切ったところで追いついた。


 しかし、私たちの前には『立ち入り禁止』と書かれたポールが立ちふさがっていた。

 先生は気にする様子もなく、先に進んでいった。


 え、大丈夫なの……?


 多少の罪悪感を覚えながら、私も立ち入り禁止エリアへ歩を進める。


 仄の暗い廊下を少し進むと、重たい鉄の扉が待ち構えていた。


 先生は鍵を取り出して難なく解除をすると、ゆっくりとドアノブを回す。

 

 鉄の扉の先に待っていたのは――


 ――屋上の景色だった。


 夕暮れ時、空は朱に染まっていた。

 遠くでスポーツをしているらしい学生たちの声が響いてくる。

 雨上がりの湿った匂いが鼻孔をついた。

 地面は屋上緑化がなされていて、時折風に吹かれてなびいていた。


「大学の敷地に、こんな場所があったんですね……」


 少し風が強く吹いていた。

 私は顔にかかる髪を耳にかけながら、更に奥へ進む先生の後を追いかけた。


 先生は屋上の端にあるフェンスの前で、ようやく立ち止まった。


 私は先生から少し距離を置いて、斜め後ろから様子を伺う。


「こちらに来たまえ」


 高いところと、男性の隣という恐怖から足がすくみそうになるのを、何とか堪えて先生の隣に立つ。


「キミの目には、どう映る?」

「…………キレイ、です。とても」


 屋上からは、遠くの山に沈もうとしている太陽が拝めた。

 首を動かすと構内を一望出来、更には町やその先にある川が見えた。


「キミはレポートにこう書いていたね。『もし、苦しみも悲しみもない、不幸も戦争も貧しさも醜さもない世界があったなら、その世界には楽しみも喜びも、幸福も平和も豊かさも美しさもない世界になってしまうに違いない』と」


「はい……」


 よくも覚えているものだと舌を巻く。


「今、キミの心は美しさを感じている。そうだね」

「はい」

「もしあのレポートが真実だとしたら、キミの心に美しさがあるということは、同時に醜さも存在するのだ」

「……はい」 

「一人が好きというのなら、同時に一人が嫌いなキミも存在するのだよ」


 寂しがり屋のキミがね、と先生は付け加えた。


「そして、そういった相矛盾する心を宿しているのが、人間だ」

「先生、私は……私は、どうしたら…………」


 先生の横顔を伺う。白髪と白髭が夕日に映えて、キラキラとオレンジ色に輝いていた。


「答えは、キミの心の中にしかないよ」


 先生は、私を見ずに言った。

 

 それは紛れもない真実で、残酷な現実だった。

 先生は答えをくれない。

 私が、自分で見出すしかない。ゆみ子さんの宿題は、まだ続いていた。

 

 私は項垂れて、下唇を噛んだ。


「だが、いくつかの道は示せる」


 私は俯いたまま、耳だけ先生に預けた。


「一つ、これまでとおり一人でいる道だ。心の平穏は保たれるかもしれないが、寂しさは消えないだろう」


 私は黙って、先生の言葉を待つ。


「二つ、他者と関わる道だ。寂しさは消えるが、今のキミが心の平穏を保つのは難しいだろう」


 どちらも茨の道に思えた。他者を知る前の私だったら、一つ目の道を選んだはずなのに、今はこんなにも迷っている。


「そして――」


 先生の話は、まだ続いていた。


「三つ、一人でいるために他者と関わる道だ」

 

 私は顔を上げて、再び先生の横顔を見た。

 

「……それは、どういう……?」


 先生は私を見ないまま、虚空に吐き捨てるように語る。


「他者と関わって関わって関わり続けると、キミはおそらく一人になる時間を欲するようになるだろう。そして、一人で居続けることに慣れると、今度は再び外へ出て他者と関わりたくなる。ただ、これの繰り返しだ」


 なんだか、とてもシンプルなように聞こえた。

 先生のことだから、更なる茨道かと思ったのだけれど……


「キミは、世界を知らなさすぎる。あまりにも狭い、自分の殻の中でしか物事が見えていない」


 それは、そうだった。

 私一人の、小さな小さな世界で、私は生きてきたのだ。

 他者と関わらなかったから。

 自分の殻に閉じこもっていたから。


「もし、第三の道を歩むというのなら――」


 先生はようやく私の方を向いて言った。


「もっと他者に興味を持ちなさい。そして、もっと世界を知りなさい」

「……はい」

「もっと他者と関わるようにしなさい。そして、たくさん傷つきなさい」

「……はい」

「もっと恋をしなさい。そして、人を愛する事と人に愛される事を学びなさい」

「………………はい」


 先生の言葉一つ一つが、私の心に染み入ってくる。


「キミは、まだまだ若い。人生を悲観するには早すぎる。

 それでも迷ったり、傷ついたりしたら、いつでも相談に乗ろう。

 私も、キミが関わる他者の一人として、ね」


 ああ……

 ああぁあぁぁあぁぁぁぁ……


 目から大粒の涙を零しながら、泣き叫ぶ子供のような声を上げて、私はフェンスにしがみついた。

 

 心の奥底で溜まっていた全ての感情が、マグマのように吹き出して来る。

 

 でも、それでも先生は私に寄り添わない。

 ただ、黙って隣に立っているだけだ。


 これも、先生が示したい道なのだろう。


 自分の足で立って歩きなさい。

 他者に寄り添って欲しければ、自分の口で言いなさい。

 他人が示した道に従う時も、自らの責任を放棄しないこと。

 

 そう、実践して教えてくれているような気がした。


 私はまだ、自ら答えをつかみ取っていない。


 ゆみ子さんの宿題へは、答えが出せていないままだ。


 多分、宿題はこのあとも続いていくのだろう。


 私が死を迎える、その時まで。

 

 それでも――いや、それゆえに、私は問い続ける。


 どうして私は、生まれて来たのかを――

 

 私の発する獣のような慟哭は、沈みゆく太陽と共に、彼方へ消えて行った。

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