第19話:27日(木) 日暮れ

 自宅からバスに乗っておよそ20分。

 公園前のバス停で降りた私は、改めて園内の広さに圧倒されていた。

 

 先週、高月くんと登った丘は園内のほんの一部でしかなく、園内の未踏破地区を散歩するには十分の大きさだった。


 ま、慌てて制覇することもないだろう。

 これだけ広くて自然が溢れている公園は、私も初めてである。

 

 ゆっくり開拓するとしよう。

 今日のところは軽く一周してみるくらいで、時間的にもちょうどいい。


 方針が決まるとさっそく歩き出す。

 家を出た時はまだ日が高いと感じていたけれど、今は少し傾いて来ている。


 ……大丈夫。


 まだまだ空は明るいし、催涙スプレーだって常備している。


 護身用具を準備して公園を散歩する人は、一体どれくらいいるのだろう?

 我ながら滑稽だなと思いながら、のんびりと道を進んで行く。

 時折すれ違う男性とは出来る出来る限り距離を取りながら――


 園内を5分も歩くと、テニスコートが見えて来た。


 老若男女のプレイヤーたちが思い思いに楽しんでいる様子をぼーっと眺めたのち、更に奥へ進むと今度は大きな池が見えてきた。

 立てつけてある説明文を読むとどうやら人工池らしい。

 カモやサギが見受けられる。なんとまあ、長閑な空間だこと。


 池をグルっと回ると、ちょうど園内を半周したことになる。

 途中、ところどころに番号の書いてある立札が置いてあることに気付いた。

 高月くんが迷子になる子供なんかがいる言っていたから、目印なのだろう。

 公園の運営センター直通の電話番号も書いてある。


 道なりに進んでいくと売店が見えて来た。

 お菓子屋や飲み物が買えるようだ。

 更に、池を拝みながら休憩できるスペースまである。


 生憎ベンチは3つしかなく満席だった。

 止む無く先へ行こうとすると、休憩していた男女のペアが立ち上がった。

 私が空いたベンチに座ろうと足を踏み出した、その時。


「…………え?」

「あ…………」


 思いもがけない――いや、万が一にもないと思っていた人が、目の前にいた。


「た、高月くん……」


 こんな偶然があってもいいのだろうか。

 この広い公園で、今日この時間に、会いたい人に会える確率など、天文学的なものに違いない。

 もし、『運命と言うのを信じますか?』と問われれば『イエス』と答えていても不思議ではない――それくらいの衝撃だった。


「明澄さん、どうしてここに?」

「高月くんこそ……それに――」


 私は彼の隣にいる女性をチラ見した。


 年齢はゆみ子さんくらいだろうか。

 肩まであるソバージュヘアに、大きな瞳。

 透き通るような鼻筋はギリシャ彫刻のように整っており、口元は微笑みを讃えている。

 白いジャケットとタイトスカートのビジネス風スタイルだったけれど、もし、ドレスでも着て「私は女神です」なんて自己紹介されたら、信じてしまいそうなくらい圧倒的なオーラが、そこにあった。


「優斗のお知り合い?」

「あぁ……大学の同期で」

「そうなの、随分と可愛らしいお嬢さんね。初めまして、佐々木英美と言います。一応、この子の義理の母――ということになるわ」


 ぎ、義理の母……? この人が……? 


 ウソ……だってお母さんは亡くなったって……高月くん、そう言って……そんな話、私、聞いてない……


「ご、ご丁寧にどうも、初めましてっ。明澄紗奈と申します。高月くんとは、その、いつも懇意にさせてもらってます」

 

 私は混乱したまま自己紹介をした。


「こちらこそ、息子がお世話になってます。優斗の彼女さん――というわけではなさそうね」

「今はね」


 二人は意味深な会話を繰り広げる。


「あの、私は散歩をするために来ただけで……」


 なぜ言い訳じみた事を言っているんだろう、私は――


「私たちは病院の帰りで、気晴らしに寄っただけなの」

「病院、ですか?」

「ええ。この子が三日前、アルバイト先で倒れてしまって……」


 英美さんは右手を頬に当て「困ったものだわ」と言った調子でため息を吐いた。


「倒れたって――」


 だから今週は、大学で会えなかったということ?


「……高月くん、ホントなの? もう動いて大丈夫なの?」

「うん、ただの過労だから大した事ないよ」

「何が『大した事ない』よ。過労で倒れる学生なんて今日日聞いたことないわ。どれだけ心配したと思ってるの」

 

 英美さんはコツンと高月くんの頭を小突いた。


「だから、それはもう何度も謝ったでしょ? 英美さんこそ、今日も仕事午前で抜け出したりして良かったの?」

「家族より大事なものがありますか。それでクビにするような会社だったら、こっちから辞めてやるわ」

「相変わらず豪胆だねぇ。頼むから無茶しないでね」

「それはこっちのセリフ。しばらくアルバイト禁止だからね」

「そんな! ウソだと言ってよマイマザ~!」

「ゴネてもダーメ。一週間は安静にしていなさい」


 え、何? 何なの、この二人の距離感?

 義理の母と息子? 本当に?

 

 それに私、高月くんのあんな楽しそうな顔、見たことない――


 ……やだ、何、これ……

 私、どうしちゃったの……?

 やだ、知らない……こんな感情、私、知らない……!


 嫉妬、惨めさ、憤り、不信感……様々な負の感情が私の内から沸き上がっていた。


 自分の中に、こんな気持ちがあったなんて――

 

 こんなにも、自分の心が醜かったなんて――


 ――いや、何を勘違いしていたんだろう、私は。


 自分はそんな清廉潔白で、聖人君子のような人間だったとでも言うつもりなのだろうか?


 この薄汚れた人間社会で、自分だけはキレイな存在でいられたと思っていたのか?


 バカバカしい……

 

 そもそも、私はすでに汚れていたのではなかったのか?


 4年前の、あの時から――


「それにしても貴女の顔、どこかで見た事あるような……」

「なに英美さん、ナンパ?」

「バカ、そうじゃなくて本当に――」


 英美さんは私の顔を見ながら、首を傾げた。


「……あ、思い出した。貴女、ゆみ子のお店で働いていたことがあったでしょう?」

「え……?」


 ゆみ子さん? どうしてここで、ゆみ子さんの名前が――


『帰国子女でトライリンガル、外資系に勤めるバリキャリ。昨年の秋、初婚で14歳年上の男性(子持ち)と結ばれる。包容力がありつつも、叱る時はきっちり叱ってくれる才色兼備。ただし、虫が大の苦手』


「あ――」


 まさか、ゆみ子さんが車の中で言っていた大学時代の先輩って――


「虫が、苦手な……」

「やだ、ゆみ子から聞いたの? もう……ゆみ子は大学時代の後輩なの。去年の夏にお店に行ったのが最後だったけど、結局会えなかったのよね。代わりに、その時お店にいたのが貴女だった」


 私も思い出した。


 英美さんはお店の近くまで来たからたまたま寄ったと言っていた。

 しかし、ホールに立っていたのは私で、ゆみ子さんの事を尋ねられたので不在と答えたのだった。


 その後、彼女はコーヒーを一杯だけ飲んで、マスターに挨拶して去って行った。

 そういえばゆみ子さんが、マスターと一緒になったきっかけは、英美さんだったと言っていた。


 あの時も英美さんは『佐々木』を名乗っていた。ということは――

 

「佐々木さんの苗字は、旧姓なんですか?」

「ええ、夫が取引先にいて、珍しい苗字だから被ると色々と面倒で。プライベートでも畏まった場以外では、ね。全く、苗字で個人の自由を侵害するなんて、時代遅れも甚だしいわ」

「え、何々? 二人は知り合いだったの? これってもしかして運命ってやつ?」

「アンタは本当に空気を読まないわねぇ……」

 

 ゆみ子さんは英美さんの後輩で、英美さんは高月くんの義理のお母さんで、高月くんは私に告白してきて、私は英美さんと知り合っていて――


 奇妙な縁だった。もし、運命というのがあるのなら、どうしてこんな――


「――高月くんは、どうして過労してまでアルバイトを……?」


 私は沸々と煮えたぎる何かを払拭するために、確認せずにはおれなかった。


「あ、うん……その、父は再婚だけど英美さんにとっては初めての結婚生活だからさ。僕が一緒に暮らしてたら二人のお邪魔かな~なんて」

 

「それでこの子、一人暮らしの費用を必死で稼ごうとしてあんな無茶をしたみたいなの。もう、本当にどうしようもないわ」

 

 ホントに?

 高月くんの言っていることにウソはないの?

 本当は英美さんから離れたかったんじゃないの?

 だって、あんなに楽しそうに――


 ――いけない。また思考の枠に囚われている。


 考えろ、全てを。

 何もかも、全てがわからなくなるくらいに、考え尽くせ――!


「英美さん、そろそろ行かない? 病院帰りの荷物が重くてしんどいんですけど」

「自業自得でしょ。少しは反省しなさい」

「そんな、さっきは安静にしろって言ってたじゃん」


 ……ダメ、無理。

 二人がいる前で、考えを尽くすなんて、私には出来ない……!


「……すみません、私もそろそろお暇します」

「あ、そうね。引き止めちゃったみたいでごめんなさい」

「明澄さん、明日は大学行くから、休み中のノートとか見せてね」


 私は曖昧に頷いて、逃げるようにその場を立ち去った。


 高月くんに、チケットを渡せないまま――

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