第18話:27日(木) 夕前
高月くんにチケットが渡せないまま、三日が経っていた。
大学では麗ともあまり会えていないし、今日の講義は午後一で終わり。
先生へのレポートは提出したし、母の誕生日に向けたオムライスレシピも出来上がった。
ゆみ子さんの宿題が宙ぶらりんのままだったけれど、次にいつ会えるかも分からないからモチベーションも上がらない。
先週が慌ただしかったせいか、落ち着いていることで少し違和感を覚えている。
以前なら、心の平穏こそが最大の望みだったはずなのに。
何となく暇を持て余した感のあった私は、しかし特にすることもなく、最寄り駅から真っ直ぐに帰宅する事にした。
春の陽気がポカポカと気持ちがいい。
散歩するには持ってこいの日よりかもしれない。
そんな呑気なことを考えながら、自宅に辿り着く。
「ただいま」
自宅の玄関扉を開けると、千花のローファーが脱ぎ捨ててあるのが目に飛び込んだきた。
もう帰宅しているようだ。
私が千花の靴を揃えていると、見慣れないローファーが二足ある事に気付く。
千花のだろうか?
いや、まさか――
などと考えていたら、キッチンの方から姦しい声が響いて来る。
どうやら、千花のお客さんらしい。
お菓子作り命の彼女が友達を連れてくるなんて珍しい。
そういえば、お菓子を配って友達がたくさん出来たと言っていた。
高校デビューでもしたのだろうか……?
「……ただいま」
私は恐る恐るキッチンの扉を開けると――
「だ~か~らぁ、何回言ったら分かるのさ! 粉モノを混ぜるときには切るように混ぜるの! じゃないと、焼いた時に生地が固くなっちゃうんだって!」
「ご、ごめん、千花ちゃん……」
「ど、どうか、怒らないで……」
そこは修羅の戦場と化していた。
エプロン姿でお玉を振り回して指示する千花と、他に二人。
お菓子作り同好会のメンバーが三人と言っていたから、同好の士なのだろうか。
それにしてもこの二人、なんとも――
「あ、お姉ちゃん。おかえりー」
「ただいま、千花。お友達?」
「うん。同好会の会員その一とその二」
これは紹介というのだろうか……
千花が言うところの『その一さん』と『その二さん』は瓜二つの同じ顔だった。
いや、顔だけではない。
背格好も、制服も、その上から身につけているエプロンも、声色まで何もかもがそっくりだ。
二人は透き通るような黒髪を眉毛の辺りで切りそろえていて、腰まである長い後ろ髪も、今は調理中なので後ろで軽く括っているが、解けば同様に切り揃っているのだろう。
背は千花よりも高く、私と同じくらい。
華奢な体格だけど、出る所はしっかり出ている。
着物姿だったら精巧な日本人形と見紛うほどの大和撫子たちだった。
「ち、千花ちゃん?! お姉さんがこんなに綺麗な人だったなんて、聞いてないよ?!」
「そうだよ、どうして言ってくれなかったの?!」
二人は千花の後ろに隠れて、おどおどとこちらの様子を伺っている。
そんなに怯えなくてもいいのに……
「いやだって、『ウチのお姉ちゃんは美人だよ』なんて紹介しないでしょ、普通?」
千花が常識を語るのどうなんだろう。
友達をその一、その二呼ばわりしておいて……
「初めまして。千花の姉の紗奈です。千花と付き合うのは色々と大変だと思うけど、悪い子じゃないから仲良くしてあげてね」
千花に任せていると埒が明かないので、私から自己紹介する事にした。
「あ、は、はい! あの、私、六条涼音と言いますっ」
「お、同じく涼乃ですっ」
二人は全く同じタイミングで深々と頭を下げる。
お辞儀の角度まで綺麗に横一線だ。
「二人は一卵性双生児なの?」
「は、はい!」
「そ、そうです!」
二人は千花の後ろに隠れながら答える。
千花とはまるで正反対の性格をしているようだけど、一体何が三人を結びつけたのだろう。
「ニスズ! もう、挨拶はその辺でいいから、ちゃっちゃと続きやるよ」
『は、はいぃ!』
にすず……?
涼音と涼乃、「二人のスズが付く名前」だからまとめてそう呼んでいるのだろう。
千花の二人に対する扱いがあんまりだ。
千花教官はお菓子作りのこととなると妥協はしない。
新人相手だろうが容赦ない指導で二人でしごいていく。
二人もよく千花についていく気になったものだ。
材料や調理器具を伺ってみると、どうやらクッキーを作っているらしい。
お菓子作りの初歩と言えば初歩だ。
同好会も始まったばかりなのだろうし、それはいいのだげど――
「三人とも、クラブ活動は学校でしないの?」
私は疑問をぶつけてみた。
「今日は家庭科室が臨時点検とか何とかで使えないから、ウチでやる事にしたの」
「そうなの……」
千花は年季が入っているから心配はない。問題は――
「あぁ、生地がシートからはみ出しちゃった?!」
「うぅ、型がズレてキレイなハートにならないよ?!」
二人の顔にはクッキーのタネがうっすらと付いており、エプロンには卵の汚れが目立つ。
小麦粉は床に零れているし、部屋全体にバニラエッセンスの香りが漂っていてどうにも甘ったるい……
『千花ちゃ~ん』
「ホンットにトロいなぁ……ピアノはあんな上手に弾けるのに、どうしてお菓子はこんなに不器用なの? ……いい? こうやるんだよ」
お手本を見せる千花。やはり慣れているだけあって、動きが滑らかだ。
それに何のかんの言っても、意外と面倒見がいいらしい。
二人も千花のそういう所に惹かれたのだろうか。
それはそうと、この二人はピアノを弾くようだ。
……大丈夫だろうか。
楽器演奏者にとって指は命と同じ、調理でケガをしたら数日、下手をしたら何週間も演奏が出来なくなってしまう。
私もヴァイオリンをしている時は、かなり気を遣っていた。
まあ、多少の不安はあるけれど、クッキーだったら包丁も火も使わない上、千花もいるから大丈夫だろう。
それより、この騒々しさの中では、勉強にしようにも集中出来そうにない。
かといって大学生の私が高校の同好会活動――非正規とはいえ――に参加するわけにもいかない。
――とりあえず、外に出よう。
「……千花。私、出掛けてくるね」
「あ、うん。行ってらっしゃ~い」
「二人ともごゆっくり」
涼音ちゃんと涼乃ちゃんは丁寧に返礼してくれた。
「ほら、ニスズ! 手を動かす!」
『はいぃ!』
……ホントに大丈夫だろうか。
一抹の不安を残しながら、私は先ほど通った玄関から再び、そのままの恰好で外へ出て来てしまった。
さて、これからどうしようか。
一度、ゆみ子さんのところへ顔を出そうか。
――いや、せっかくのお散歩日よりだ。
まだ日も明るいし、外を歩きたい気分でもある。
それに、宿題の答えもまだ固まってはいない。
――そうだ。
私はスマホを取り出して地図アプリを開いた。
……うん、やっぱり。
先日、高月くんに連れて行ってもらった公園、家からバスで行ける距離にある。
この前は電車で帰ってきたけれど、一旦駅まで行くよりバスで直行した方が早い。
とてつもなく広い公園だったので、全部を回り切れていなかった。
これを機に散歩をしてみるのもいい。
それに運が良ければ高月くんに会えるかも――なんて、そんな偶然は万に一つもないことは分かっていつつも、チケットはしっかりバッグに入れてある。
……念には念を、というやつだ。
私はバス停へ向かって、歩き出した。
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