第9話:20日(木) 昼下り

 麗とランチを終えた私は、本日最後の講義を受けていた。

 単位を取るためだけに受けていた授業だったので、さほど身に入らず、講義の内容もそこそこに麗との会話を反芻していた。

 

 人が生きる事に意味があろうがなかろうが、自分で決めるしかない。

 

 その上で私は、どう生きたいのだろう?

 何がしたいのだろう?

 私に出来ることは何だろう?

 何か為さねばならないことがあるのだとしたら、それは何だろう?


 私の内側から問いがシャボン玉のように浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる。

 これまでの人生、そんなことを真剣に考えて来なかった。


 そのツケが今、回ってきたというのだろうか?

 それとも、このタイミングであっても、考える機会を与えられた事に感謝すべきなのだろうか?


 するとやはり、ゆみ子さんは私に足りないものを看破して、この宿題をくれたのだろうか?


 今、この講義を受けている学生たちは皆、進むべき道を定めているのだろうか?

 何も決まっていないのは、私だけなのだろうか?


 頭の中のシャボン玉は途切れることなく、そして遂には脳内を埋め尽くした。


 軽く頭痛がする……


 と思ったら、首が頭を支えられずに前へ落ちて来た。

 慌てて手で頭を支え、何とか自分を保つ。傍からみたら、居眠りしそうになっているのだと、勘違いされているかもしれない。


 今日はもう、帰って休もうか……

 

 諦めかけたその時、講義が終了した。

 結局、半分も聞けていなかった。

 それでも私は少し安堵しながら、のそのそと帰る支度を始めた。


「何か悩みごと?」


 不意に声をかけられた。

 私が顔を上げると、しまりのない笑顔をした長身の男子学生がそこにいた。


「――高月くん」


 お願い、もうやめて。これ以上、頭痛の種を増やさないで。


「講義中、ずっとツラそうだったから」


 講義中、ずっと私の事を監視していたのだろうか?

 だとしたら、ちょっと怖い。

 麗じゃないけど、ストーカーになったりしないだろうか?


「別に、大した事ではないから」

「まあまあ、そう言わずに話してみてよ。僕みたいな他人に話してみると、案外すっきりするかもよ?」


 彼は人懐っこい笑顔を近づけて来る。

 思わず「うぅっ」と声を発しそうになるのを何とか喉元で抑えた。

 こういう子犬のような人懐っこさは中々ズルいと思う。


 しかし、高月くんは私に二度振られて尚、こうして何事もなかったかのように話し掛けてくるというのは、一体、どういう精神構造をしているのだろう。

 余程タフなメンタルを持っているのか、それとも単に忘れっぽいのか、あるいはその両方か。


「本当に、大した事ではないの。気を遣わせてしまってごめんなさい」


 私は気力を振り絞って、努めて笑顔で答えてみせる。


「ね、この後、講義はもうない?」


 私の話を聞いていないのか、高月くんは唐突に言い出した。

 これはデートにでも誘う流れだろうか。

 ウソは言いたくない、でも彼に付き合いたくもない。


「そうね、このまま真っ直ぐ家に帰るつもり」

「ちょっとだけでいいから、僕に付き合ってよ」


 今日はやけに食いついてくる。

 以前、告白してきたときは、2回ともあっさりと引き下がっていったはずだったが。


「……付き合うって、どこへ行くつもりなの?」

「それは行ってみてのお楽しみ♪」


 これは、どうしたものか――


 高月くんは多分、悪い人ではない。

 人を騙そうとか、傷つけてやろうとか、そういう害意を全く感じない。

 もちろん、彼とて意図せずに人を傷つけてしまったこともあるかもしれない。


 それでも、私は彼が根っからの悪人とは思えなかった。

 とはいえ、やはり彼も男性である。

 どこまで信用していいものか……


「せめて行先くらい教えて。でないと、付き合えない」


 逡巡した結果、私はこう答えた。


「公園だよ、ただの」

「ただの公園に私を連れて行ってどうするの?」

 

 私はバッグを胸の前に抱いて、露骨に警戒心を露にしてみせる。


「そう警戒しないでよ、取って食ったりはしないから。ただ、僕の話にちょっと付き合って欲しいってだけ。もちろん、イヤだと言うなら無理にとは言わないよ」

「話なら、ここでも出来るじゃない?」

「見せたいものがあるんだ、明澄さんに」

「見せたいもの?」


 私は眉を八の字に歪めて尋ねた。


「それはもう実際に見てもらわないとわからない。今度こそ、行ってみてのお楽しみってことで♪」


 一体、何だというのんだろう?

 公園で見せたいものがあって、それについて私見を話を聞いてほしいということなのだろうか。

 意味が全くわからない……懊悩しながら、私は声を絞り出した。


「……わかった、付いて行けばいいんでしょう?」

「そうこなくっちゃ♪」


 彼はヒュゥと口笛を吹く。

 不安しかなかったけれど、私にはアレがある。

 こっそりバッグの中身を確認してから、先導する彼について行った。


 目的地の公園にはバスでも行けるらしいが、私は歩きたい気分だった。


 春らしい陽気で、たまに吹く風が心に安らぎをもたらしてくれる。

 道中、高月くんは場を和ませようとしていたのか、どうでもいい話を延々と繰り返していた。

 私は適当に相槌を打ちながら、内容は右から左だった。

 

 途中で高月くんは「コンビニに寄る」と言って何かを買っていたが、私は特に用もなかったので外で待っていた。


 コンビニからほどなく歩くと、目的地にたどり着く。


「……ここ?」


 高月くんはにっこりと頷いた。

 辿り着いた公園は、想像をはるかに超えた大きさだった。

 おそらく、東京ドーム数個分はあるだろう。園内の案内図を眺めて唖然とする。


「こっちこっち」


 高月くんは手招きして歩き出す。

 私は慌てて後を追いかけた。


「はぐれないように気を付けてね。この公園マジで広いから。子供が迷子になったり、足の悪いお年寄りが途中で帰れなくなったりする事もあるらしい」


 どんな公園なの、一体……?

 

 私の疑念などはつゆ知らず、彼はすれ違った柴犬と戯れ始めた。


 自由すぎる……


 私は飼い主の女性に「すみません」と謝ったが、「犬も遊んでもらえて嬉しそうだから」と意に介する様子はない。


 ……私は一体、何をしているのだろう?

 明後日にはゆみ子さんに宿題の回答をしなければならないというのに――


 私は犬とじゃれる高月くんを放っておいて、園内をざっと見渡してみた。


 小高い丘、大きな池、テニスコード、子供用のアスレチックコーナー、休憩所など、園内には多岐に渡る施設がある事が分かる。


 平日の昼下りということもあって、人はそれほど多くない。

 散歩をしている夫婦、ジョギングしている男性、写真を取っている老人、アスレチックではしゃぐ子供達――老若男女問わず、思い思いが憩いの場を満喫しているようだった。


「お待たせ、行こっか」


 犬と戯れ終わった高月くんは、私を丘の方へ案内していった。

 私は歩きながら彼に尋ねてみた。


「犬、好きなの?」

「まぁね。ウチでは飼いたくても飼えなかったから、余計に」

「そう、なんだ……」


 飼いたくても、か……

 そこから先に踏み込んでいいのか躊躇われて、何も言えなかった。

 高月くんもそれ以上、何も言わなかった。


 それから私達は緩やかな坂を上り、木の階段を上り、更に樹木が生い茂る山道を上っていく。

 軽く息が上がり始めたその時――


「わぁ……っ!」


 私は思わず声を上げていた。

 辿り着いたのは、小高い丘の上。

 そこには木製のテーブルと椅子が備え付けてある。眼下に広がる景色は、公園の全貌とその向こうへと繋がる町を一望出来た。


「とりあえず、座ろうか」


 私たちはテーブルに備え付けてある椅子に腰かけると、一息ついた。

 時折吹く風がザアァと木々を揺らし、小鳥たちの声が耳を潤していく。

 そして何より、空気が澄んでいて雪解け水の如く清々しかった。


「大学の近くにこんなところがあったなんて……」


 見せたいものとは、この景色のことだったのか。

 最初に公園と聞いた時は、高月くんのことだから、ジャングルジムとかブランコとか、そういう場所を連想したのだけど――ここは、知る人ぞ知る良スポットといった様相で、大切な話をするにはもってこいだと感じていた。

 

 …………大切な話?


 そこまで考えて、私ははっとした。


 まさか、ここで3度目の告白をするつもりじゃ――

 あり得る、この人ならあり得る……


 私は思わず身構えると、高月くんは素知らぬそぶりで、コンビニ袋をあさり始めた。

 次々と、お菓子やらコーヒーやらがテーブルの上に並んでいく。


「まあまあ、まずはゆっくりしようよ」

「……さっきコンビニに寄っていたのって――」

「うん、ここで食べると一層美味しく感じられるんだよね。飲み物、どっちがいい?」


 高月くんはコーヒーと抹茶ラテのカップを差し出して来る。


「え、そんな。悪いわ」

「え、そんな。ここまで来てそれはないでしょう?」


 笑いながら高月くんはドリンクを押し付けてくる。

 私は渋々と抹茶ラテを選ぶと、バッグから財布を取り出す。


「お金、払うから……いくら?」

「えぇ? いいって。僕のわがままに付き合ってもらってるんだから、これくらい当然でしょ?」

「借りを作りたくないの」


 高月くんは苦笑すると「じゃあお菓子代も込みでこれくらいで」と指で示した。

 明らかに高月くんの方が割り高だったような気がしたが、そこまで小さい事にはこだわるまい。

 私は小銭を渡すと「いただきます」と言って抹茶ラテに口を付けた。


「……ふぅ、やっぱり外だと美味しく感じる」

「ははっ、さあさあ、お菓子も食べて食べて」


 それから、二人でしばらく歓談した。

 他愛もない話だったけれど、場の雰囲気に流されていたのか、私の気分はすこぶる穏やかだった。

 そうして、お菓子も飲み物も尽きかけたころ、私はこう切り出した。


「それで、話って?」


 そう、ここに来た目的は彼の話に付き合う事。まさかお菓子を食べて歓談することではないだろう。

 高月くんは「うん……」と少し言いづらそうにしてから、ぽつりぽつりと話し始めた。


「僕さ、小さい頃に母親を亡くしたんだ」

「えっ? そうなんだ……」


 お、重い……話が重すぎる……

 これまでの穏やかな空気はどこへやら、一気にその場がどんよりし始めた。


「それで、母が亡くなってからは毎日のようにふさぎ込んじゃってね。学校もロクに行けなかったんだ」

「うん……」


 私は頷くしか出来なかった。


「そんなある日、見るに見かねた父が『出かけるぞ』って行って、強引に僕を家から連れ出したんだ」


 なるほど、段々と話が見えてきた。


「その時に父に連れてこられたのがこの場所だったんだ。父は不器用でお弁当なんか作れる人間じゃなかったのに、しょっぱすぎるおにぎりやら形の悪い卵焼きやらを用意してて」


 くっくっ、と思い出し笑いする高月くん。でも、その表情は決してイヤじゃなかった。


「二人でお弁当を食べながら、母の思い出話なんかをしたんだ。それで色々吹っ切れて、次の日から僕は学校へ行けるようになった。それ以来、落ち込んだりふさぎ込んだりした時は、ここへ来る事にしてるんだ」


 お弁当を持参してね、と彼は悪戯っぽく笑った。

 その笑顔に裏に、そしていつものだらしない笑顔に陰に、そんなにも辛い過去があったなんで私は知る由もなかった。

 そして、また告白されるかもなんて想像していた自分が、途端に恥ずかしくなった。


「……その、ごめんなさい」


 気が付くと、私は謝っていた。


「え、どうして明澄さんが謝るの?」

「高月くんのそんなツライ過去も知らずに……」

「いやいや、知ってたら逆に怖いよ」


 彼は声を上げて笑った。


「もう10年以上も前の事だし、吹っ切れたって言ったでしょ? それに、母が亡くなったのは悪い事ばかりじゃなかったよ」

「え?」

「もちろん、悲しかったしツライ事もあった。時にはいじめに近いようなこともね。だけど、家事全般は僕がやるようになったから、自活力はクラスで誰にも負けなかった。その矜持が僕を生かしてくれた。それでもツライ時はここに来て元気をもらうようにした」

「……どうして私にそんな話を?」


 高月くんの思い出の場所だというのは分かった。ただ、私がここに連れて来られた理由が判然としない。


「実はさっき、君たちの話を聞いちゃったんだよ」

「さっき?」


 私はハタと気付いた。


「もしかして、私と麗がランチをしている時に……?」

「盗み聞きをするつもりはなかったんだ。ただ、たまたま近くにいたから、聞こえてきちゃって」


 たまたま、という彼の言葉がウソか本当かは分からない。

 けれど、今となってはそれはどちらでも良かった。

 それよりも私たちがランチでした話と、高月くんの話に繋がりが見えなかった。

 

 私が疑問を口にすると、彼は答えず、空を見上げた。

 私もつられて空を見る。

 透き通るようなスカイブルーのキャンパスが、どこまでも広がっていた。


「生きていればさ」


 高月くんが、ぽつりとつぶやいた。


「色んな事が起こる。良い事も、悪い事も。でも、それも生きていればこそ、なんだよね。 死んじゃったらもう何も味わえない」


 亡くなったお母さんの事を言っているのだろう。

 私はどう答えていいか分からず、ただ空を見上げていた。


「だからさ」


 彼が私の方を向く。


「人生に悩むのも、生きているからこそなんだよね。それも含めて、味わっちゃえば?って、僕は思っているんだ」


 ああそうか。

 だから彼はこんな回りくどい事をして、自分の辛かった過去まで話しているんだ。

 私が『生き方』を探すヒントを提供する――ただそれだけのために。


「……私は」


 気付いたら、言葉が口から溢れ出ていた。


「私は、何の取り得もない人間だって、ずっと思っていて。友達や妹にはやりたい事があって、それに向かって日々努力しているのに、私にはそういうのがなくて」


「うん」


 高月くんは静かに頷いて先を促す。


「やりたい事がなくて悩んでいる人って、私だけじゃないってわかってる。それでも、私は――」

「別にやりたい事とか目標とか、そういうの無くてもいいんじゃないかな?」

「え……?」


 予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。


「もちろん、あればあったでいいと思うし、目標に向かって努力するのも楽しいと思う。でも、明澄さんも言ってたとおり、全員が全員、やりたい事があるわけじゃない。僕だってそうだよ」

「高月くんも?」

「ま、当面の目標はあるにはあるけど、やりたい事というのとは全然違うしね。あ、で、何が言いたいかと言えば、さっきと同じなんだよね」

「それも含めて、味わっちゃう?」


 当面の目標とやらが気になったけれど、そこには敢えて触れなかった。


「そ。やりたい事があってもいいし、無くてもいい。あれば目標に向かっていく人生を楽しめばいいし、なければその日その日起こる出来事を楽しめばいい。何も起こらなければ、何もなかった事を楽しめばいい。もちろん、自分で何か行動を起こしてもいい」

「どっちに転んでも楽しめばいい、という事?」

「うん。それに、明澄さんだって取り得がない、やりたい事がないって言いながらも、今まで生きてきた中に、それなりに楽しい思い出はあるんじゃない?」


 ない、と言えばウソになる。家族や友達や、今こうして高月くんと話している事も、きっと思い出になるだろう。


「だからさ、やりたい事があっても無くても『出来事は勝手に起こる』って事。そして、それを楽しんじゃえば?って僕は思うワケ。明澄さんは多分、少し考えすぎなんじゃないかな。もっと、気楽に構えてもいいと思う」

「そう、だね……」


 全てを納得した訳じゃないし、『人生楽しめ』と言われて『はい、そうですか』と言える程、私は素直でもない。

 

 けれども――


「ありがとう、高月くん。おかげでちょっと、元気になった」

「本当? それはよかっ――」

「――かもしれない」

「ガクッ! ま、まあ、そういう冗談が言えるくらいには元気になった、と言えるのかもね」


 二人で笑い合った。


「そろそろ行こっか、肌寒くなってきたし」


 私は首肯する。高月くんの言うとおり、風が少し冷たく感じられた。そうして、私たちは丘を降りて公園の出口に向かった。


「僕は自宅が近くだけど、高月さんは?」

「私は電車に乗るって帰るから」

 

「じゃあ、駅まで送っていくよ」

「そんな子供じゃないから――それに、遠回りでしょう?」

 

「んや、買い物して帰るから、どっちみち駅前には用事があるし、ついでだよ」

「私はついでなんだ」

「そこはほら、言葉の綾というやつでして」


 またしても、二人で笑い合う。


 結局、私たちは一緒に駅前まで行き、そこで分かれた。

 こんな風に男の子と話すなんて、いつ以来だったろう。楽しかった、という気持ちを誤魔化すことは出来なかった。


 仮に――仮定の話として。

 

 あの時、私が彼の告白を受けていたら。

 4年間、あの事件がなかったとしたら。

 私の人生はもっと充実していたのだろうか?

 何の悩みもなく健やかに過ごせていたのだろうか?

 

 ――肯定は、出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る