第26話 惜別編(三)危篤

 紹介された足立区の病院に母親を転入院させた時、その病院が普通の病院とはあきらかに様子が違うことに気がついた。病棟の出入口には鍵がかけられていて、見舞いに行った時も係員を呼んで鍵を開けてもらわなければならない。病棟の廊下には、折り紙で作った飾り物があちらこちらに飾られている。その病院は、精神科専門の病院だったのである。介護療養型病院は副業として運営しているらしかった。達也はその病院に母親を預けることに、漠然とした不安に駆られたのである。


 病院に見舞いに行ったある日のことである。痰が喉に絡んで咳きこんでいる母親の姿を見た達也は、看護師を呼んで吸引するように依頼した。ところが、


「ではまず胸の音を聞いてみましょう」


 看護師はすぐに吸引しようとしないで、聴診器を母親の胸にあてて肺の音を聞いているありさまであった。


 常駐する担当医も少し普通ではなかった。三ヶ月に一度カンファレンスが行われ、家族と病院関係者が集まって話し合うことになっている。そのカンファレンスで担当医が、母親が危篤きとく状態になっても救急搬送しないと言いだしたのである。理由を聞くと、搬送中に死亡する可能性が高いし受け入れてくれる病院もないと言っている。他の病院関係者も達也を必死に説得しようとしていた。


「この前胃瘻のカルテールを交換した病院は、受け入れてくれないのか」


 達也が担当医に尋ねると、


「あの病院はうちの提携先の病院ですが」


 担当医は視線を少し左にそむけながら答えた。明らかに紹介したくないことが、担当医の表情から読み取れる。


「母親が危篤状態になった場合、速やかにその提携先の病院に救急搬送するように」


 やや強い口調で言い、達也は憤然ふんぜんと部屋を出て行った。



 母親が救急搬送されたのは、その一ヶ月後のことだった。


 朝、病院の医師から、「お母さまが吐血とけつしたので、提携先の病院に救急搬送しました」という連絡があり、医師に礼を言い終えると達也はすぐに病院に向かった。その病院をインターネットで調べると西新井駅にしあらいえきから徒歩十五分と書いてある。西新井駅に着いた達也は病院まで歩いて行こうと思っていたが、その日は土砂降りの雨であったためタクシーを拾った。運転手は「環七に出ますか」と聞いてきたが、達也は「初めて行くので良くわからない」と答えた。するとタクシーは環七に出ないで、住宅街の細く曲がりくねった迂路うろをひたすら走り続けた。タクシーの窓外そうがいでは連続したコンクリートの壁が、とめどなく足早に流れていった。結局病院に着くまで三十分も費やしたのである。あきらかに乗車料金をだましとっていることに気づいたが、早く母親に会いたかった達也は、文句も言わずに病院のなかに入って行った。


 いつもの通り書類にサインをして、看護師から説明を受けた後診察室に通された。


「胃自体に異常はありませんが、もう胃瘻いろうでの栄養摂取は無理ですね」


 達也は、固唾かたずを飲んで医師の言う言葉を聞いていた。


「水分だけを点滴して見まもるか、栄養を点滴して延命措置をとるか、どうしますか?」


 医師は、命の選択を求めてきた。息子の達也でさえ決めかねる難しい選択であった。達也は、少し考えてから答えた。


「栄養を点滴してください」


 母親は最近咳きこみが激しく苦しそうにしているので、早く楽になりたいと思っているのかもしれない。それでも母親には生きていてほしいと、その時達也は思っていた。


 病室に入ると、母親は静かな眠りについていた。眠っている母親の寝衣しんいのなかからは、色違いのコードが数本のびている。それらのコードはベッド脇に設置してある医療機器へとつながっていた。規則正しい音がその医療機器から高音で鳴り響き、規則正しく流れる波の線はその医療機器のモニターに映しだされている。時たま規則正しく鳴り響く音が乱れると、達也はおののいて、思わずそのモニターに映しだされる波の線を見入ってしまうのであった。


 母親は、もう何も言葉を発しなくなっていた。目が明いているだけで植物人間と同じような状態になってしまい、達也は、言葉を失った母親のおでこを撫でてあげることしか出来ない。きっとこの病院で亡くなるのだろうと、覚悟を決めていた。

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