第20話 家族編(七)困窮

 デイサービスを利用するようになってから、アルバイトが出来なくなったことに気がついた。英子伯母さんは、「デイサービスに行っている間にアルバイトをすればいい」と言っていたが、現実はそれほど甘くはなかった。実際にいくつかアルバイトの面接に行ってみたが、すべて不採用にされたのである。母親がデイサービスから戻るのが夕方の五時、延長しても七時には家で待機していなければならない。そのため、残業が出来ないことが不採用の主な原因であった。


 アルバイトでもしながら介護をしようと思っていた達也の考えは甘すぎていた。貯金はまたたく間に減っていった。銀行残高を確認するたびに、達也の胸は締めつけられるような思いがする。特に家賃の負担は大きかった。病院の医療費代も馬鹿にならない。二週間ごとの通院にかかる診療代と薬代だけではないのであった。老齢の認知症患者はいつ救急搬送されるかわからないのである。入院ともなると、医療費代の負担は計り知れなかった。達也が貯金を取り崩しながら母親の介護をしている間に、三回救急搬送した。


 一回目はデイサービスに行っている時のことであった。デイサービス先から「昼食中にお母さまが突然とつぜん痙攣けいれんをおこしたので、都立病院に救急入院しました」と、達也の携帯に連絡が入った。


 母方のいとこの京子きょうこさんと錦糸町きんしちょうの駅で待ち合わせ、母親が入院している都立病院に向かった。京子さんは眠っている母親の顔を見ると、元気であった頃の母親の顔との変貌へんぼうぶりに驚愕きょうがくしている様子であった。


 病室はトイレのついた個室になっていた。壁に料金表が貼ってあり、そこに「個室、一日一万六千円から一万八千円」と記載されている。達也と京子さんは思わず顔を見合わせた。看護師に確認すると、四人部屋の病室の空きがないため、一時的に個室に収容しているだけで、空きしだい四人部屋の病室に移る予定であるらしかった。


 母親が痙攣をおこした原因は不明であったが、軽い肺炎をおこしていたため一週間入院することになった。担当の医師は、肺炎が治癒ちゆした後リハビリをするため、転入院を考えていたようだが、達也が医療福祉相談室に相談したことで、一週間の入院で帰宅することが出来た。


 二回目の救急搬送は、診療所から帰宅した後の出来事であった。達也がベッドの上でうとうとしていると、プチッ、プチッという錠剤じょうざいの薬を取りだす音が聞えてきたので「まさか」と思い、あわてて母親のところへ駆けよると、認知症の進行を抑制する薬アリセプト十錠と、睡眠導入剤レンドルミン十二錠をすでに飲みこんでいた。迂闊うかつだった。診療所から帰宅して、薬が入っている紙袋を自分の机の上に置いておいたのを、達也が眠っている隙に母親が袋ごと薬を持ちだしたのである。


―引き出しのなかに入れておくべきだった―


 後悔したが後の祭りですぐに診療所に連絡した。


「胃のなかを洗浄しなければならないので、救急車を呼んだ方がいい」


 主治医は、診療所では対応出来ないといった様子で答えていた。


 達也が救急に連絡するとまもなく救急車は来たのだが、受け入れてくれる病院はすぐには見つからなかった。救急隊員が、「東京ルールを採用します」と言ってくれたが、病院からは受け入れを拒否され続けた。近くの総合病院に連絡すると、「入院した場合、一日の入院費が四十万円かかります」という返答であった。救急隊員が「どうしますか」と聞いてきたが、すっかりあきれてしまった達也は思わず首を横に振った。老齢の認知症患者は、病院側からすれば厄介な存在であるとその時はじめて気づかされた。


 二十分以上連絡し続け、足立区内の病院から受け入れの許可がおりたが、入院は出来ないと言われた。入院が必要である場合、その時はその時で他の病院を探すということになり、ひとまずその足立区の病院に向かった。


 病院に着くと、母親だけが処置室に入って行った。ひっきりなしに救急患者が運び込まれて、控室は付き添いのひと達でひしめいている。しばらくすると、看護師から処置室に入るように促された。点滴を受けている母親が、憔悴しょうすいした猫のようにベッドの上で眠っている。医師からは、胃の洗浄は不要で入院の必要もないという診断を受けた。治療後は電車で帰るつもりでいたが、母親は大量の睡眠薬を飲んでいたため歩ける状態ではなかった。達也はタクシーを拾い、重たい荷物を座席に押し込むように母親を後部座席に座らせると、砂山すなやま駅の方角へ向かうように運転手に告げた。


 三回目は深夜の出来事であった。その日も達也が眠っている時で、「達也、達也」と母親が叫んでいるので行ってみると、母親が玄関口で倒れていた。徘徊はいかいするために外に出ようとしたが、段差に足を引っかけて倒れてしまったようだ。すぐに体を抱きかかえたが、自分の手や服が血だらけになっていることに気がついた。段差のかどに頭をぶつけて出血をしていたのである。達也は、出血よりも脳に損傷があるのではないかと心配になって救急車を呼んだ。幸い受け入れ先の病院はすぐに見つかった。今回も足立区内の病院だった。病院に着いてから最初に職員に言われたことは、深夜で受付が締まっているので、診療代は後で精算するから保証金として五千円支払うように言われた。


―しまった―


 達也は、母親の頭部が出血してしまったことに気をとられて金を用意してこなかったのである。財布のなかには三千円ほどの現金しか入っていなかった。銀行のATMは締まっているはずなのでコンビニで金をおろすことにした。


 病院の近くのコンビニのATMで達也の銀行カードを挿入してみると、時間外で受付出来ないと画面に表示された。一瞬血の気が引いたが、試しに母親の銀行カードを挿入したところ、ATMが作動したので三万円引き出して病院にもどった。


 検査の結果、脳自体に異常はないと言われた。止血するために針を五本縫っただけで生命をおびやかす事態は免れた。深夜であったためその日もタクシーを拾って帰路についた。

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