第27話 惜別編(四)逝去

 七月十七日の朝、病院の看護師から連絡があった。


「お母さまの呼吸状態が良くないので、至急来院してください」


 達也は尋ねた。


「危険な状態ですか?」

「とても危険な状態です」


 と看護師が即答した。


 すぐに寝床から飛び起きて病院に向かった。砂山すなやま駅に着いた時、また看護師から連絡が来た。達也は胸騒ぎがして、言い知れぬ暗澹あんたんとした不安に駆られた。


「お母さまの心臓が止まりました」


 母親の死に目に会えない、と思いながらも達也は急ぎ病院に向かって行った。西新井駅に着くとすぐにタクシーを拾った。


「環七に出て、病院の前の釣具屋のところに止めて下さい」


 以前のように、三十分もかけてだらだら走られたくはなかった。早く母さんのところに行かなくては。時間は十分もかからなかった。


 病院のナースステーションに着くと、看護師が普段使われていそうもない個室に達也を案内した。この病院には遺体安置室がないらしく、この個室を遺体安置室代わりに使用しているようだ。ベッドに母親が眠っている。おしろいを塗ったような真っ白な顔、穏やかな顔だ。


 個室は、遺体を腐らせないようにするためか必要以上に冷房を利かせている。いつものように、手のひらで母親の額を撫でてみると、日陰の石に触れたように冷たい。その感触は、達也に失意をもたらした。


―そうか、もう血が流れていないのか―


 シーツをめくると、すでに寝間着から白い衣装に着替えをさせられている。体を覗くと、腕と足は骨と皮だけのように見える。達也は手羽先てばさきを食べた後の残骸ざんがいを想起した。骨に皮だけを張りつけた手足。それは何者にも無力で、風化した岩が砕けるようなもろさを感じた。


―こんな体になるまでよく生きてこれたものだ。やっぱり延命措置はとるべきではなかったのか。俺は母さんに対して残酷なことをしていたのか―


 そのようなことを思いめぐらしながら母親の顔を眺めていると、担当医が部屋に入って来て、脈拍を測ったり、ペンライトで瞳孔どうこうを確認したり、聴診器で心臓の音を聞いたりして、


「七月十七日午前十一時十五分、ご臨終です。老衰ということにしておきます」


 担当医は、そう言うとあっさり部屋を出て行った。


「とても安らかに逝かれましたよ」


 と付き添いの看護師がつつましやかにささやいた。が、達也にはそのように思えなかった。「辛い日々だった、中山家のしがらみからやっと解放される」と言っているように思えてならないのであった。何のために生まれてきたのだろうか。普通の家庭を与えられながら、そこから得られるはずの恩恵おんけいを、いっさい受けることなく生涯を閉じたのである。



 

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