第16話 家族編(三)別居

 達也は、杉並のアパートから出て行こうと考えはじめていた。これから母親の認知症の症状が進行し、介護をしなければならなくなるのに、姉に生活費やら家賃を根こそぎ新興宗教のために持っていかれたのでは、介護どころか家族三人餓死してしまう。問題は、母親を連れて行くか残して行くかである。


 これまでの姉は、家事も母親の世話もしていなかった。平日は、派遣の仕事が終わると新興宗教の支部に行って、何をしているのか分からないが宗教活動というものを行い、帰宅するのが夜十二時を過ぎていた。連絡もしないで支部に泊まり込み、翌朝帰宅することもあった。常識では考えられないことだが、七十歳後半の認知症を患っている母親が、五十歳近くにもなる娘を心配して、終電間際に駅まで迎えに行くのである。雨が降りしきるなか、傘もささずに駅前で姉が帰るのを待っている母を、達也は何度か連れ戻しに行ったことがあった。


 どうして母親が姉の帰宅を極度に心配するのか、それは父親の死が影響していた。


 土曜日の早朝、絶え間なく鳴り続ける黒電話の受話器をとった母親は、夫が会社の敷地で首を吊ったことを知らされたのであった。その日以来どんなに遅くとも、娘と息子が帰宅するまで母親が眠りにつくことはなかった。


 姉は平然と家に帰ると、達也が作ったおかずをなべに入ったままはしでつまんで食べ、風呂に入って就寝する。休日は昼に起きて、台所にある食べ物を何かしら腹に詰め込んで、風呂に入った後また新興宗教の支部に行く。このような状態では、母親の介護を姉に託すのは無理であると達也は思った。


 自己本位で他人の感情が理解できない。普段はおとなしいが怒ると汚い言葉で罵倒ばとうする。中山家の血筋を一身に受け継いでいたのは、むしろ姉の方であった。



 その頃、達也は暇さえあれば母親を神田川へ散歩に連れて行った。


 その日は、四月のうららかな日で桜が満開に咲いていた。春の日差しに照らされた桜の花びらは、燦然さんぜんと白く輝いている。花見の名所ではなかったが、神田川を覆いかぶさるように咲く、絢爛けんらん枝垂しだれ桜であった。


 神田川の上流は、川幅が狭く、流れている川の水は透き通っている。その川の流れもまた、春の陽光を浴びて光り輝いていた。神田川をのぞくと、こい優雅ゆうがに群をなして泳いでいるのが見える。母親は、鯉を見つけると、チェッ、チェッ、チェッと、口を鳴らしてその鯉を呼んでいた。


 達也は、川沿いに並んでいるベンチに母親を座らせて聞いてみた。


「荒葛江に行って二人で暮らそうよ」


 母は答えた、


「一緒に暮らすと、お前が結婚出来なくなるから駄目だ」


 達也は認知症の母親が、そのような心配ができる意識がまだあることに驚いた。


「俺はもう結婚しないから一緒に暮らそう」


 母親は、ただ黙って視線を地面の方に落としていた。


 引越しの日を七月七日に決定した。収入が途絶えることが懸念されたが、アルバイトでもしながら介護をすれば何とかなるだろうと気軽に考えて、引越しを決行することにした。ただ、退職届を提出していたため、不動産屋の審査が通るかどうかが気がかりであった。


 不動産屋から審査が通ったことが伝えられ、荒葛江区のアパートに転居先が決まると、達也は引越しの準備を本格的にとりかかった。平日達也は仕事をしていたので、準備は数週間前から少しずつ行っていた。母親は自分の部屋でじっと座っているだけであったし、姉は一切手伝おうとしない。とにかく段ボールに入れてしまえばあとは引越し業者が運んでくれるのである。事前に準備を行っていたことで、当日はすんなりと引越しを済ませることが出来た。


 七月七日午前十一時、達也は認知症の母親を連れて荒葛江に向かった。

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