第17話 家族編(四)介護

 荒葛江区に越してからしばらくは、母親に異変はなかった。一緒に散歩したり買い物をしたりして過ごしていた。「これを使うんだよ」と、湿った布を指さしながら言ったのは母親であった。スーパーでその日の食材を購入し、袋詰めをするためにレジ袋を広げようとしているのだが、ピタリとくっついたレジ袋は何度指で擦っても広がらなかった。指を湿らせてから擦ると、簡単にレジ袋が広がることを達也に教えていたのである。達也は、認知症の母親がそれほどの思考があることに驚嘆きょうたん安堵あんどした。


 スーパーを出ると、ついでに一時間ほど散歩してからアパートに帰ることにしていた。神田川のような散歩に適した場所がなかったので、アパート周辺の町中をただひたすらに歩いた。駅前のバス通りから細い脇道に入ると、小料理屋が軒を連ねた通りに差しかかる。夕暮れの日差しがアスファルトの道筋に、のきを連ねた家々の陰を落としていた。


 その小料理屋のある一件の店の前を通りかかると、母親が決まって「ここでビールでも飲みなさいよ」と達也を誘うのであった。その小料理屋の軒下のきしたには、「たみえ」と書かれた暖簾のれんがかかっている。「たみえ」とは母の名であった。出来ればその店に入って、お刺身でも食べさせてあげたかったが、節約しなければならなかった。収入が途絶えている今となっては、杉並にいた頃のようにはいかなかったのである。


 アパートに帰ると、達也は料理を作るのであったが、包丁で野菜を切るような簡単な作業を母親に頼んでみると、まな板の上でトントンと軽快な音を立てて野菜を切っていた。質素な料理であったが、母親は「随分豪勢じゃない」と言いながら、米粒をぼろぼろと床にこぼしながら達也が作った料理を口に頬張ほおばっていた。


 このような平穏へいおんとした生活が、しばらく続くのだと達也は思っていた。ところが、母親の認知症は急激に悪化していった。三ヶ月ほど過ぎたころになると、母親に異常な行動がみられるようになった。昼夜を問わず叫び声を上げ、徘徊はいかいもより頻繁ひんぱんにするようになっていく。高齢の認知症患者の環境を変えることは、症状を悪化させる原因となるのである。そのことは、認知症について学習していた達也にはわかっていた。が、ここまで症状が急激に悪化するとは思っていなかった。

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