第5話 血族編(四)動機

 達也と母、姉の三人は即刻父の勤めていた会社に出向き、父の遺体を発見した方に会って話を伺った。その会社は、こぢんまりとした生活の場と仕事の場が一体となっている建物のなかにあった。どんよりとした運河に面しているので、生臭い異臭が漂っている。門をくぐると、子供の遊び場のような社員のいこいの広場があり、そこに葉の一つも生えていない寒々とした枯れ木が立っている。


「この木の枝で首を吊ったんです」


 ひとりの男が、ロープを押しつけた痕跡こんせきが残っている、部分的に樹皮ががれた木の枝を指さして説明した。遺体を発見した方は、中年の男性二人で、発見して直ぐに父を地面に降ろしたらしい。


「親しい間柄だったので、警察が来るまでそのままにしておけませんでした」


 ともうひとりの男が、傷心した様子で言った。その後、その男が父の職場に三人を案内した。職場には、設計士であった父の書きかけの図面が机の上にそのまま放置してある。まるで昼食休憩時間中であるかのように。机の上の製図版には、製図用具が乱雑に置かれていた。鋭利に研ぎ澄まされた鉛筆。すすけた分度器。びついたコンパス。斜めに傾いた定規。


 職場を案内した男が、思いついたように机の下に置いてある段ボールを指さして言った。


「これ、全部お父さまが飲んだんです」


 その段ボールのなかには、父の好物であった缶コーヒーの空き缶が、ぎっしりと詰まっていた。



 父が勤めていた会社を離れた後、葛西警察署に行って刑事から話を伺うこととなった。刑事は、百戦錬磨といった風格ふうかくで、鋭い目をぎらつかせながら三人の到着を待ち受けていた。刑事の所に行くと、ドスの利いた声で話しはじめた。


「検視の結果、死亡推定時刻は午前四時頃だ」


 三人とも、声も出せずにただ茫然ぼうぜんと刑事の話を聞いていた。


―夜更けまで何をしていたのか。夜中じゅう自転車を乗り回していたのか。それとも、深夜喫茶で時間をつぶしていたのか―


 いずれにせよ、計画的な行動であったことは明らかなことである。


「財布の中に入っていたのは、たったの二十六円の小銭だけだった。それと、これが入っていたぞ」


 刑事は、サラ金のカードを机の上に無雑作に放り投げた。刑事の鋭敏えいびんな眼光が、さらに鋭くきらめいた。(おそらく父は趣味であったパチンコをやり、度が過ぎて)サラ金から借金をしていたことが警察の調査で判明した。明細の記録を調べてみると、自殺する一ヶ月くらい前からその行為は行われていた。もう片方の金融機関から利子分の金額を引き出してサラ金に支払い、すぐさまサラ金から利子分の金額を引き出してもう片方の金融機関に支払う。これを毎日毎日繰り返していたのである。


 刑事から説明を受けた後、警察の遺体安置室に案内された。父は、裸体らたいのままシーツ一枚だけかけられていて、シーツのなかの裸体は白い彫刻のように見える。その父の姿をじっと見ていると、冷たく硬直した体を父自身が嘲笑あざわらうかのように、その死に顔は穏やかであった。



 実を言うと、達也は父の異変を自殺する一週間前から気づいていた。蓬髪ほうはつになっても床屋に行かず、会社も休みがちになっていたからである。会社からは無断欠勤していると何度も連絡が来ていたが、母親はそんな父に対して毎日のように罵声ばせいを浴びせていた。


「何をしているの、ちゃんと会社に行きなさい」


 気性の荒い父親であったが、臆病な野良犬が逃れていくかのように家を出て行った。


 母は父の異常な行動に感づいていなかったようだ。また父の異変を一週間前から気づいていた達也でさえ、父が自殺してしまうとは思ってもいなかった。ただ、家族が父の自殺を予測できなかったこともわからなくもなかった。自殺する直前まで家を出る時と帰った時に「行ってきます」「ただいま」と溌剌はつらつ挨拶あいさつをしていたからである。自殺に追いこまれた者に、はきはきと挨拶する心の余裕があるとは考えられなかった。自分が自殺することを、家族にさとられないようにふるまっていたのか、それとも自分は正気であると、自分自身に言いきかせていたのか。普段、物音もたてずに帰宅していた父の溌剌とした挨拶については、父が死んだ後も、幾度か親戚のなかで話題になるほどであった。

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