第32話 再起編(四)前兆

 達也が体に異変を感じはじめたのは六月頃のことであった。なんとなく体が揺れる、体が重い感覚がする。その感覚は月日が経つにつれ悪化していった。八月になっても症状は快方に向かわなかったため、診療所の医師に紹介状を書いてもらい、お茶の水の大学病院で精密検査を受けることにした。


 大学病院の総合診療科で検査をしてもらったが、特に体に異常はないとのことで、神経系統を改善する薬を処方してもらった。しかし、症状は悪くなる一方であった。十一月になると、左胸上部が痙攣けいれんしはじめその痙攣はにわかにひどくなっていく。痙攣は首部まで達するようになり、首部の痙攣によって眠ることが出来なくなってしまった。大学病院に行くために体力を温存おんぞんしようと思い、飲酒することによって少しでも眠ろうと試みたが、首部の痙攣が睡眠を妨げる。六日間不眠状態が続いて食事もほとんどとっていなかった達也は、十二月九日の朝、救急車を呼んだ。


―きっと、薬のせいで神経がおかしくなったのだろう―


 十年前、達也は会社の健康診断で大腸癌だいちょうがんの疑いを指摘され、大学病院で精密検査を受けた。検査の結果、結腸けっちょうに初期の大腸癌が見つかって外科手術を受けていたのである。大腸癌の告知を受けた時、医師に精神安定剤と睡眠薬を処方してもらい、それ以来薬を飲み続けていたのであった。



 大学病院に到着すると、だだっ広い処置室に運び込まれた。おそらく、十人以上は収容出来るだろうと思われる処置室のなかで、あらかじめ用意してあったベッドに移された。


 看護師がすぐにやって来て、血圧、体温、酸素濃度を測りはじめた。


「ご気分はどうですか、喋れますか?」


 看護師は達也の意識を確かめるように問いかけた。


「はい」


 とだけ達也は答えた。


「もうすぐ総合診療科の先生が来ますから待っていてくださいね」


 しばらくすると医師がやって来て達也に尋ねた。


「どんな具合ですか?」


 医師や看護師が達也の周りを取り囲んでいる。映画のなかで、事故に遭って意識を失ったトム・クルーズが気がつくと、自分の顔を覗き込んでいる医師達の姿をおぼろげながら確認し、ここが病院であることに気づく。達也はそんな場面を連想した。


「体が重い感覚がして歩行が困難です。それと、一週間くらい前から体が痙攣して六日間眠れていません」


 医師は、「ふむふむ」と言いながら達也の体のあちこちを触診しょくしんした。医師の助手の一人が「総合検査お願いします」と誰かに頼んでいる。


 血液、心電図、エコー、レントゲン、CTの検査を受けた。検査結果がでると医師がやって来て達也に伝えた。


「検査の結果、まったく異常がみられませんでした」


 医師のその言葉を聞いた達也は、突如として焦燥感しょうそうかんに駆られた。


「まさか、帰ってくれということですか?」


 医師は無言のままうなずいた。


「今帰っても体が痙攣して眠れないし、食事もとれないので死んでしまいますよ」

「そう言われましてもね」

「入院出来ないんですか?」

「出来ませんね」


 それでも、達也は断固として帰らないと医師に訴えた。


「入院をするためには色々と手続きをとらなければならないんですよ。今日はいったん帰って、診療所の主治医に紹介状を書いてもらってから入院の手続きをして下さい」


 医師は、入院出来るかどうか自分達では決定できないことを淡々と述べていた。そして達也と医師は、互いに言い訳がましいことを言いながら「帰りません」「帰ってください」を繰り返し言い合った。


 二時間ほど問答もんどうした結果医師がおれた。病院側と交渉してくれるとのことで、その間達也はベッドに寝かされたまま、衣服や荷物と一緒に救急外来の出入口に移動させられた。


―病院側から入院の許可が下りなかった場合は、ここから帰ってくれという事だろう―


 ちょうど一般外来の診療が終了した時刻で、救急外来の出入口から帰路きろにつく職員が、達也の姿を不思議そうに見ながら帰って行った。

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