第11話 血族編(十)別離

 冬子とは小学校からの同窓であったが、互いの存在を知ったのは、中学に入学してからである。中学二年生の時、達也と同じクラスに冬子がいたのであった。清水しみずのように澄んだ瞳をしていたが、髪型を三つ編みにしているためか外見は幼く見える。


 冬子は、何かにつけ達也にちょっかいをだしてきた。友達と、机をはさんで椅子いすに座って雑談していると、達也の背後にひっそりと回り込んで椅子を思いっきりひっぱる。達也は、バランスを崩して前のめりに頭から転げ落ちた。冬子は、計画通りにいたずらが運んだことに満足げに笑っていた。達也が起き上がると、冬子はそそくさと自分の席に戻っていく。そのようないたずらを、冬子はたびたびしかけてくるのであった。


 三年生になる。学校の校庭に新しいクラスの名前が書かれた紙が張り出された。しかし達也と同じクラスに冬子の名前は載っていなかった。その後生徒全員が体育館に集められてクラス別に整列した。その時、達也は二組離れた列に冬子に似た女性を一瞬見たような気がした。再度確認するためぬすみ見るように覗いてみると、確かに冬子の姿があった。


―髪型を、変えたのか―


 髪型は短くカットされ、流れ膨れ上がった前髪の下に、真っ白なほお椿つばきのごとく赤い唇をのぞかせている。彼女の妖艶ようえん風貌ふうぼうに、達也は胸が締めつけられる思いがして、冬子のことを意識しはじめるようになってしまった。しかし、当の冬子はまるで人が変わってしまったように、達也のことをからかうことをしなくなった。笑顔の絶えない女性であったが、髪型を変えてからすっかりしおらしくなってしまい、性格まで変わってしまったように思えた。


 クラス替えをしてから、達也は冬子をいつも探していた。朝礼の時も、運動会の時も、遠足の時も、絶えず冬子の姿を追っていた。親譲りの気の小さい性格の達也は、冬子に対して一言の言葉もかけることが出来なかった。そんな自分が、もどかしくてならなかった。


 中学卒業間際に、冬子と同じクラスの男子から呼び出され、達也のことが好きだという女の子がいると言われた。


 達也は「だれ?」とその男子に尋ねた。すると意外にも、彼は冬子の名を告げたのである。そのことがきっかけになって冬子とのつき合いが始まることになった。高校、大学と冬子とのつき合いは続き、大学を卒業するとお互い結婚を意識しはじめた。



 達也が冬子を小岩駅の南口にある喫茶店に呼び出したのは、初夏のまだ蒸し暑さのないすがすがしい日であった。その喫茶店は、でこぼこのコンクリートの壁に、色とりどりのガラスが貼りつけられた現代アートのような外装をしている。ドアを開けると、カランという音がして、店のなかを覗くと、窓際の席に座っている白いワンピースを着た冬子の後ろ姿が見えた。冬子の前にまわって顔を覗くと、小説を読んでいた冬子が、顔を上げて透きとおった瞳を達也に向けてにこりと微笑んだ。


 二人ともアイスコーヒーを店員に頼んで、しばらくの間たわいのない会話を交わした。昼時を過ぎ、周りの客が店から遠のいた頃になると、達也は突如として意想外な話を冬子に告げたのである。自分の家系が自殺の家系であること、子供を虐待するかもしれないことなどをつぶさに話した。そして、陰惨いんさんな言葉を発したのであった。


「結婚はできない」


 それは、別離べつりをほのめかすものであった。


 冬子はビー玉のような瞳で、達也を通して遠くを見ているような表情で話を聞いていた。そして達也の目をじっと見つめながら言った。


「わたしのこと嫌いになったの?」

「嫌いになんてならないよ」

「他に好きなひとがいるの?」

「そんなことないよ」

「それならどうして。わたし、別れたくないわ」

「しばらく会わなかっただろ。その間に父親が自殺したんだ」


 冬子は茶番でないことに気づいたようである。


「わたし、達ちゃんを死なせない。子供もわたしが守るわ」


 伏し目がちになりながら頬を紅潮こうちょうさせて、冬子は低い声で呟いた。そして今度は声を少し荒らげて、


「達っちゃんは」と冬子が言いかけた時、達也は開いた右手をゆっくりと前にかざして冬子の言葉を遮った。


「将来の冬子と子供のためなんだ」


 達也はそう言い放つと、テーブルの上に千円札を置いて立ち去ろうとした。その刹那せつな、冬子の右手が千円札を置いた達也の腕を捉えた。冬子は、唇をかたく閉ざしながら憂いを帯びた瞳で達也をじっと見つめていた。達也は手袋をはずすような滑らかさで腕を引き抜くと、ドアの方角へと向かった。そして、後ろをふり向くことなく重量感のある焦げ茶色のドアを押して、喫茶店の外に出て行ったのである。


 小岩駅の南口は、時折けたたましい音を鳴らすタクシーや循環バスが、噴煙ふんえんき散らしながらロータリーを走り回っている。達也は、ロータリーの横断歩道をわたり、にぎわう商店街を歩いて悄然しょうぜんと帰路についた。けたたましい音は耳から耳へと通り過ぎ、達也の脳裏には届いていなかった。


 冬子から、何度か連絡があったことを母親から知らされていたが、達也は折り返し連絡することはしなかった。同じ小岩の町とはいえ、達也の家と冬子の家とではバスを乗り継いで一時間ほどかかるのである。最寄り駅も異なるので町中で出会うこともなかった。冬子からの連絡はしだいに減っていき、時はそのまま流れていった。

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