2-5. 戸惑いの朝

 誰かが私の顔を見ている。

 恐らく女性だ。とても優しい気配を感じる。


 視界が霞み、輪郭すら定かではない。

 だけど私は知っている。この気配を出せる女性など、世界に一人しか知らない。


「……母上」


 無意識に、そう呟いた。

 恐らく私は夢を見ている。


 とても心地よい。

 もっと続けと、心から願った。


「──残念だけど、あんたのお母さんじゃないわよ」


 その時間は、聞き慣れない声と共に終わった。


「……レイ、ア?」


「おはよう。どんな夢を見ていたのかしら?」


 彼女は呆れた様子で言うと、私に何か差し出した。

 この布は、タオルだったか? 確か顔や身体を拭くための道具だ。


「ありがとう」


 素直に受け取って、寝起きの顔を清める。

 仄かに温かい。あのシャワーとやらで濡らしたか、それとも魔道具が使われているのだろうか。どちらにせよ、快適で心地よい。


 私の国にも似たようなモノはあった。

 しかし私は、この快適さを知らない。

 あの王室において、恐らく私だけが知らなかった。


「あんた、ほんと変わってるわよね」


 レイアが呟くようにして言った。


「すまない。また何か間違えたか?」


「それよ」


「……?」


「普通、奴隷に謝ったり感謝したりしないわよ」


「そうか。態度を改めた方が良ければ、教えてくれ」


「べつに、嫌じゃないわよ」


「……そうか」


 距離感が掴めない。

 敵対的ではない相手と接した経験が少なくて、どのように話すべきか分からない。その上、レイアは息を呑むほどに美しい。我ながら情けないが、緊張してしまう。


 私は目を逸らす。

 そして彼女がタオルしか身に着けていないことに気が付いた。


「……服は、どうした」


「そこよ。もう少しで乾くから待ちなさい」


 彼女の視線を追いかけると、部屋の隅に二人分の服が干されていた。何やら赤い光を纏っていることから察するに、また何か便利な魔道具を使って乾燥させているのだろう。


「ありがとう……いや、そうではなくっ」


「何よ。文句があるならハッキリ言いなさいよ」


 ……なぜ、期待するような目をする?

 いや今は良い。そのような些事は後回しだ。


「恥じらいは、無いのか?」


「恥じらい? ……ああ、そうよね。ごめんなさい。不愉快だったわよね」


「なぜ私に謝る。むしろ私が謝罪するところだ」


「何を言っているの? 醜い身体を見せるなと、怒っているのではないの?」


「そんなわけがあるかっ」


 やりにくい。

 これまでの人生で培った感覚が通じない。


 私は何か着せる物が無いかと探して、自分が被っていた物に気が付いた。


「しばらくこれを着ていろ」


 それを摑み、レイアに渡す。

 

「良いけど、良いの?」


「何を……」


 彼女の視線を追いかける。

 そこで私は、初めて自分が全裸であることに気が付いた。


 咄嗟に背を向ける。

 それから寝床の上で正座をした。


「……すまない。粗末なモノを見せた」


 溜息を吐くような音が聞こえた。

 呆れられてしまっただろうか。私が不安に思っていると、しかし次に聞こえたのは穏やかな声だった。


「あんた、本当に変わってるわね」


 彼女と出会って一日と少し。

 まだ、楽しそうに笑う姿を見たことが無い。

 だけど今しがた聞こえた声には、どこか愉快そうな色を感じた。


 ……これから、増やしていけるのだろうか。


 彼女との接し方は、まだ分からない。

 しかし、これからは今日のような朝が日常となる。


 可能な限り、早く慣れよう。

 私は決して小さくはない戸惑いの中で、そう誓った。


 それから宿で簡易的な食事を取り、再び迷宮へ赴いたのだった。

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