1-6. 醜い黒豚

 記憶の持続時間は印象によって変わる。

 感情が大きく動いた出来事ほど、長く残る。


 故に、悪い記憶ほど残りやすい。

 しかしそれは私には当てはまらない。


 悪い記憶ばかりだからだ。

 ちょうど一年前に食べた物を思い出せないのと同じように、私が虐げられた記憶をひとつひとつ思い出すことは難しい。


 例外はある。

 とびきり悪い記憶だけは、今でも夢に見ることがある。


 確か、三歳か四歳の時だった。

 まだ母上さまが健在だった頃、私は草花で冠を作った。


「あら、くれるの? クドは優しい子ね」


 母は笑顔を見せてくれた。

 だから私は、兄上さま達にも同じ物を渡そうと考えた。


 その時こそが始まり。

 私の容姿が醜いことを自覚した出来事だった。


「気色悪い」


 一番上のデューク兄さま。

 私が草花の冠を差し出すと、彼は低い声で言った。


 あの目が忘れられない。


「お前のような醜い黒豚が触れた物など、見たくもない」


 あの言葉が、忘れられない。


「近寄らないで!」


 一番上の姉さまは近寄ることすら許してくれなかった。


「視界に入るな! 目が汚れる!」


 二番目の姉さまは、私が視界に入る度、魔法で火の玉を飛ばして言った。


「汚らわしい」


 これは、誰の言葉だっただろうか。


「醜い」「なぜこのような者が」「本当に王族なのか」「信じられん」「国王は何をしている」「さっさと処分しろ」「目が合った。厄日だ」「臭い」「さっさと死ねば良いのに」「黒豚に食事など必要なのか?」「魔物の死骸でも与えておけ」「国費の無駄だ」「見ろ、黒豚が服を着ている」「歩ける豚だ。舞台で使えるのでは」「冗談は寄せ。客が寄り付かなくなる」「雌の方がくたばったらしい」「清々する」「早く後を追えば良いのに」「来るな!」「声を出すな!」「うぇっ、肩が触れた」「アレに触れるくらいなら、家畜の糞尿に塗れた方がマシだ」「聞いたか。スキルも使い道が無いらしい」「いよいよ国王の子なのか怪しくなったな」「なぜ王室はアレを残し続けているのだ」「エドワードさまは物好きだな」「 」「 」「」「」...


 ──これらは、誰の言葉だっただろうか?


 何も感じない。山に住む者が草木の揺れる音を聞くように、罵声を聞くことが私にとっての日常だった。


 容姿が醜い。

 ただそれだけのことが、あまりにも残酷だった。


 これは呪いだ。

 生まれながらに背負った呪い。


 きっと前世で何か罪を犯したのだろう。

 ならば今生で償うしかない。母の遺言を守り、善行を重ねるしかあるまい。


 私が幸せを手に入れることはできない。

 せめて他人を不快にさせないように、息を殺して生きるしかない。


 それ以外の生き方は有り得ない。

 醜い私は、虐げられながら生きるしかない。


 ずっと、そう思っていた。

 ほんの一時も疑わなかった。



 ──故に。



「ぁ、は」


 ──美醜感覚の逆転。


「ぁ、はは」


 その「存在」を認識した私は笑った。


「あははははは!」


 これまで笑うことなど滅多になかった。

 だから慣れない筋肉が使われていると分かる。


 痛い。腹が痛い。喉が痛い。

 目の下が熱くなり、枯れたはずの瞳が潤っていく。


 それでも止まらない。

 笑い声が止まってくれない。


 誰だ、これは。

 誰の声だ。これは。


 ……私だ。


 ああ、なんて愚かなのだ。

 何が呪いだ。何が絶対に変えられないだ。


 変わるではないか。

 ほんの少し、生きる場所を変えるだけで。


「あは、ははは、あはははははは!」


 私は笑い続けた。

 不慣れな音を吐き出す度、自分が壊されるような感覚があった。

 

 ──お前は醜い。

 物心ついた時から言われ続けたことだ。


 理不尽だと思っていた。

 絶対に変えられない呪いだと思っていた。


 しかし、そうではなかった。


 美醜の感覚など、絶対ではない。

 人が変われば基準が変わる。そんな当たり前のことを知った。


 当たり前だったのだ。

 ほんの少し視野を広げて──もしも幼い私が知っていれば、母と共に国を出るだけの力を持っていれば、今とは全く違う未来があったはずだ。


 私は知らなかった。

 知識だけではない。力も足りなかった。


 故に失った。

 何もかも失って、空っぽになった後で気が付いた。


 今さら遅い。

 何もかも終わった後だ。


 だから私は笑った。

 無様な過去を嘲笑った。


 そして。

 ひとしきり笑った後、振り返る。


「奴隷商人、取引だ」


 唖然とした様子で立っていた彼は、怯えるような反応を見せた。


「この少女を買う」


 しかし私が告げると急に笑顔を見せた。現金な男だ。


「カードとやらを渡せば良いのか?」


「いや、あの、少々お待ちを!」


 彼は慌てた様子でどこかへ走っていった。

 恐らく、取引に必要な物を取りに行ったのだろう。


 ふざけた話だ。

 奴隷を紹介しておきながら、取引の準備すらしていなかったということになる。


「……ねぇ」


 その声に振り返る。


「なんだ?」


 彼女は、まるで狂人でも見るような目をして言った。


「正気?」


 私は軽く息を吐いた。

 実に、絶妙な質問だと思った。


「さて、どうだと思う?」


 ぼかした返事をする。

 彼女は嫌そうな顔をして、


「私の言葉、覚えてる?」


「どの言葉だ?」


「私を抱ける?」


 最初は唖然として何も言えなかった言葉。

 私はそれを頭の中で「愛してくれる?」と置き換えた。


 だから、次のように返事をした。


「分からない」


「……は?」


「私は、他人を愛したことが無い」


「……何よそれ」


 彼女は掠れた声を出して俯いた。


「もっと言えば、愛されたことも、ほとんど無い」


「ふざけないで」


 事実だ。私は母以外の愛を知らない。

 しかし、説明したところで彼女は信じないのだろう。

 

「私からも質問しよう」


「……何よ」


「あなたは、私を愛せるか?」


 彼女は呆れたような顔をする。

 それから薄桃色の唇を小さく開き、ハッとした様子で横を向く。


 そこに何かあるのかと目線を追いかけると、


「……もちろんよ」


 と、その風のような声で呟いた。

 不思議な仕草だった。彼女の故郷における作法なのだろうか?


「私はクォディケイド。クドで構わない。あなたの名前は?」


「……レイア。ただのレイアよ」


「そうか」


 私は膝を曲げ、彼女に向って手を伸ばす。


「よろしく頼む」


 彼女は呆然とした様子で私を見ていた。


「なんだ、知らんのか? 握手だ。手を握れば良い」


「……そ、それくらい知ってるわよ」


 彼女は吐き捨てるようにして言って、そっと右手を挙げた。

 しかし握手は成立しない。彼女の手は不自然に震え、どこか怯えているかのように進んでは戻るを繰り返している。


 だから、私の方からその手を強く握った。

 彼女の手が強く震えた。きっと反射的に引こうとしたのだろう。


 もちろん、逃さない。


 最初の仲間は彼女にする。

 この見知らぬ土地で見つけた鏡と共に、私は生まれ変わる。


 今、そう決めた。

 ──こうして、醜い黒豚と蔑まれていた私は、新たな人生を歩み始めた。

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