2-8. 生まれて初めて

 昨日と同じ宿を借りた。

 店主が気を遣ってくれたのか、単純に空きがひとつだったのか、部屋も同じだった。


 縦横2メドル程度の狭い部屋。

 出入口と部屋の間に半メドル程度の廊下があり、右には浴室、左には便所がある。


 部屋の奥には小窓。

 その手前に寝床がある。寝床は横向きで、部屋の半分以上を占有している。


 まさに、寝て起きるための場所だ。

 私は昨日と違って内装を見る余裕があることに安堵しつつ、寝床の手前まで歩いた。


 それからレイアを見る。

 彼女は何も言わず、私を見上げた。


 ……やはり、彼女の目は見られる。


 透き通るような蒼い瞳。

 長い睫毛の間にあるそれは、他の何にも代え難い宝石のように美しかった。


「……何よ」


 薄桃色の唇が微かに動き、不機嫌そうな声が発せられた。私はハッとして、彼女から目を逸らしながら言う。


「先にシャワーを浴びたらどうだ。あれだけ動いたのだ。汗を流したいだろう」


「……そうするわ」


 彼女は頷いて、浴室へと移動した。

 私はその姿が見えなくなった後、みっともなく床にへたり込む。


「……もっと堂々とせねば」


 額に手を当て、気を落ち着けるための呼吸を繰り返した。


 何か、話そう。

 このままずっと不機嫌な彼女と行動を共にするのは、祖国に居た頃よりも心苦しい。


 しかし、何を話そう。

 好きな食べ物でも聞くか? ……いや、味があれば好きだと言っていたな。いけない。会話の引き出しが少な過ぎる。


 こういう場合は、仕事の話をするか。

 私達の場合は迷宮探索。より戦闘効率を上げる方法など、有意義な会話になるはずだ。


 いやいや違う。そうではない。

 私は……普通に話したいだけなのだ。


 友人などという高望みはしない。

 ただ、普通に話せるだけで良い。


 ……普通とは、なんなのだろうか。


 私は床に座り、天井を見上げる。

 穏やかな時間だ。このような時間、祖国に居た頃は年に一度あるかどうかだった。


 やっと気が付いた。

 どうやら私は、普通とは何かさえも分からないらしい。


「……ゆっくり行こう」


 自分に言い聞かせるため呟いた。

 焦る必要は無いのだ。べつに、明日までにレイアと話せるようにならなければ、鞭で打たれるというようなことは無い。


 ゆっくりで良い。

 ひとつひとつ、積み重ねていけば良いのだ。


「出たわよ」


 レイアの声がした。

 私は一度息を吐き、笑みを作ってから顔を上げる。


「そうか。では、次は私が……」


 レイアが身に着けていたのは、タオルという白い布、一枚だけだった。

 

「……何よ」


 彼女は顔を私から顔を背け、髪を指で弄りながら言った。

 しかし身体を隠すような素振りは見せない。私からすれば心臓に悪いのだが、ここでは普通なのだろうか?


「何でもない。次は私がシャワーを使う。退いてくれ」


 彼女は頷いて、何も言わず道を空けた。私はなるべく彼女を見ないようにしながら浴室へ入り、扉を閉めてから長い息を吐いた。


 心を無にして淡々と身を清める。

 やはり迷宮内の衛生環境は悪いようで、濡らした頭や身体に触れる度、ざらざらとした感覚があった。


「……本当に便利だな」


 シャワーに対する感想である。

 ただ水が温かいだけではない。勢いが強いから、ただ身体に当てるだけでも、ある程度の汚れを流すことができる。迷宮都市には、祖国よりも優れた職人が育っているのかもしれない。


 二度目にして初めての感動を覚えながら身を清め、シャワーのある部屋から出る。そこは服を脱ぐ場所で、脱衣所というらしい。


「……そういうことか」


 脱衣所には脱いだ服とタオルだけがある。

 元の汚れた服を着るのは、何かと気分が悪い。このため裸かタオルの二択を迫られ、彼女はタオルを選んだのだろう。


 次は脱衣所に代えの服を持たせるようにしよう。

 小さな反省を胸に、タオルで身体を拭く。それからレイアと同じような格好で浴室を出た。


 そして私が目にしたのは、裸で寝床に座る彼女の姿だった。


「早かったわね」


 それは、ちょっとした挨拶をするような態度だった。


「……なぜ、服を着ていない?」


 問いかける。

 彼女は微かに表情を強張らせて返事をした。


「だって、するんでしょ?」


「……何をだ?」


「あんた、わざわざ言わせる趣味があるわけ?」


 突然のことで頭が追い付かない。

 私は手を使って目を隠し、どうにか心を落ち着かせてから返事をする。


「まだ、出会ってから二日だ」


「普通、女の奴隷を買ったらその日のうちに手を出すものでしょう」


「私は、そのような文化を持っていない」


「何よ文化って……ハッキリ言いなさいよ」


 その声には、今日一番の苛立ちが含まれていた。


「こんな醜い女、見たくも触りたくもないって、正直に言いなさいよ!」


 私は唖然とした。彼女の機嫌が悪いことは察していたが、ここまでの怒りを秘めているとは思わなかった。


「中途半端なことしないでよ。期待させるだけなんて……酷過ぎる」


 彼女は俯き、寝床の端を摑んだ。

 その手が震えている。微かに見える目には、涙が浮かんでいる。


 私は言葉を探した。

 だが、見つけられるわけがない。


 普通の会話さえ困難なのだ。

 少女の涙を拭える言葉など、分かるわけがない。


「レイア、聞いてくれ」


 それでも、言わなければならないと思った。


「あなたを醜いと思ったことは、一度も無い」


「噓よ」


「本当だ」


 彼女は顔を上げる。

 宝石のような瞳が、私の醜い姿を映した。


「言葉だけなら、なんとでも言えるわよね」


 彼女は私の目を真っ直ぐに見て言った。

 私は息を止めた。彼女の目を見て、これまでの人生で最も恐ろしいと感じた。


 必死に動揺を抑え、息を吐き出すと、酷く震えた声も一緒に出た。

 私は咄嗟に強く息を吸った。しかし一度吐いた息を取り込めるわけもなく、喉の奥に痛みを感じただけだった。


「レイアには、共に迷宮へ挑む仲間になって貰いたい」


 私は息苦しさを感じながら、必死に言葉を絞り出す。


「知ってるわよ」


 彼女はあっさりと、伸ばした手を振り払うように言った。


「迷宮へ挑むために、妊娠の可能性は、避けたい」


「一回くらいで妊娠なんてしないわよ」


 どうにか理屈で納得させようとしたが、彼女の態度が変化する気配は無い。


「まだ、出会ってから二日だ」


「それは、さっきも聞いたわよ」


「……もう少し、待ってくれないだろうか」


「……いつまで?」


「それは……」


 言い淀む私を見て、レイアは笑みを浮かべた。

 それは胸に物理的な痛みを覚えるような、寂しい笑みだった。


「お金が貯まって、新しい奴隷を買えるまで?」


 彼女は、声を震わせながら、笑った。


「そうよね。私なんて、ただの繋ぎよね」


「違う。そんなことは考えていない」


「だから何が違うのよ!?」


 彼女は激昂した。

 手近な場所にあった枕を摑み、私に投げた。


 直撃する。

 柔らかい布が当たったところで痛みなど無い。


 外側だけは、平気だった。

 彼女は肩を揺らして呼吸をする。


「指先ひとつ触れてこない。会話だって少ない。ねぇ、私のことどう思ってるの?」


 それから親の仇でも見るような目をして言った。 


「人前に出た時、惨めで仕方がなかった。皆が変な目で見てくる。あんたみたいに容姿の良い人が、どうして私なんかを連れてるんだろうって目をしてた。協会の人だって、服屋の人だって、私を見た途端に態度を変えた。でもあんたは何も言わない。私に興味が無いからでしょう? 直ぐに捨てるつもりだからでしょう!?」


「そんなことはない」


「うるさい噓を吐くな!」


「噓ではない」


「私の価値は、10万マリ。あのちっぽけな石、たった千個分。それでも売れ残ったのよ。みんな私を見て、金を貰っても買いたくないって、そう言ったのよ!」


「レイア、落ち着いてくれ」


 私は床に膝を付け、目線を合わせて言った。


「期待させないでって言ってるのよ!」


 しかし彼女は直ぐに目を逸らした。


「……どうせ捨てるなら、今すぐ窓の外にでも投げなさいよ」


 その声は酷く掠れており、最後の方は息だけになっていた。


 次に聞こえたのは鼻をすする音。

 そして、ぽたりぽたりと、透明なしずくが零れ落ちていた。


「……レイア、聞いてくれ」


 彼女は返事をしない。


「最初に言った通り、あなたを抱くことはできない」


 彼女の口元が微かに歪んだ。


「しかしそれは、あなたが醜いからではない。断じて違う」


 私は呼吸を整える。


「他の願いを、考えてくれないだろうか」


 そして祈るような気持ちで、彼女に懇願する。


「他の願いならば、必ず叶える。約束する」


 彼女は、ゆっくりと首を回した。

 それから泣き腫らした目に私を映して、小さな声で言った。


「……抱きしめて」


「分かった」


 断る理由など存在しなかった。

 私は彼女に近寄って、その細い身体を抱擁した。


 彼女の身体は、冷えていた。

 まるで氷か何かを抱いたようだと思った。 


「……うそ、なんで」


 耳元で、信じられないというような声が聞こえた。


「伝えたはずだ。私は、あなたを醜いと思ったことは一度も無い」


「……」


 今度は、返事は無かった。


 静寂の中、時間だけが流れる。

 私の体温が彼女に伝わり、やがて温もりが生まれた。その時になって、必死に意識から逸らしていた感触が、私の血流を乱そうとする。


「……レイア、そろそろ良いだろうか?」


 問いかける。彼女は返事をする代わりに、私の背に手を回した。

 そして、物理的に触れる可能性のある場所すべてが密着するような力を込めた。


「ねぇ、なんか、熱いんだけど」


「……許せ」


「やだ、許さない。あなたは、酷い人」


 私の耳元で、彼女は言う。


「とても残酷な……私を、初めて抱きしめてくれた人」


 その声が、感触が、私から理性を奪おうとする。


「レイア、頼む。そろそろ離れよう」


「やだ」


 彼女はさらに強い力を込めた。

 私は唇を嚙み、その刺激から意識を逸らそうとした。

 

「すまない!」


 彼女の肩を摑み、強引に引き剥が……せない!

 どうやら彼女は、スキルを発動させてまで離れたくないらしい。


「ねぇ、これ、苦しくないの?」


「そう思うのなら、離れてくれ」


「冗談よ。これ以上なんて、望まないわよ」


 呼吸をする音がした。


「だから、お願い」


 レイアは縋るような声を出す。


「このまま、朝まで」


 そしてまた、抱擁する力を強めた。


「…………分かった。だが、この姿勢は苦しい。せめて、横になろう?」


「……そうね」


 意外にも、レイアは私の提案に頷いた。

 

「どういう姿勢にするの?」


 身体が離れる。

 私は焼けるような熱を感じながら、僅かに残った理性を振り絞り、寝床でうつぶせになった。


「……これで、どうだろうか」


 返事は無かった。

 代わりに、彼女の重みと感触が、背中に押し当てられた。


「ねぇ、もう一回だけ、聞かせて」


 耳元、甘えるような声。


「……本当に、私のこと、醜いと思わないの」


「もちろんだ」


 私は半ば自棄になって、思ったことをそのまま口にする。


「一目見て思った。あなたは、美しい人だ」


「……ほんとうに?」


「本当だ」


「…………ご主人さまは、変わり者なのね」


「レイアの方こそ、私などと肌を重ね、嫌ではないのか」


「おかしな質問ね」


 彼女は微かに笑う。


「一度しか言わないから、よく聞きなさい」


 それから私の肩を摑み、そっと囁くような声で言った。


「……私、生まれて初めて、誰かを好きになれそうよ」


 それが、この夜、最後の言葉だった。


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