『一線』

「……お母さん?」


 気がつけば、戦いは終わっていた。


 瓦礫の上には、力尽きて動かなくなったサツキの姿があった。


 何が起こったのかはよく覚えていない。


 ただ、我を失う直前──ナギサが殺されそうになっているのを見て、どうしようもない怒りに支配されたことだけは覚えている。


 その後に何があったのかは、キラ自身にもよくわからなかった。


「……」


 キラはただ黙って、瓦礫の上に横たわる養母の死体を見下ろしていた。


 もう動かない養母の身体に触れると、まだほんのりと温かった。


 しかし……しばらくそうしているうちにも、その熱は次第に失われていく。


「あ……ああ……」


 未熟な心でも理解できる絶対的な死を前にして、キラの瞳から一筋の涙が伝う。


「……ねぇ、起きてよ……お母さん……」


 キラは震える手で養母の肩を揺すり、懇願する。


 けれど、返事はない。


 養母は二度と動かない。


 死んだ人間は蘇らない。


 当たり前のことが、キラに重く圧し掛かった。


「……嫌だよ、こんな……こんなことって……」


 キラはその場に膝を突き、蹲る。


 過去が静かに溢れ出す。


 刃を向けられた記憶なんか、今はどうでもよかった。


 ただ脳裏に迸るのは、人並みの温もりを与えてくれた優しい養母の記憶。


 いつだって、自分のことを一番に考え、支えてくれたあの人。


 あたたかくて、おいしいご飯をつくってくれたあの人。


 休日には、色んなところに連れ出して、世界は美しいことを教えてくれたあの人。


 ――けれど、あの人はもういない。


 ――剣を握らせてしまった。


 力に目覚めてしまったが故に。


 ――殺してしまった。


 己が不甲斐ないばかりに。


 ――死なせてしまった。


 未熟で情けない自分が怨ましかった。


 発狂するように少女は咽び続ける。


 地面に額を擦り付け、何度も何度もごめんなさいと謝り続けた。


 ……どれくらいの間、そうしていただろうか。


 キラはおもむろに顔を上げ、自らの手を見た。


 その手は、血に染まっていた。


 大切な人の血で染まっていた。


 直視してはいけないと、理性が告げる。だが、目を逸らすことなど出来はしなかった。


 九嶺サツキを殺したときの光景を、感覚を、感情を、キラは克明に記録してしまっていたのだから。


 殺す前後のことは不鮮明でも、大切な人を殺めてしまった瞬間のことだけは、心に刻み込まれていて、キラの思考にノイズが走る。


 ――たのしかった。


 大切な人をいたぶることは。


 ――きもちよかった。


 壊してはいけないものを壊すことは。


 ――しあわせだった。


 この手で人を殺して、これまでにないほど自分という存在を実感できたから。


 暴と欲に塗れた感情が自らの内に存在することを知って、キラは顔を歪め、


「……ああ、そっか。そうだったんだ」


 やがて悟る。


 自らの胸の内に穿たれた穴の正体を。


 ……自分はサツキの死を悲しんでなどいない。


 ただ、自分にとって都合の良い人間がいなくなった事実に打ち拉がれているだけ。


 ――私は、使徒だ。


 七年前の東京を一夜にして地獄へと作り変えた奴らと同じ、史上最悪の化け物。


 ――結局のところ、私はあの化け物達と何一つ変わらないじゃないか――。


「……あはっ」


 喉の奥から、笑いが込み上げてくる。


 ……記憶の中の自分が、痛みに表情を歪めるサツキを見て、この上ない悦楽を感じていた事実に、鼓動が速まる。


 人並みの倫理観に身を委ね、理想へと邁進すれば、高潔な人間になれると信じ込んでいた。


 だけど、そうではなかった。


 自分は人である以前に、醜い獣だったのだ。


「あはははっ……あはははははははははは!」


 己の傲慢さに、涙を溢し、哄笑する。


 剥き出しになった自分は、どこまでも虚飾に満ち溢れていて、嘲笑うことでしか正気を保てなかった。


 ……最初からわかっていたはずだ。


 理想に身を捧げても、この渇いた心は潤わないことぐらい。


 ……なのに、自分の歩む道は、いつか理想へと辿り着けると信じて疑っていなかった。


 己の愚かさに呆れ果てる。


 失望と喪失感だけが心を満たしていく。


「…………」


 息が切れるまで笑い続け、やがてキラは雨の降りしきる暗い空を仰いだ。


 ……今はただ、この雨が心地良い。


 穢れてしまっている自分に、光は似つかわしくない。


 罪を犯した者に相応しいのは、どこまでも冷たく暗い闇。


 遠雷が響く中、少女はいつまでも雨に打たれ続けた。

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