今度こそ
「え、えっと……大丈夫、九嶺さん?」
しばしの沈黙が支配する室内に、ナギサの声が響き渡る。
キラは何度も電話をかけ直しているが、案の定と言うべきか電話は繋がらない。
恐らく、電源そのものを切っているのだろう。
「……」
ナギサの問いかけに答えることなく、キラは無言で電話をかけ続ける。
しかし、それでも電話が繋がる様子はない。
十分間ほど同じ作業を繰り返していたキラだったが、当の彼女も無駄だと悟ったのだろう。
ふー、と長い息を吐いてから、キラは携帯をベッドの上へと、思いっきり叩きつけた。
「あー、もうっ! どうして、あの人はこういう時に限って、一方的に話したいことだけ話して、電話を切るのかなぁっ! これじゃ話したいこともちゃんと話せないじゃん!!」
半ばヤケクソ気味に声を上げるキラに、ナギサはどうしたものかと戸惑う。
……実際のところ、キラはただサツキと電話越しに会話するだけでは気が済まなかったのだろう。
会って、面と向かって話をすることでしか、サツキの真意を聞き出せないと、理解しているのかもしれない。
……だが、それはあまりにも無謀だ。
ナギサがサツキの速度に追いつくので精一杯だった上に、昨夜の一戦で奇跡を酷使してしまったが為に、暫くの内は戦闘は行えない。
故に、今の自分達では勝てる見込みはない。
キラが己の中に宿る力を完全に把握しきれていないというのもそうなのだが、こちらとサツキとでは、勝利となる前提条件が違う。
キラの抹消を勝利とするのがサツキなのに対し、こちらの勝利条件は殺人鬼の捕縛及び無力化。
言い換えれば、こちらが勝利する為には、キラを殺されることなく、サツキを生け捕りにする必要があるということ。
……手段こそまだ残ってなくはないが、正直なところ博打要素が強すぎる上に、いざ実行するとなった際の二次被害を考慮すれば、リスクの方が大きすぎる。
クソ……、とナギサは内心で毒づいた。
現時点での二人の力では、サツキを打倒するにはリスクが伴う。
……ミハルの力を借りるというのも考えてはみたが、ミハルが戦闘に加わると感づかれれば、相手はその時点で撤退するに違いない。
……やはり、詰んでいる。
状況はかなり絶望的。
このまま、キラを放っておくという手もあるにはあるが──この件に一度でも首を突っ込んでしまった以上、『逃げ』を選択するのは、ナギサの信条に反している。
何としてでも、キラを殺人鬼の手から救いたいという気持ちは確かにあるし──たとえ相手が強大な力を有しているとしても、戦いを放棄して傍観に徹しようとも思わない。
それは死への恐怖よりも、今を護りたいという欲の方が勝っているからかもしれなかった。
──……けど、これもただの独りよがりよね、結局。
ふと、誰かに言われたことが脳に過ぎって、ナギサは心の中で自嘲した。
……自分はまだ九嶺キラという一人の少女のことをよく知らないのだ。たった一週間程度の付き合いしかない。
そんな人間が、他人の家庭に口出しするのは、いささかお節介が過ぎるような気がする。
──だとしても……、こんなところで九嶺さんには死んで欲しくない。
ここでキラを見捨てたとして、その後の自分はどう生きていくというのか。
手の届く範囲にいる人を救わなかったら、見殺しにしたという事実のみが、黒瀬ナギサの人生に消えない傷跡を残すだろう。
──……生き地獄とはまさにこのことね、ホントに。
過去に犯した過ち、届かなかった手、間に合わなかった想い。
そして──現在進行形で九嶺キラに迫っている災禍。
その全てから目を逸らし、今を生きていくことなどナギサには到底不可能だった。
「──ねぇ、黒瀬さん」
名前を呼ばれ、ナギサは意識を現実へと引き戻す。
「……私、決めたよ。お母さんに会い行ってくる」
「え……?」
思いがけないキラの言葉に、ナギサは呆気にとられた。
「ちょ、ちょっと、待って……本気なの?」
あまりにも無謀すぎる挑戦に、ナギサは戸惑いを隠せない。
「うん」
ナギサの問いかけに、キラは即答する。
そこには怯えも躊躇いもない。ただ純粋たる決意が瞳の奥で燃えているだけだった。
「相手は二度もあなたを殺しているのよ? こうして待ち合わせ場所を提示してきた以上、向こうだって、なんかしらの対策は講じてきているはずだし、まともに挑んで勝てる相手じゃないことぐらい、あなたでも分かるでしょ?」
「……確かにそうかもね」
キラは否定しなかった。
まるで今から死にに行くような覚悟を決めた顔で、ナギサの言葉を肯定した。
そんな彼女の様子に、どうしようもない苛立ちを覚えたナギサは、だったら──、と声を張り上げる。
「だったら、どうしてわざわざ死に急ぐような真似をするの!? あなたの人生はまだまだこれからでしょ? なのに、どうして──どうしてそんな簡単に自分の命を捨てられるの!?」
ナギサはキラの胸ぐらを掴み、強引に引き寄せる。
「少なくとも私は嫌よ、あなたが死ぬなんて。他人のために頑張れるような人が、自分のことを簡単に諦めてしまうのは間違ってる! もっと自分を大事にしなさいよ、このバカ……ッ!」
「黒瀬さん……」
ナギサの言葉に、キラは困ったような笑みを浮かべる。
その笑みを見て、ナギサは確信する──この少女は自分の命を勘定に入れていない、と。
目の前で誰かの命が刈り取られようとしているのなら、それが誰であろうと助けようとするだろうと。
普通に生活していれば、遭遇しないようなものであっても、誰かの脅威になるのなら、排除するだろうと。
だからこそ、認めるわけにはいかなかった。キラの行動の全てを肯定してしまったのなら、それは彼女に対して『死ね』と言っているも同義。
……他人を助ける為に、命を投げ捨てるのを許容する。
一聞すれば、美談に思えるかもしれないが、その行為は根本的な部分で間違っている。
そんな自己犠牲じみた甘い考え方は、自分どころか、周囲の人間の人生をも狂わせる。
「ごめんね、黒瀬さん……。私のことで手を貸してくれてるのに、迷惑ばっかりかけて。けど、行かなきゃだと思うんだ。さっきの黒瀬さんの言う通り、いつまでも同じところで足踏みしてるわけにはいかないから」
「そういうことを言ってるんじゃないでしょ!?」
謝罪を述べるキラに対して、ナギサは激昂する。
こちらの苛立ちと怒りを理解した上で、それでもなお死にに行こうとする姿勢が、許せなかったからだ。
「私はただあなたに辛い思いをさせたくないだけ! それだけなの! ……九嶺さんがどうしても行くっていうなら、私もついていくから!」
「で、でもそれは……」
キラは大きく目を見開いて、狼狽した。
……どうやら、意地でもキラの無茶を認めない、というナギサの強い意志に戸惑いを隠しきれないようだった。
しばらくの間、困ったように眉根を寄せて何かを考えていたキラだったが、やがて観念したかのように息を吐いた。
「ずるいよ、黒瀬さん……。そんなこと言われたら、何も言い返せないじゃん……」
キラはナギサの手を振り払い、そのままベッドの上に横になる。
「分かったよ……お母さんのところに行くのは諦める」
「えっ……?」
あまりにあっさりとしたキラの決断に、ナギサは思わず素っ頓狂な声を上げた。
が、彼女の声に反応することなく、キラはもぞもぞと布団の中へと潜り込んでいく。
「その代わり、私が死なないように護ってよね。……まだ死ぬわけにはいかないからさ」
それだけ言い残し、キラは目を閉じた。
……恐らく、あまりにも急激な環境の変化に心身を消耗させてしまっていたのだろう。
先程まで、死地に赴くような覚悟を決めていた人間のものとは思えない穏やかな表情を浮かべながら、一瞬のうちに彼女は眠りに落ちていた。
「……言われなくても分かってるわよ、私がずるい女だってことくらい」
寝息を奏でるキラの頭を撫でながら、ナギサは呟く。
……周りの期待に応えるように、様々な事をそつなくこなしてきたナギサであるが、その内面は至って、取るに足らない人間の一人でしかない。
国家の一つや二つを運営できるほどの巨万の富だとか、世界を変えうるほどの力だとか、そういった大それたものに興味は無く、人並みの幸せさえ掴めれば、それで十分だった。
──だが、ナギサのささやかな願いは、黒瀬財閥の令嬢として生まれた時点で、縁遠いものでしかなかった。
ナギサの未来は、最初から決まっていたのだ。
黒瀬の家に生まれてしまった以上、自分の意志など関係なく、他人が敷いたレールの上を歩き続けるしかない。
幼い内こそ、己の生き方に疑問を抱かなかったが、多様な人々と接していくうちに、ある疑念を抱くようになっていった。
──周りに求められたことをこなすだけの人生でいいのか、と。
自分の生き方に対する疑念は、成長していく毎に肥大化していき、気がつけばナギサは逃げていた。
周囲の期待から、力をもつ者の責任から──そして、黒瀬ナギサという己自身から。
かつての友の最期に立ち会った瞬間から、逃避行の人生は始まっていたのかもしれない。
けれど、この生き方を選んだのは紛れもないナギサ自身だ。
ならば、せめてもの贖いとして、今の生き方から逃げてはいけない。
……己が向き合うべき現実からは、もう目を逸すことはできないのだから。
「えぇ、分かってるわ……分かってるわよ、そんなこと」
今はもう亡き友の影を、確かにそこに居るキラの中に見ながら、ナギサは独りごちる。
「……今度は、間違えない。今度こそ守りきってみせるから。今だけはせめて――」
誓いを胸にナギサは、眠るキラの手を優しく握り締めた。
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