回顧
雨音のみが響く、静かな夜だった。
時刻は既に零時を回ろうとしている。
暗鬱とした闇は街を覆い隠し、人々の心を惑わせる。
夜の街並みに浮かぶ灯は頼りなく、雨滴はやっかいに絡みついて、身体の熱を奪っていく。
……こんな雨の夜は、どうしたって思い出してしまう。
七年前のあの日を──全てが壊れた、あの春の夜を。
道路の片隅に出来た水溜まりは、傘も差さず、ずぶ濡れの九嶺キラを映し出していた。
桃色の髪が肌に張り付き、その姿はさながら幽鬼のよう。
頰を濡らすのは雨か、それとも──
「 ──────」
一度だけ振り返って、ここまで歩んできた道のりを確かめる。
数日間にも渡って滞在した黒瀬の屋敷も無数にある家屋の一つでしかなく、闇の中へと完全に溶け込んでしまっている。
「ごめんね、黒瀬さん。……こうすることでしか、私の問題を解決できなくて」
申し訳程度の謝辞を闇に告げ、キラは歩を進めていく。
……思えば、彼女にはどれだけの迷惑をかけたのだろう。
こちらがワガママを言えば、素直に聞き入れてくれて。黒瀬ナギサは貴重な時間を自分のために使ってくれたというのに。
今からやろうとしていることは、そんな彼女の善意を無為にする最低最悪の所業である。
……彼女には恨まれても仕方がないだろう。いや、むしろそっちの方が気が楽かもしれない。
そっちの方が迷いなく死に行けるから──。
「……はぁ」
自己嫌悪と共に、キラは息を吐く。
足取りは重く、一歩踏み出す度に頭の中がぐちゃぐちゃと搔き乱される。
「なに考えてるんだろ……私」
何度も己に問いかけるも、答えなど出るはずもなかった。
いや、もしかしたら既に答えは出ていて、そこから必死に目を逸らしているだけなのかもしれない。
「……そもそも、なんでこんなことしてるんだっけ」
自分でもよく分からなくなってきたので、とりあえず最初から考えることにしてみた。
……最初は純粋な善意だったはずだ。
──目の前で苦しむ人を助けたい。
ただそれだけの想いだったはずだ。
けれど、今はどうだろうか?
あの災害で一人だけ生き残ってしまった罪悪を拭うための免罪符と化してしまっている。
魔剣士を志した理由にしたってそうだ。
復讐だとか、決してそんな邪な理由からではない。
壁の中でしか身を守れない人々の日常を守るためだ。
……なのに、いつしか自分自身のために目的をすり替えてはいなかっただろうか?
──自分の為に誰かを救うのと、誰かを救う為に自分を犠牲にするのとでは、意味が違う。
前者はただのエゴで、後者は偽善だ。
インクの垂らされた紙のように、一度でも疑問を抱いてしまったのなら、純白の理想は途端に汚れていく。
「……」
キラはふと空を見上げた。
──雨は嫌いじゃなかった。焼け野原で倒れていた自分を優しく包み込んでくれたのも、雨だったから。
でも、今はどうしようもなく疎ましい。
どれだけ顔を濡らしても、脳裏にこびりついた紅の光景は消えることがないのだから──。
「あっ……」
何かに躓き、前のめりに身体が傾いた。
……足元に転がっていた空き缶を踏んでしまったのだ。
思わずつんのめって倒れそうになったところを、すんでのところで踏ん張り直し、再び歩き出す。
泥だらけになった靴を見下ろしながら、キラは苦笑した。
「こんな時でも格好つかないなんてダサいなぁ、私……」
雨ですっかり冷えてしまった身体を両腕で抱きながら、キラは歩を進めていく。
……思えば、昔から肝心なところで何かしらのドジを踏んで、実の両親によく叱られていた気がする。
例えば、遠足や発表会の当日に忘れ物をしてしまったりだとか、テストで満点を取れなかったりだとか……。
その度におしおきとして、一日分の食事を抜かれたりだとか、意識が朦朧とするまで殴られたりもした。
特にキツかったのは、冬場に冷水で満たされた浴槽に沈められたことだったろうか。
呼吸を封じられ、骨の髄まで染みる冷たさを今もなお覚えている。
……けれど、おしおきを乗り越えたあとには、父親が慰めてくれた。
夜中に、布団の中で痛みに悶えているキラを抱いて、どんな痛みに勝るとも劣らない快楽を与えてくれた。
……あの時の自分は、どうしてこんな目に遭うのか全く理解できなかったけど、今なら分かる気がする。
──あれはあれで自分のことを、一番に思っていてくれたのだと。
遠い記憶を思い返しながら、息を吐いた。
「……ダメだ。こんなこと考えてる場合じゃないのに」
頬を両手で強く叩き、余計な感情を振り払う。
今、集中すべきは昔のことなんかじゃない。九嶺サツキのことだ。
……そう自分に言い聞かせて、キラは目的地へと向かって、ただ歩き続けた。
◆◇◆
やがてキラが辿り着いたのは、街の一角にある操車場だった。
周りには工場や倉庫が建ち並び、普段は多くの人々が往来するこの場所も、深夜になってしまえば人の気配など微塵も感じられない。
だが、たった一つだけそんな操車場に佇む影があった。
──九嶺サツキだ。
赤い外套に身を包んだ彼女は何も語らず、月のない夜空を見上げて、立ち尽くしていた。
その異様な佇まいに圧倒され、キラはサツキへと声をかけることが出来なかった。
「遅かったな、キラ。少し、待ちくたびれたぞ」
……ふと。
キラの気配に気がついたのか、こちらを一瞥することもなく、サツキがうわ言のように呟いた。
「ごめんね、お母さん……道中、警察の人に職質を受けて、少し遅れちゃった」
サツキの言葉に答えながら、キラは彼女の元へ歩み寄っていく。
「ほう、それは災難だったな……だが、私にはあまり余裕がない。話したいことがあるなら、手短に頼む」
「……うん、分かってるよ」
サツキの言葉に、キラは俯きながら答えると、彼女の隣へと立った。
そのまま二人は暫しの間、無言で佇むのみだったが──今度はキラの方から口を開いた。
「……ねえ、お母さん。本当にこうするしか道はなかったのかな?」
「くどい。私は言ったはずだぞ。お前の命を救った時点でこうなることは確定していたと」
「それは分かってるよ……。でも、お母さんは納得してないんじゃないの? 本当はこんな終わり方、望んでなかったんじゃないの?」
キラの問いかけに、サツキは口を噤んだ。
沈黙は肯定を意味する。そんなことは最初から分かりきっていたことだ。
けれど、聞かずにはいられなかったのだ──自身の心残りを晴らすためにも。
「……どうしてだろうな。確かに納得はしていないさ、こんな結末にはな」
「だったらさ、今からでも遅くないよ! もっと別の方法を探そう? 二人で話し合って……ちゃんと罪を償って……」
「黙れ!」
キラの言葉を遮るようにサツキが叫ぶ。
「今さら何を言い出すかと思えば、そんなありきたりの綺麗事で私の決意を鈍らせるつもりか? 甘ったれるな! もう後戻りはできないんだよ……!」
「だったら、どうして一番最初に私を殺さなかったの!?」
サツキの怒号に負けじとキラもまた叫び返す。
「本当はお母さんだってこんなの間違ってると分かってるんでしょ!? だったらさ……今からでも間に合うはず! 一緒に罪を償おうよ!」
「……ッ!!」
キラは腕を摑み、強引にこちらへと振り向かせる。
しかし──次の瞬間、キラは自らの行いを後悔した。
「あっ……」
そこにはキラの予想だにしなかった光景があった。
──泣いていたのだ。顔をくしゃくしゃにして、玉のような涙を流しながら、サツキは泣いていたのだ。
「私だって、こんな最悪な形での別れ方など望んでない! 許されることなら、もっと君の側にいてやりたい! けど、君は力を発現させてしまった! 無理なものは無理なんだ!」
感情を剥き出しにして、サツキは慟哭する。
「ああ、そうだとも! 私は君を殺すのを躊躇った! 多くの人間の尊厳を踏み躙っておきながら! 君が病室のベットで寝てる時も、家でのんびりと過ごしている時も、心が手を縛って、刃をその胸に突き立てられなかった!!」
ボロボロと涙を流しながら、サツキは吠える。
「どうして、君は私を憎まない!? どうして、君は私に手を伸ばそうとする!? 君を騙し続けていた私を、自分本意な私をどうしてどうして、どうして──……」
──どうして救おうとするのだ!?
血を吐くような叫びに、キラは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「……笑えよ。これが君を殺す者の姿だ。多くの人々の人生を弄んだ者の末路だ。無様にもほどがあるだろう?」
力なく言って、サツキは自嘲の笑みを浮かべた。
「……笑わないよ、私は」
ぽつり、とキラが口を開く。
「確かにお母さんは今までずっと私を騙してきたかもしれない。……でも、これだけは分かる。お母さんは本当は優しい人なんだって」
「ふざけたことを言うな! 本当の私はそんな……──そんな、明るい人間じゃない……っ!」
「だったら、なんでそんなに苦しそうに泣いてるの!? なんで私をここに呼びつけたの!? 本当は止めて欲しくて、私をここに呼んだんじゃないの!?」
キラの叫びに、サツキは目を見開いて硬直する。
「ねえ、ちゃんと話してよ。お母さんの本当の気持ちを。嘘偽りのない、本当の想いを」
「やめろ、やめてくれ! これ以上、私を惑わすな! そんなにも優しい言葉をかけられてしまったら……私は君を殺せなくなる! 己の責務を果たせなくなる!」
サツキはキラを突き飛ばし、呪うような声で叫んだ。
「もういい、これ以上は不要だ! 私を止めたかったら、その体に宿る力を行使するがいい! それでこそ、私は心置きなく君を殺せる!」
「お母さん……!?」
狂気を孕んだ声で叫ぶと、サツキは外套の中から赤の刀を抜き放つ。
対するキラもまた 、右手に意識を集中させて、灰色の剣を顕現させる。
「……それでいい。さぁ、始めようか。私達のエンディングを!」
「何としてでも止めてみせる! たとえ、刺し違えるような結果になったとしても!」
互いの覚悟はここに定まった。後は剣で語り合うのみ。
双方が同時に地面を蹴り、甲高い戦いの音が夜の大気を震わせた。
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