埋まらない空白
「……」
ナギサの私室へと案内されたキラは、ふかふかのソファに腰掛けながら、部屋の主が来るのを待っていた。
――ここが黒瀬さんの部屋……。
室内をぐるりと見渡せば、視界に飛び込むのは意外にも可愛らしい内装の数々。
天蓋付きのベッドに、フリルをあしらったカーテン。壁際にはクローゼットが置かれ、その隣にある棚の上には、ぬいぐるみなどの小物が飾られている。
以前、とある銀髪系眼帯少女の部屋にお邪魔したことがあったのだが、その時はサブカル系の物ばかりが置かれていた為、初めての女の子らしい部屋に、キラは妙な緊張で身を強張らせていた。
――やっぱり、私も女の子らしくした方がいいのかな……?
今になって思い返してみれば、女手一つで養ってくれたサツキに負担をかけたくないあまり、これまでそういった方面を疎かにしてきたきらいがある。
とはいえ、だからといって、いきなり女子力を向上させるというのは、どう考えても無理な話だ。
――そもそも、どうやって上げればいいのか分からないし。
「……それにしても遅いなぁ、黒瀬さん。お茶を淹れに行くとか何とか言ってたけど……どうしたんだろ?」
手持ち無沙汰な時間を潰す為に、キラは何とはなしに立ち上がり、部屋の中を徘徊し始める。と。
――あれ?
キラの視線が、ふと、棚の上に置かれた写真立てに留まる。
そこに映っていたのは、幼い日のナギサの姿。おそらくは、遊園地か何かに遊びに行った時に撮ったものだろう。
楽しげに笑うナギサと、彼女の後ろに立つマスコットキャラクター。そして――。
ナギサの右隣に立つ、誰かの姿。
不思議なことに、その人物の姿は、意図的に塗りつぶされており、顔どころか、性別すら判別することはできない。
だが、それでも。
その人物がナギサにとって大切な存在であることは、幼い彼女の表情を見ればすぐに分かった。
「………………?」
写真を眺めるうちに、不意に、キラの中に得体の知れない違和感が生じる。
――……何だろう? この感じ……。
それは、言葉にするならば既視感に近しいものだった。
自分ではない、誰かの記憶が脳裏を掠めるような奇妙な感覚。
初めて見るはずの光景なのに、どこか懐かしいと感じてしまう矛盾した感情。
胸の中にぽっかりと開いた空白が、ただの映像を見ただけで満たされていくような充足感を覚えつつも、同時にそれが決して埋まることのない喪失であることを理解してしまっている虚しさ。
まるで自分が自分でなくなるかのような恐怖を覚える一方で、心の奥底ではそれをあるべき姿だと思ってしまう感覚。
様々な相反する想いが心の中で渦巻く中、キラは無意識のうちに写真を手に取とり――。
「――九嶺さん。そこで一体、なにをしているのかしら?」
ガチャリという音と共に扉が開かれ、キラの意識は矛盾した思考の海から現実へと浮上する。
振り返れば、そこにはティーセットを乗せた、トレーを手にしたナギサの姿があった。
どうやら随分と考え込んでいたようで、気付けば部屋の主である彼女が戻って来ていたことに気付かなかったようだった。
「あ……ごめんなさい。勝手に写真を見ちゃって……」
手にしていた写真を慌てて元の位置に戻し、謝罪の言葉を口にしながら頭を下げるキラだったが――。
「別に謝ることじゃないわよ、それは。私が言いたいのはそうじゃなくて――」
対するナギサの反応はあまり芳しくなく、彼女は眉間にシワを寄せながら首を傾げる。
「どうして泣いているの、九嶺さん? 少し気持ち悪いんだけど」
「えっ……?」
言われて、頬に手を当ててみると――確かにそこは濡れていた。いつの間にか流れ出していた涙によって。
「なんで……私……」
自分の意志に反して溢れ出る涙に困惑しつつ、袖口で目尻を拭うキラ。しかし、一度決壊してしまったダムは再び機能を取り戻すことはなく、次から次に涙が零れ落ちてくる。
何故、自分は涙を流しているのか。その理由さえ分からず、キラは狼惑するばかりであった。
そんな彼女の様子を見かねたナギサは、大きく溜息を吐いて、おもむろにテーブルの方へと向かう。
「まぁ、いいわ。ちょうど紅茶を持ってきたところだし、とりあえず座りましょう。……ほら、早くしなさい」
「……う、うん。ありがとう」
促されるままソファに戻り、向かい合う形で腰掛ける二人。
それから程なくして、ナギサは手慣れた様子で紅茶をカップに注ぐと、ソーサーごとキラの前に置いた。
「どうぞ。冷めないうちに飲んで頂戴」
「……いただきます」
言われるままに、キラは目の前に置かれた紅茶を一口含む。
途端、まるで無くしていたモノをようやく取り戻せたかのような安堵が幸福感がキラの全身を包み込む。
今までで味わったどんな紅茶よりも素晴らしい逸品。爽快かつ滑らか。渋みと甘味が絶妙なバランスを保ち、鼻腔をくすぐる香りが更なる食欲を駆り立てる。
そのあまりの美味さに、キラは無我夢中で飲み干すと、二杯目を注ぎ入れ、再び口に含んで堪能する。
「凄まじい飲みっぷりね、九嶺さん。そんなに急いで飲まなくても、おかわりはあるのだから落ち着いて飲みなさい」
マナーがなっていないわよ、とナギサは注意を促すが、その言葉とは真逆に、キラは怒涛の勢いで紅茶を啜っていた。
「しかし、良かったわ。こんなモノでも元気になってくれたみたいで。あなたのような人に涙は似合わないもの」
「……ふぇ?」
ふと呟かれたナギサの一言に、キラは思わず間抜けな声を上げてしまう。
それはそうだ。何せ今の会話の流れでは、まるで――。
「えへ、えへへへ……。そんな、黒瀬さんってば、私に涙が似合わないだなんて……。もしかして、私に気でもあるの?」
一瞬にして頭の中がピンク一色に染まってしまったキラは、だらしのない笑みを口許に浮かべながら、顔を赤らめる。
先程までの沈鬱としていた感情はどこへやら。幸せオーラ全開となった彼女を前にして、ナギサは呆れたかのように目を細めた。
「ないわよ、そんなもの。大体、私のタイプからはかけ離れているし、そもそもの話として、私は同性に興味はないから」
「……あぅ?」
なんで? と質問をぶつけそうにかかってから、キラは寸前で思い留まった。
理由は特にない。だが、ここで余計なことを口にすれば、また何かしらの地雷を踏み抜きそうな気がした為、賢明にも口に出さぬことにしたのだ。
「それにしても少し意外だったわ。九嶺さんみたいなタイプは人を好きになることはあっても、個人に対して、そういう感情を抱くことはないと思っていたのだけど……変わったこともあるものね」
「…………それはどうだろ、黒瀬さん」
ナギサの言葉に、キラは押し黙る。
――確かにある意味では、的を射ていたからだ。
というのもこれまで、他人に好意を抱いたことはあれど、特定の誰かを特別視したことはなかった。
それは、相手が異性であっても同じこと。
誰に対しても平等に接してきたつもりだったが、それ故に対人関係においてどこかで線を引いている気がするのだ。結果として、キラはどのグループからも距離を置かれてしまう存在となっていた。
けど、それも仕方のないことだ。
誰だって、得体の知れないものを傍に置きたいとは思わないだろうし、ましてそれが人間であれば尚更。
一部のもの好きを除けば、敬遠するのが当然のことだと理解している。
故にこそ。
今の状況に戸惑っている自分がいる。
どうして、自分は泣いていたのか。どうして、この人の前だと身体が言うことを聞いてくれないのか。
そしてなによりも。これまでの生き方を否定しようとしている今の自分が、ただただ恐ろしかった。
「な、なによ、九嶺さん。急にふざけ始めたかと思ったら、今度は真面目な顔でこっちをじっと見つめてきて……言いたいことがあるなら、はっきりと口にしたらどうかしら」
「あ……ううん。なんでもない、考え事をちょっと」
「そう……? なら、いいのだけれど……」
眉間にシワを寄せて怪しげな視線を向けるナギサだったが、すぐに興味を失ったのか、彼女は手元に目を落とすと、財閥令嬢に相応しい優雅に紅茶を飲み干した。
「さて……と。少し休憩できたところで、例の力について教えて貰おうかしら」
ティーカップをテーブルに置くと、ナギサはおもむろに話を切り替えた。
「? 例の力……?」
「とぼけないで。ほら、屋上で言ってたアレについてよ」
「? アレって……? もしかして再生能力のこと……?」
「いや、そっちの力のことじゃなくて……ほら。右手からなんか出るとか言っていた方よ」
「えっ、あー、そっち……?」
そこまで言われて、ようやく合点がいったキラは、右手に視線を落とした。
そこにあるのは、やはり銘も真価も分からぬ剣を呼び出した十字の刻印だ。
今となっては、あの夜に感じた『熱』こそ消え失せてしまっているが、刻印を中心にして全身に走る奇妙な力の流れは未だ健在である。
とはいえ、知覚するのがせいぜいで、それを自在に操ることなど到底不可能。
操ろうと試みたところで、恐らくは下手に暴発して、自分どころか周囲にまで被害が及ぶ可能性の方が高い。
「……」
無言のまま、キラはその手をそっと握りしめる。
……案の定、手の中に感じるのは確かな違和感。
全身を巡っている血液などといったものとは違う、重く粘ついた何かが血管の中を流れているような、そんな感覚だ。
使徒が扱う『力』に類するものの線も考えたが、いかんせん参考となる文献が手元にない為、判断のつけようがない。
しかし、仮にこれがその類いのものなのだとしたら、何故自分に宿ったのか。
いや、そもそもこれは本当に自分の一部なのか。
いくら考えても答えは出ず、結局のところ、キラにはお手上げであった。
「それで、どうなの?」
「う~ん……。今のところは、全然……かな。ファンタジーで言うところの魔力みたいな何かが体内にあるのは分かるんだけど、これを使いこなせるかってなると話がね……」
そう。問題はここだ。
現状における最大の問題点は、制御できるか否かという点に集約される。
いくら最強の力を持っていたとしても、その力を使いこなすことができないのであれば、意味がない。
武器はそこにあるから脅威になるではなく、担い手が居るからこそ脅威になり得るのだ。
「ふぅん……。ちなみにだけど、それを使ってみようとは思ったりしないわけ?」
「思ったよ。けど、今の私が使おうとしても上手くいく気がしなくて……だから、今はとりあえず保留中」
「そう。まぁ、確かにいきなりそんな力を使えと言われても困るわよね……」
苦笑いを浮かべながら言って、ナギサはおもむろに席を立つと、そのままキラの右隣へと移動した。
「? 黒瀬さん……?」
「いいから、ちょっと動かないで」
「う、うん?」
突然のことに戸惑いながらも、キラは言われた通りにその場で待機する。
すると、ナギサは何を考えているのか、キラが着ている制服のブレザーに手を掛けると、慣れた手つきでボタンを外し始めた。
「ちょ……黒瀬さん!?」
「はい、両手を高く掲げて、ばんざーい」
慌てて制止しようとするキラだったが、思わず両の手を挙げてしまい、瞬く間にブレザーを剥ぎ取られてしまう。
次いで、ナギサは露わになったワイシャツへと手を掛けると、こちらも躊躇なく前を開けさせた。
「な、ななな何してるのっ、黒瀬さん! 同性同士でこんなこと……!」
「なにしてるのって、そりゃあ私なりのやり方で調べようと――」
「へ、変態ッ!!」
「なんで!? あなたが力を扱えないっていうから、こうして手伝ってあげようとしているんじゃない……!!」
顔を真っ赤にしながら頬を膨らませるキラに、ナギサもまた頬を赤く染めて反論する。
「そういう問題じゃないよ!! 手伝うってだけなら普通に右手だけをみれば良い問題だと思うし……それになにより、黒瀬さんにありのままの姿をみせるのは、まだ少し気が早いというか何というか……」
「なんでそこで口籠るのよ! とにかく、今はあなたの力について調べる方が先決! 対応が遅れたりして、一大事に繋がったら元も子もないでしょう!?」
「うぐ……」
痛いところを突かれて、キラは押し黙った。
実際、彼女の言う通りだ。今はまだ大丈夫かもしれないが、いつあの殺人鬼が襲ってくるとも限らない以上、少しでも自分が抱えている爆弾を早く解消しておきたいというのがキラの本音だった。
けど、それとこれとでは話も違ってくるわけで……。
「ほら、いい加減観念なさい。このままだと、全身から変なのが勝手に生え始めるかもしれないわよ」
「う、それは少し嫌かも……というか、調べると言っても、どうやって調べるつもりなの……?」
「やり方なんて聞いてどうするつもりよ。私だって、好きでやってるわけじゃないんだから、つべこべ言わずに我慢しなさい」
「……分かったよ。その代わり、あんまりじろじろ見ないでね」
「分かってる。なるべく善処するつもりよ」
「……絶対だよ?」
念を押すように呟いて、キラはそっと目を閉じる。
直後、ナギサの手が、キラの胸に添えられた。
「……っ」
くすぐったさに思わず息を飲む。
だが、それだけだ。それ以上の事は何も起こらない。
心臓の鼓動を確かめるかのように、静かに触れる手からは、彼女の体温が伝わってくるばかりで、それ以外に特別なものは感じられなかった。
時折、ナギサの口からぶつぶつとよくわからない単語が漏れるが、それがどのような意味を持っているのかまでは分からない。
そうしてしばらく胸に触れた後、彼女はそっと手を離し、
「次は右手ね。少し貸してもらうわよ」
言って、キラの右手を手に取ると、その甲に刻まれた刻印に指を這わせ、ゆっくりとなぞっていく。
「ん……」
「……どう? 何か変化はあるかしら」
「う~ん……特に何も感じないかな。なんかむず痒い感じはするけど……」
「……そう。まぁ、この程度で全てが分かってしまうなら苦労はしないわよね」
もう目を開けてもいいわよ、と促され、キラは恐る恐る瞼を開く。
すると、そこにはやはり、まじまじと刻印を見つめながら、首を傾げているナギサの姿があった。
「……それでそっちはどう? そっちからみて何か分かりそうなことはあった?」
「いえ、全然。専用の機械で精密に調べられてないってのもあるんだろうけど……あなたの力に関して分かることと言えば、分かることがなにもないことぐらいね」
「やっぱり……」
がっくりとうなだれながら、キラは小さくため息をつく。
……正直なところ、ここまで進展がないとは思っていなかった。
だが、考えてみればそれも当然の話だ。
何せ、今の自分もナギサもただの女子高生。使徒の力だなんだといった類いのものに精通しているはずがないのだ。
そんな人間が、いきなり未知の力を解明しようとしても、上手くいくわけがなかった。
とはいえ、それでも期待してしまうのが人の性というもの。だからこそ、この結果には落胆せざるを得なかったのだ。
「まぁ、そう気を落とさないで、九嶺さん。分からなかったら、分からなかったでまた別の方法を探せばいいだけの話だから」
「……うん、そうだよね。ありがとう、黒瀬さん」
なんだかんだで慰めてくれるナギサに、弱々しく微笑み返しつつも、キラは再び右手の甲に刻まれた十字の紋様へと視線を落とした。
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