Lost

 ――逃げ切れた……よね?


 後ろを振り返ることなく、全力疾走すること数分。

 どこをどう走ったのか、当のキラ本人ですら上手く把握できていない。

 けれども、これだけは分かる。

 ここは校舎の中だと。

 恐らくは気が動転していて、街へと逃げるつもりが、道を折り返してしまったのだろう。


「……なにやってんだろ。私……」


 ハァ、ハァ、と肩で息をしながら、壁に背中を預けてズルズルと腰を落とす。


 ……疲れた。


 体力にはそれなりに自信があったのだが、今はもう指一本たりとも動かしたくない気分だった。


「……」


 それにしても、とキラは先ほどの出来事を思い返す。


 本当にとんでもないものを目にしてしまった。

 あんなもの、見たことがない。

 あんなにも凄まじい戦いは、生まれて初めてだった。


 ――いや、違う。


 そうじゃないと首を横に振る。

 初めてなんかじゃなかった。

 あれは、どこかで一度経験したことがある。

 それもだいぶ昔に。

 いつだったか思い出せないけど、確かにあったはずだ。

 記憶の奥底、魂の奥深くにまで刻まれているはずなのに……。


 どうしても、今はそれが思い出せない。


「あーもう! なんなのこれ!」


 苛立ち紛れに頭をかく。

 自分の考えてることがよく分からない。

 自分自身のことなのに、何も知らない。

 大切な部分だけが刳り貫かれ、その代わりにと言わんばかりに、得体の知れない何かが詰め込まれているような感覚。

 まるで、中身だけそっくりそのまま別のものに入れ替えられてしまったかのような違和感。

 そして、それに対する不快感。嫌悪感。

 それら全てが、キラの心の中で渦を巻き、激しく揺さぶりをかけ続ける。

 けれども、それをどれだけ考えたところで答えが出ることはありえない。

 そのことを知っているからこそ、余計に腹が立つ。


「……まぁ、いっか。こんなことで苛立っても時間の無駄だし、今はとにかくこの状況を切り抜けないと」


 努めてクールに深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。

 あの二人が口封じのため追ってくるかもしれないし、何よりこの場所は隠れるのにもあまりよろしくない。

 もちろん、この学園の中でずっと逃げ回るというのも、もってのほかだ。

 ……確かに、学園の倉庫の中には『誰でも扱うことの出来る』魔剣があるわけなのだが、それではあの剣技を牽制するのに、些かスペック不足を感じるし、倉庫の鍵は二人のどちらかが押さえているのに違いない。


 そう考えると、やはりこのままここでじっとしているのはあまり賢明とは言えない。


 ――よし。


 方針が決まったら即行動。


 いつまでもここにいても仕方がないと、キラは鉛と化した身体に鞭を打って、立ち上がる。


「えっと、まずはここから移動しないとだよね。それから……あー、でもその前に」


 ポケットから携帯を取り出し、画面を確認する。


 時刻は既に夜の七時を回っていた。


「……うん。やっぱり」


 メールボックスを開くと、そこには数十件の新着メッセージが表示されていた。


 差出人は当然の如く、養母と坂月アヤメだ。


 どちらもキラの身を案じる内容であり、今どこにいるのかといった類の質問が、数行に渡って長々と書き込まれていた。


「こんな状況だけど返信くらいはしておかなきゃ」


 ぽちぽちと文章を打ち込む。


 今現在、自分は学園にいることだけを記し、送信ボタンを押す。


「これでよし、と」


 誰かが聞いてるわけでもないがぽつりと呟き、キラは携帯をポケットの中にしまいこみ――


「何がよしなんだ?」

「!?」


 いきなり耳元で囁かれた声に驚き、思わずその場から飛び退く。


 慌てて、先ほどまで立っていた場所を見てみれば、そこには、


「――ほう。思ってたより、なかなか良い反応するではないか」


 真紅の外套を纏い、狐の仮面で素顔を隠した誰かが、気怠げそうに紅蓮に染まった刀を肩に担いで、佇んでいた。

 身長や声音、身体の膨らみ具合から察するに女性であることは間違いなさそうだった。

 が、しかし。


「……誰ですか?  あなた」


 相手に警戒心を悟られないよう、キラは僅かに重心を落すだけにとどめながら、声を上げる。


 すると、彼女は「あー……」と面倒くさげな声を上げて、ボリボリと頭を掻き、


「誰と言われてもな。私自身、自分が何者かなんかよく分かってないというか、何というか……。  では、逆に聞いてみるが、君にとって私はどう見えている?」


 なんとも回答に困る質問が飛んできて、キラは逡巡する。


「……えっと」


 正直に言っていいものなのか、否か。

 少し考え込み、結局キラは、


「……怪しい人ですかね。少なくとも、わたしにとっては」

「……そうか、なるほど」


 心外だと言わんばかりにわざとらしく肩をすくめる彼女だったが、次の瞬間にはケラケラと笑い出し、


「しかしまぁ、その認識は概ね間違ってないかもしれないな。実のところ、私は現在進行形で巷で騒がれている殺人鬼ってヤツであるわけだしな」

「さ、さつじんき……って、まさか」

「ああ、そうだとも。この通り、な」


 女が冷たく機械的な声で答えると同時に、ザシュッ、と。

 まるで肉を裂いたかのような不快音が、廊下に響き渡り、九嶺キラの体内でなにかが爆発した。


 次の瞬間。


 稲妻の如き激痛が全身を走り抜け、キラの思考にどうしようもない空白が生じる。


 ――え?


 突然の出来事に、理解が追いつかない。

 視界の端に映る自身の胸に突き刺さる、真っ赤なソレが何であったかさえも、今の彼女にはよく分からない。

 ただ一つだけ分かることがあるとしたら、


 ――熱い。


 この肉体を支配していく圧倒的なまでの熱だった。


 ――これ、七年前と同じ……。


 いつしか、足に力が入らなくなる。

 身体を支えていられなくなり、その場に膝から崩れ落ちる。

 そして、そのまま床に倒れ込む。


 ――なんだろう。


 自分の身体が床にぶつかる感触は確かにあるはずなのに、痛みは一切感じない。

 それどころか、身体の感覚そのものが希薄になっているような気がしてならない。

 あるのはただひたすらに、喉を掻きむしりたくなってしまうような灼熱だけ。


「――コホッ!」


 息をしようと口を開いたところで、喉の奥から大きな血の塊が吐き出される。

 咳と共に、がばっ、と大量の紅色の液体が視界を赤で染めた。

 そこでようやく、九嶺キラは自分が何をされたのかを理解した。


 ――貫かれたんだ。


 それも、心臓を。


 その事実に気づいたところで、キラは改めて、眼前の女を見やる。

 そこには先ほどと変わらず、紅蓮の刀を手にしたまま佇んでいる彼女の姿があった。

 キラの視線に気づくと、女はチッと舌打ちし、


「――くそ……――かり増やしやが――……。まぁ……。――はこの――にして……」


 苛立たしげに何かを呟いていたが、今のキラには聞き取ることなど出来るわけもなく。

 ぶつ、ぶつ……と連続性を失い途切れがちな意識の中で、彼女はぼんやりと虚空を眺めていた。


 ――今から死ぬんだ。


 漠然とだが、それだけは分かった。

 不思議と恐怖はなかった。

 何故なら、既に一度だけではあるが死を経験していたからだ。

 あの時の記憶は既に、おぼろげにしか残っていないけれど、それでも、死の間際に抱いた感情だけは今でもはっきりと覚えている。


 それは、言いようのない喪失感と諦観。

 自分が自分で無くなっていくような感覚。

 それらはきっと、誰にだって経験することなど出来やしない。

 少なくとも、今こうして死に瀕している自分以外には――


 ――嫌だ。


 このまま何も出来ずに終わってしまうのは、自分の命を救ってくれたみんなへの冒涜になる。否定になる。


 ――まだ、生きなきゃ。


 生きて、自分の命を救う為に死んだ誰かの無念を晴らす。それが、唯一残された存在理由なのだから。


 ……けれども。


 現実というのは、どこまでも非情だ。

 いくら努力を積み重ね、人々の理想に従順であろうとしても、いまできることといったら、首を動かすことぐらいで。

 そんな微々たる抵抗では、到底、運命を変えるなんてことは不可能で。

 この場から立ち去ろうとする女の背中を、見つめてることしかできなくて。

 痛くて。悔しくて。辛くて。苦しくて。悲しくて。七年前から何一つ変わることのできなかった無力な自分が、そこにはいて。


「――――」


 夜の廊下に静寂が戻る。それはまるで、嵐の後の凪のように。

 仮面の女の姿はもうどこにも見えず、代わりに見えるのは闇夜に浮かぶ下弦の月のみ。


「……」


 一人きりになった九嶺キラは、ゆっくりと瞼を閉じようとした……その瞬間のことだった。


「……?」


 突如として、耳が異音を捉えた。

 カツン、という硬い靴底が床を踏み締めるかのような音だった。


「……」


 ――誰だろう?


 薄れゆく意識の中、キラは音のする方へと意識を向ける。

 それは、階段をのぼってくる何者かが発する足音だった。

 ――こんな時間に一体誰が?  疑問に思うも束の間、足音はどんどん間隔を縮めながら近づいてきて、やがてキラのすぐ傍で止まり――


「……――しっかりしなさい!」


 心地のよい調べの如き声音が、キラの鼓膜を震わせる。

 どこか懐かしさを覚える声だった。


「――さん。――さん!」


 ――誰かが自分の名前を呼んでるような気がして、キラは重たい目蓋をなんとか持ち上げ、


 ――息を呑む。


「――ぁ」


 窓から差し込む銀色の月光が、目の前にいる人物を照らし出す。

 ……美しい少女だった。

 肩の辺りまで伸びた艶やかな黒髪に、端正な顔立ち。

 まるで精巧な人形を思わせる容姿の少女が、キラの手を両手で包むように握って、懸命に名前を呼び続けている。


 だが。


「――」


 当然、今のキラには、彼女の想いに応えるだけの力が残されているはずもなく。


 心配させまいと。


 笑みをつくって。


 ――ごめんね。


 声にならない声を振り絞って、再びそっと瞼を閉じる。










 ――斯くして。


 九嶺キラという名の少女は、この時、この瞬間をもって、この世界から消失した。

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