もう一度
キラが家に着いた頃には、十時を過ぎていた。
「……」
玄関を開けても、出迎えてくれる人はいなかった。
靴を脱いでリビングに入ると、テーブルの上にメモ用紙が置いてあるのを見つけて、それを手に取る。
紙に書かれていたのは、今晩は仕事の方で急用が入ってしまったので、出かけてくるといった趣旨の内容だ。
どうやら、キラの養母・九嶺サツキは急な呼び出しを受けて外出してしまったらしい。
「……ふう」
ソファに腰掛けて一息つく。
サツキは身寄りのないキラを拾ったその時から、医師という職業柄か、何かと忙しい日々を送っていた。
そしてそれは、ここ最近になってより顕著になっていた。
理由こそ分からないが、最近は特に多忙を極めており、帰ってきていたとしても呼び出しがあればすぐに家を飛び出していく有様だ。
だから、今日みたいに家で一人きりになるのは、別段珍しいことでもなかった。
――でも、なんだろう?
最近のサツキの様子はどこかおかしい気がする。
ふとした瞬間に見せる、何かを諦めたような表情。
それは、普段のサツキからは考えられないほど弱々しく、脆いものだった。
まるで、いつ崩れ落ちてしまうかもわからない砂上の楼閣のような危うさを孕んでおり、見ているこちらまで不安になってしまう。
「……はあ」
溜息をつく。
……もしかしたら、自分はとんでもない過ちを犯してしまったのではないだろうか?
それこそ、サツキが猛反対していた魔剣士学園への入学を強行した時点で、既に取り返しのつかない失敗を犯してしまっていたのかもしれない。
「――」
……だが、それでも。
後悔だけはしたくない。
たとえ、どれだけ愚かな選択であったとしても、自分は理想を貫くと決めたのだ。
その結果としてこの身に何が降りかかろうとも。
「……なんか、嫌な汗かいちゃったな。お風呂にでも入ろ」
疲れた身体に鞭を打って、キラは立ち上がる。
そのまま脱衣室に向かい、制服のボタンに手をかけ、脱ぎすてる。
それから浴室に入り、シャワーのコックを捻って湯の温度を調整していると、不意に鏡の中の自分と目が合った。
「……」
そこに映っていたのは、少女の姿だった。
白く透き通った肌に、それなりに筋肉のついた肢体。
背中の辺りまで伸びた桃色の髪はシャワーに濡れ、しっとりと艶めいている。
どこかあどけなさを残した、その顔は紛れもなく九嶺キラのものだ。
だが、彼女の身体にはもう一つ、忘れてはならないモノがある。
――そう。それは死から一度、生還したことの証である、胸に刻まれた痣だ。
そして、それは同時に名も知らぬ誰かから命をもらったことの証明でもあり――
「……って、あれ? 何だろう? なんか大きくなってる?」
胸の膨らみが、ではない。
左胸に刻まれた痣が、朝の着替えで目にした時よりも、僅かにだが広がっているように見えた。
それも、まるで何かの紋様を模っていくかのように。
――これって、もしかして……。
「いや、そんなまさか、ね」
呟いて、自分の脳裏に浮かんできた可能性を否定する。
確かに、キラの身体には本人でさえ説明不可能な超常的すぎる再生能力が宿っているが、それとこの変化との因果関係は皆無に等しいと考えていいだろう。
普通に考えて、痣の形状が変わったからと言って、致命傷も治るようになるという道理はないからだ。
それに、その理論だと右手の痣の方がよっぽど怪しい。
「……うん、気のせい、だよね」
納得して、キラは小さく首を振る。
今はただ疲れていて、些細なことに過敏になっているだけだ。
きっと、明日にでもなればいつも通りの日常に戻っていることだろう。
そう考えたキラはいつも通り、疲れを落とすため湯船に浸かることとした。
◆◇◆
風呂から上がった後、寝間着に着替えたキラは自室に戻ると、ベッドの上で横になっていた。
「はぁ〜」
深く息を吐く。
まだ少し湿っている髪をタオルで拭きながら、ぼんやりと天井を見上げ、
「……アレもそうだったけど、なんであの人たち、あんなところで殺し合いなんかをしていたんだろう?」
ふと、校庭での光景を思い出す。
……仮面の女と黒髪の少女。
両者ともに魔剣と思しきものを手にして、斬り合ってはいたが、何故あのような場所で戦わなければならなかったのか。
何故、あれほどの戦いになるまでに至ったのか。
どうにも疑問が尽きない出来事が多すぎる。
「…………」
数分ほど考えて、今のキラに判ったのは、自分の手に負える問題ではないということだけだった。
「……こんな時、お母さんとかアヤメちゃんみたいな誰か信頼できる人が側に居てくれたら……」
夜の学校で受けた恐怖があまりにも強烈すぎたからか、あまり口にすべきではない弱音をつい漏らしてしまう。
そんな自分に苛立ちを覚えて、キラは首を横に振った。
「――私のばか。判らないことだらけでも、みんなのために頑張ると決めているじゃん」
……だから、弱音を吐くのはそのあとだ。
まずは、自分にできることとできないことを見極め、そこから関わるか関わらないか――他人を巻き込むか巻き込まないか、それを選択しなくては――
「――――!?」
そこまで考えが至った瞬間、キラの思考が停止した。
理由は単純。
唐突に部屋の電灯が消えたからだ。
「えっ? 停電? でも、どうして急に――」
呟いて、キラは自らの迂闊さを呪った。
そんな筈はない。
このタイミング、あれほどまでに異常な出来事があった直後に、普通のことが起こるわけがない。
現に、窓の外の様子を伺ってみれば街は人工の光で彩られており、とてもではないが電気の供給が途絶えた、というわけではないことは明白だった。
「……ッ!」
悪寒が背筋を巡る。
咄嵯の判断で、キラは壁に飾られていた木剣を手に取り、そのまま構えを取る。
「……、」
家の中は静まりかえっている。
だが、それでも伝わってくるのだ。
物音一つしない闇の中、夜の学園で感じた殺意が、少しずつ、じりじりと。
「…………」
ごくり、と喉が鳴る。
ハァ、はぁ、と息が荒ぶる。
焦点が定まらない。
腕がカタカタ、と震える。
……大丈夫。落ち着いて。
こういう時のために剣の腕を磨いてきたんだ。どんな相手でも対処できるように、鍛錬を積んできたんだ。
……いける。戦える。勝てる。
自らを鼓舞し、精神を研ぎ澄ませ――
「――――!」
来るなら来いの精神で身構えた瞬間、ゾクン、とキラの背筋が総毛立つ。
いつの間にやってきていたのか。
わずか一瞬のうちに、部屋の壁が円形に切り抜かれて崩れ落ち、ぽっかりと空いたその開口部から何かが一直線に少女へと襲いかかった。
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