刃を振るう理由
意味が分からなかった。言葉の意味が分からなかった。
体力の大半を使い果たし、遠目から二人の様子を伺うナギサは、疲弊のあまり幻聴でも聞いたのかと自分を疑った。
だって、ありえない。ありえていいはずがない。
母親が娘の命を奪おうとするなんて、そんな残酷な現実など、あってはならないのだから。
他の何物でもない、黒瀬ナギサの『常識』が目の前で繰り広げられている光景を否定していた。
「な、に……それ……」
ぽつり、とキラの口から言葉が漏れ、その手に握られた灰色の剣が、光の粒となって崩れ去る。
茫然自失。まさしく、そうとしか説明できない状態に陥ったキラは、焦点の合わない瞳を泳がせながら、震える唇を動かした。
「どういうこと、なの……?」
「見ての通りだ。私は君に、嘘をついていたんだよ」
サツキは粛々と告げると、自虐的に笑った。
「そうじゃない! 私が訊きたいのは、そういうんじゃなくって……!」
「ああ、分かっているさ。君が訊きたいのは私こと九嶺サツキが、どうして人を殺すような……ましてや君の命を狙うような真似をしたのか、ってことだろう?」
「……」
こくりと首を縦に振ってみせるキラに、サツキはいとも簡単に自らの過ちを告白した。
「理由は実に単純だよ。これは、ある種の後片付けなんだ。自分で蒔いた悲劇の種が芽を出す前に、この手で摘み取る。ただそれだけのことだ」
「なに、それ。言ってる意味がさっぱり分からないよ、お母さん……っ」
震える声で訴えるキラに、サツキは首を横に振った。
「分からないならそれでいい。君はまだ子供なんだから。君みたいな純粋な子は、何も知らないまま、この手によって殺されるべきなんだ」
「だから、はぐらかさないでよっ!!」
痺れを切らしたキラが、サツキに向かって叫ぶ。だが、激昂する彼女を前にしても、サツキは冷徹だった。
「誤魔化してなんていないさ。ただ、説明したところで君には理解できないし、仮に理解できたとしても、君は君自身に絶望するだけだ」
「私が私自身に絶望する……?」
「ああ。そうだとも」
サツキはその場で深く息を吸い、黙って様子を伺うナギサを一瞥してから、言葉を続けた。
「君は本来、七年前の一件で死ぬはずだったんだ。次々と殺されていった東京の人々と同じようにな。……だが、そうはならなかった。それが何故かわかるか?」
「……それは確か、心臓を移植してもらったからだったはずじゃ……」
「違うな。ただそれだけの理由では、あの厄災で助かるはずのなかった君がこうして生きていることの説明にならない。本当に重要なのは、君がどうして我々人類には、持ち得ないはずの力を扱えるか、なんだ」
「……あんた、まさか……」
その発言によって、ナギサは気がつく。
サツキが何を言いたいのか、これからキラに何を告げるつもりなのか。
そして、九嶺キラに宿った異能の正体に。
気がついて、全身がおぞましさに震えた。
「そうさ、そのまさかだよ、黒瀬ナギサ」
唖然とするキラから視線を外し、サツキはナギサを睨め付けた。
「君だって、心当たりはあるんだろう? 彼女の力の正体に」
「……」
サツキの指摘に、ナギサは沈黙する。
……確かにそうだった。昨日、初めて灰色の剣を前にした時の違和感。その違和感を解消する、ある可能性に気がついておきながら、そんなことはありえないと、目を逸らしていた。
「何故、彼女は何もないところから剣を生成することができるのか」
……だって、それは。
視界がぐらりと揺らぐ。
「何故、彼女は死の運命から逃れられることができたのか」
……だって、それは。
音が遠のいていく。
「何故、彼女は今もこうして生きているのか」
……だって、それは。
自分がどこにいるか、分からなくなる。
「その答えはただひとつ」
そして、殺人鬼は無情にも告げる。淡々と与えられたことのみをこなす機械のように。
「私達がその娘の中に、使徒の心臓を埋め込んだからだ」
二人は、息を忘れた。――否定したかった現実を叩きつけられたことで。
「故に殺す。その娘が人間性をまだ保っていられる内に。私達の為そうとすることを最善の選択だと信じて、娘の命を終わらせる。それが私の、今日まで生きてきた意味であり……贖罪なんだ」
サツキの懺悔にも似た独白に、キラは何度も「イヤだ」と首を横に振る。
「イヤだ、イヤだよ、お母さんっ! 私、こんなところで死にたくないっ! あの焼け野原で死んでいった人達にまだ何も報いてあげることができてないのにっ!!」
「……っ、」
悲痛な叫びに、サツキは息を詰まらせる。
けれど、それも一瞬。一度、目をきつく閉じ、開いた時には既に覚悟を決めていた。
「……そうか。なら、その夢に焦がれて、本来あるべき無へと帰るがいい」
平坦な声で告げながら、殺人鬼は無機質にキラの下へと一歩ずつ歩み寄っていく。
クソ……、とナギサは心の中で悪態をついた。
本当なら今すぐにでもあの場へ飛び出していって、殺人鬼の凶刃からキラを守らなきゃなのに。
なのに、大技を繰り出した反動が未だに残っていて、身体が上手く動かない。
肝心な時に限って、頼りない自分自身が腹立たしくて、ナギサは唇を嚙みしめた。鉄の味が舌に広がろうが構わない。この程度の痛み、後でいくらでも受けてやる。
だから……っ!
――せめて今この瞬間ぐらいは、動きなさいよ、私の身体……っ!!
見えない糸によって雁字搦めにされたような身体に、ナギサは必死に鞭を打ち、黒い剣を杖にして立ち上がる。
その瞬間、世界が歪んだ。
「……っ、」
頭痛、目眩、耳鳴り、吐き気が一気に押し寄せる。視界が白みがかったかと思えば、すぐに鮮明になる。平衡感覚はぐちゃぐちゃで、少しでも気を抜けば意識が手放されてしまいそうだった。
「う、……く、ぅ」
……でも、それでもナギサは歯を食いしばって、一歩を踏み込んだ。
サツキが片眉を上げて、こちらに意識を向けるよりも先に、次の一歩に繋げる。
「ぁ、ああああああ……っ!!」
渾身の力を込めて、さらにもう一歩。
……傷つくことを恐れるな。この程度の痛みなど、己の信念を貫き通すためならば甘んじて受け入れられる……ッ!!
「……ほう、あの出力の奇跡を使ってもなお、まだ動くか。並の精神力ではないな」
サツキが静かに吐き捨て、迫りくるナギサへと刀を構えながら、肉薄する。
「だが、それがどうした? その疲弊しきった身体で何ができる? まさか、この私を止められるとでも?」
「……関係、ないわ……」
嘲りの言葉と共に振るわれた斬撃を、ナギサは咄嗟に黒い剣で受け止め、鍔迫り合いの状況にもつれ込む。
ギリギリと迫ってくる赤い刀は、女の細腕から繰り出されているとは到底思えない程に強力で、少しでも気を抜けば一瞬で押し切られてしまいそうだった。
ぐっ、と両腕に意識を集中させながら、ナギサは言葉を続けた。
「勝てるかどうかなんかは、関係ない……。私は、いつだって、無敗の……絶対者……! 負けるはずが、ないのだから……ッ!」
「……ふん、減らず口を」
サツキが鼻で笑いながら、ナギサを黒い剣ごと弾いて、首筋めがけて刀を薙いだ。
咄嗟にバックステップを踏みながら、身体を捻って回避するが、完全に躱すことはできずに頬が薄く切れて血が滴る。
「ならば、試してやろう。その虚勢がどこまで続くかを」
「やれるものなら、やってみなさい……っ」
再び、互いの刃がぶつかり合う。
ナギサは荒れ狂う嵐のような剣閃を次々と躱し、剣で受け止めて凌いでいく。
二人の戦いを傍観するキラは、もう叫ぶことすら出来ずに呆然としていた。
「……」
あまりに現実味のない光景。理解が追いつかない状況に、思考は凍てついて停止寸前だった。
だって、誰よりも優しいはずの養母が……殺人鬼と化して自分の手でキラを殺そうとしているのだから。
知らない内に自分の身体に使徒の一部を移植されていたこともそうだが、本当にキラが驚いたのはサツキが自分を殺そうとしていることの方だった。
……どうして、お母さんが。
……どうして、私なんかが。
疑問と困惑が頭の中で渦を巻く。
思考は上手くまとまらない。考えても考えても、頭の中を埋め尽くしていくのは、なぜの二文字だけだった。
ふとキラは思い出す。
七年前の地獄を。
いつだって、キラの脳裏にはあの光景がこびりついて離れなかった。
響き渡る断末魔の数々と、焼け野原と化した東京の姿。
頭蓋をぐちゃぐちゃに潰され、腹綿を引きずり出され、手足をもがれた、かつて人間だったもの。
……およそ人の死に方ではない、凄惨な光景。
そんな地獄の中をキラは、たった一人で悲鳴を出すどころか、涙一つ溢すことなく、ぷすぷすと燻る残り火の上を素足で歩き続けた。
……絶望という言葉の意味を、幼いながらに初めて理解したのがその時だった。
……そして、今。
――また、私は……。
七年前と全く同じ感情が、キラの心を支配する。
失望と諦観、自分には何も出来ないのだと思い知らされる感覚。
どうしようもない無力感に苛まれながら、キラは目の前で繰り広げられる二人の死闘を、ただ眺めることしか出来なかった。
「ぐっ……!」
何度、刀と剣がぶつかり合っただろうか。
とうに両腕に感覚はなく、剣を握ることさえ、やっとの状態だった。
対して、サツキは息一つ乱さず刀を振るい続ける。
力、技、経験。刃が振るわれる度に、そのどれもが向こうの方が上回っていることを思い知らされる。
そもそも、ナギサは本当の意味での殺し合いというものを、あまり経験したことがない。以前に、戦いにおける最低限の命の守り方を教えてもらったことはあるが、あくまで護身術の延長線上であり、命を奪い合う為の技術ではない。
……だが、ナギサは掴み始めていた。
命を賭けた死闘の最中。戦いにおける生と死の境界線を。
集中しろ。頭を回せ。僅かな隙を見逃すな。勝機を見いだせ……!
疲労で消え入りそうになる思考に、喝を入れながら、サツキの一挙手一投足に意識を尖らせる。
「……」
殺意の込められた一閃を、ナギサは後ろに全身を傾けて回避。同時に、すれ違うようにして相手の腹めがけて横薙ぎに剣を振るう。
「っ、」
サツキは迫りくる刃を返す刀で軌道を逸らし、バックステップで距離を取った。
「ふぅ……」
ナギサは息を整えつつ、思考を巡らせる。
……これまでの戦いでわかったことが一つあった。
サツキの剣には、揺らぎが見える。
こうして剣を交えてる以上、殺すつもりがないというわけではないだろうが、彼女の剣閃にはどうも違和感があるのだ。
……言ってしまうならば、そう。刀が身体を捉える寸前、勢いが僅かに減衰しているような感覚。
常人ならば、おおよそ気が付くことすらできないであろう微細なズレだが、戦いにおいては大きなアドバンテージになる。
これを、迷いや葛藤、あるいは躊躇い故のものだと仮定するのならば、勝ち目はまだ十分にあると、ナギサは直感的に判断した。
「……にしても、しぶといな」
再び構えを取り直したサツキが、溜め息混じりに言葉を溢した。
「いい加減、諦めろ。これ以上続ければ、いかに君とて命を落とすことになるぞ?」
「あら、思ってたよりも優しいのね。……それとも、余裕の表れかしら?」
「まさか。私としては、無駄な殺しは避けたいだけさ。そもそもの話として、君には命を張ってまで、あの娘を守る『義理』も『責任』もないはずだろう? ……なのに、何故?」
……義理、責任。その言葉に一瞬だけ逡巡しかけてしまうが、すぐに頭を振る。
「……じゃあ、逆に聞くけれど。あんたは息をするのに、いちいち理由が必要なわけ? 人を守るのに理由なんか、必要ない。私はただ、目の前で失われようとしている命を見過ごせないだけよ」
「……なるほど。実に青臭い理想論だが、嫌いではない。その愚直さは、実に私好みだ」
「……褒めても何もでないわよ?」
「いや、褒めたつもりなんかないが?」
ほんの一瞬だけ緩みそうになった空気を引き締め直して、二人は静かに睨み合う。
……距離は僅か五メートル。数歩踏み込めば、互いの剣が届く範囲だ。
ナギサは、静かに呼吸を整える。
これこそが最後の攻防になるだろうという確信があった。おそらく、次が決着となるだろうことも。
だから、集中力を今まで以上に、極限まで高めていく。呼吸は浅く、瞬きはせず、耳を澄ませて、目の前に佇む敵に意識を注ぎ込む。
時間の流れが酷く緩慢になっていく中、ゆっくりとサツキの剣先が動いたのが見えた。
その動きに誘われるようにナギサも動き出す。互いの距離は瞬く間に縮まり……同時に刃を薙ぎ払う。
――剣と刀が接触し、甲高い音が鳴り響く。
直後、黒の刃が赤い刀を強く弾いていた。
「っ……!」
サツキが僅かに体勢を崩しかけたその隙を逃さず、ナギサは彼女の脇腹に剣の腹を思いっきりぶちかます。
「が、は……ッ!?」
サツキの口から苦悶の声が漏れる。骨の軋む嫌な音がナギサの耳にも届いてくるようだった。
……だが、ナギサは攻めの手を緩めない。
よろめいたサツキの間合いに一気に踏み込み、ナギサは連撃を繰り出した。その勢いはまさに弾丸の如く。
斬撃ではなく打撃を優先させた剣捌きは、もはや剣術というよりも喧嘩殺法に近しいものだったが、相手を戦闘不能に追い込むには十分過ぎるほどの破壊力を秘めていた。
「が、く……っ」
マシンガンのような勢いで次々と叩き込まれる衝撃は、骨を軋ませ、内臓を震わせ、意識すらをも刈り取ろうとする。
しかし、それでもサツキは倒れない。
執念と呼べる何かに衝き動かされるかのように、奥歯を噛み砕き、二本の足で立っていた。
「これで、最後……ッ!」
そして、ナギサがとどめの一撃を繰り出そうとした、その時。
「――――」
「……え?」
唐突に零れた微かな呟きがナギサの耳朶を打った。
あまりにも小さく、弱々しい声。
それこそ、目の前の強敵から発せられたものだとは思えぬほどの。
……気がつけば、ナギサは刃を止めていた。
戦いは終わっていないはずなのに、叩き伏すべき敵を目の前にしているはずなのに。
なのに、身体が動いてくれない。
恐怖、あるいは迷いか。……いや、違う。これは、もっと別の何かだ。
身体を這いずり回り犯し尽くすかのような、得体の知れぬ嫌悪感が、思考を埋め尽くしていく。
……そうして、気が付いた時には。
サツキが刀を高々と掲げていた。
「あ、」
ナギサの脳裏に敗北の二文字が浮かび上がる。
今から防ごうにも間に合わない。かといって回避しようにも、間合いを詰めすぎている。
高々と掲げられた刃が赤の焔を纏いながら、ナギサの頭上へと落下する。
回避も防御も不可能。最早、今の黒瀬ナギサに出来ることなど何一つない。
――ここで終わるのか。私はまた負けてしまうのか。
「……っ」
刃が迫る中、彼女は胸の内から溢れ出してくる諦観に目を逸らそうとして、ナギサは瞼をきつく閉ざした。
次の瞬間にはきっと、自分は殺されているだろうとわかっていながら。
ザシュッと、肉を切り焦がす音が耳に届く。
……だが、いつまで経っても肝心の痛みは訪れない。
代わりに訪れたのは、ドサッという何かが倒れる音だった。
「え……?」
恐る恐る瞼を開くナギサが目にしたのは、
「……九嶺、さん……?」
肩から脇腹の辺りにかけて、大きく引き裂かれたキラの姿だった。
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