灰色の心

 九嶺キラにとって、寝覚めとは昨日と今日、過去と今に境界線を引く為の区切りである。

 嫌なことはすっぱりと忘れ、気分を新たに一日をリスタートさせる為のルーチンワーク……のはずだった。


 そう、今この瞬間までは。


「…………、」


 暗鬱とした心持ちでキラは重たい瞼を開く。

 と、途端に感じたのは頭部に伝わる温かくて、柔らかな感触。

 鼻腔を掠めたのは、仄かに香るフレグランスの甘い香り。

 視線を上に向けてみると、朝の空気の中に光っている電灯が、眠気と格闘している少女の顔を映し出していた。


「……あ、えっと、おはようございます、黒瀬さん……?」


 一瞬だけ声をかけるべきかどうか迷ったキラだったが、とりあえず挨拶を口にしてみることにする。


「ん、あ……。おはよう、九嶺さん……?」


 ナギサはぼんやりとした瞳でこちらを見下ろしていたが、すぐにぱちくりとまばたきを繰り返し、ぎこちない口調で返事をした。


「えっと、黒瀬さんはどうして膝枕を?」

「どうしてって言われたらそうね……せめてもの恩返し、といったところかしら?」


 キラの問いに、目元を擦りながら疑問形でナギサは答える。

 どういうことだろう? とキラが首を傾げていると、彼女は気まずそうな顔で、


「……あ、もしかしてだけど、九嶺さんは私に膝枕されるの嫌だったかしら? だったら、すぐに退くけど……」

「ううん! そんなことない! むしろ、すごく嬉しいくらいだよ!」

「そ、そう……? それならいいんだけど……」


 凄まじい勢いで食いついてくるキラに若干引き気味のナギサだったが、すぐに安堵の息を吐いてから、微笑んだ。


「けど、ごめんなさいね。私がもっとちゃんとしていれば、九嶺さんを守ってあげられたはずなのに……」


 言って、ナギサは目を伏せる。

 その漆黒の瞳に宿るのは、キラを守ることができなかったへの後悔か、それとも己の甘さへの苛立ちか。

 いずれにせよ、彼女が自身のミスに責任を感じているのは明らかだった。


 ぽたり、と頬の上に落ちてきた水滴に、キラはきょとんとした表情を浮かべる。

 ……これは、一体?  理解するまでに数秒の時間を要したキラだったが、その水滴の正体がナギサの瞳から零れ落ちたものだと気づくと、慌てて口を開いた。


「ううん、そんなことない! 黒瀬さんは十分すぎるくらいに頑張ってくれたもん! もし黒瀬さんがいなかったら、今頃私はどうなっていることだかかわからないくらいだし……」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、やっぱり私が不甲斐ないばかりに九嶺さんを守れなかったのも事実。間違いなく、これは私の落ち度よ」


 震える声で紡がれた言葉には、後悔の念がこれでもかと詰まっていた。

 今までの冷静沈着な姿からは想像もつかないほどに取り乱していて、自責の念に押し潰されそうになっているようだった。

 そんな彼女を目の当たりにして、キラの胸の内には悲しみと無力感が込み上げてくる。

 何かしてあげたい、という気持ちはあったのだが、自分が何をすればいいのか全く分からずにいた。


 ……そもそも自分なんかにできることなどたかが知れている。

 金もなければ、力もない。地位もないし、知恵もない。コネだって……黒瀬財閥の令嬢であるナギサに比べれば雲泥の差だ。

 彼女を元気付ける術も、笑わせる方法も知らない。

 自分の唯一の取り柄といったら、誰かの前に立って、盾になることくらいだ。

 ……だが、その役割すら果たせないのだとしたら、いよいよ自分にできることなどないではないか。


「……私は」

「九嶺さん?」


 ナギサが心配そうに声をかけてくるが、今のキラにはその優しさすら辛かった。


 ――あぁ、嫌だなぁ……こんな気持ちになるなんて、久々だ。


 キラは自分が大嫌いだった。いつだって、未熟で七年前のあの時から成長できない自分が大嫌いだった。

 どうしようもない人間なのだと開き直って逃げようとする、自分が大嫌いだった。


「……やっぱりさ」


 ぼそりと呟くと、キラはナギサの目を真っ直ぐに見つめた。漆黒の瞳に映る自分の姿を見つめながら、意を決して口を開く。


「黒瀬さんって、すごいよね」

「え……?」

「私なんかよりもずっと賢くて……顔もよくてさ。剣捌きだって一流だったし、ホント憧れちゃう。なんかもう、存在が物語の主人公って感じだもん」

「ちょ、ちょっと九嶺さん……? あなた何を言って……」


 キラの言葉に戸惑いの表情を浮かべるナギサだったが、それを遮るようにしてキラは言葉を続けた。


「だから、さ。そんな悲しい顔しないでよ、黒瀬さん。せっかくの美人さんが台無しだよ?」


 キラは優しく微笑みかけると、震えるナギサの手をそっと握った。

 ……ひどく冷たい手だった。四月とはいえ、未だ寒さの残るこの季節。キラの負った傷が再生能力によって完全に塞がるまでの間、彼女は寒空の下で周囲を見張ってくれたのだ。

 その証拠に指先が、耳の先が、ほっぺたが僅かに赤くなっていた。


「ねぇ、黒瀬さん。少しは温かくなった?」

「……え?」


 脈絡も無く飛び出してきた問いに目を丸くするナギサだったが、すぐにこくりと頷く。


「なら、よかった。けど、黒瀬さんはもう少し体を労らなきゃダメだよ? 無理しない、溜め込まない、調子に乗らない。それが長生きするコツなんだから」

「……なんだかあなたに言われると、妙に腹の立つ台詞ね」


 むっ、とナギサは眉間に皺を寄せるが、それも束の間。すぐに呆れたような溜め息を漏らすと、


「でもまぁ……ありがとうね、九嶺さん。お陰で気が少し楽になったわ」


 さっきよりも明るい声で言って、朗らかに笑みを浮かべてみせた。

 ……彼女は気づいていないのかもしれないが、それはキラの知るどんな笑顔よりも素敵なものだった。


 ――この笑顔を曇らせてはいけない。


 唐突にそんな思考が頭を過り、キラは頬を赤くさせた。


「九嶺さん? どうかしたの?」

「う、ううん! なんでもない!」


 ぶんぶんと首を左右に振るキラにナギサは疑問符を浮かべていたが、深く追求してくるようなことはしなかった。

 そして、沈黙が流れる。心地の良い沈黙が。

 しばらくしてから、そういえば、とナギサが話をすり替えるように言葉を切り出した。


「嫌なことを思い出させるようで悪いんだけど、お腹の調子はどう? 真っ二つに斬られたわけなんだから、まだ痛みとかは残っているんじゃないかしら?」

「あ、えっと、お腹はまだ痛いかな。あとは思い出したら、吐き気というか、口の中で鉄の味がしてきたというか……」


 うぇ、と顔をしかめながらキラは腹部をさすって、調子を確かめる。

 まだ鈍い痛みこそ残っているが、物心がついた時から、痛みに慣れているキラにとってはこの程度どうということはない。

 強いて言うなら、喉の奥につかえている血塊の鬱陶しい感触くらいだろう。


「……くれぐれも膝の上で吐かないでね。吐いたら殺すから」

「こ、怖いこと言わないでよ、黒瀬さん!  というか、そういうこと言うくらいなら膝枕やめればよくない!?」

「あら、そんなことを言ってもいいのかしら、九嶺さん?  あなたにとって、私の膝枕は人生で二度あるかどうかの貴重な機会。それなのに、こんなにもあっさりと手放してしまってもいいの?」

「そ、それは……っ」


 キラは咄嗟に反論しようとして、言葉に詰まった。


 ……確かに彼女の言うことはある意味で的を射ているからだ。

 恋仲ではない、意中の相手からの膝枕。その価値は、どれほどの大金を積もうとも、決して手の届くことのないものに違いない。

 それが今、自分の目の前にある。

 これを易々と手放すというのは、あまりにも惜しいのではないだろうか。


「ほらほらぁ、どうしたの、九嶺さん? その潤んだ瞳は何を物語っているのかしらねぇ?」


 完全に調子を取り戻したナギサが、ここぞとばかりにキラを揶揄りながら、飼い犬を愛でるかのような手つきで頭を撫で回してくる。


「わ、分かった! 分かったから、あんまりいじめないで!」

「ふふふっ、悪かったわね。九嶺さんの反応があまりにも可愛かったものだから、つい」

「うぅ……黒瀬さんのいじわる……」


 恨めしげに睨みつけるキラだったが、ナギサはくすくすと笑うだけで効果はない。

 結局、キラはされるがままになっているしかなかった。……悔しいことに、満更でもなかったのだけれど。


「……それであのあとはどうなったの、黒瀬さん?  見た感じだと私が斬られてから、それほど時間は経ってないと思うんだけど……」


 膝枕を堪能する傍ら、キラは先ほどから気になっていたことをナギサに問いかけた。

 ……とにかく今は、サツキに斬られたあとの結末を把握する必要がある。

 ……自分が気絶した後、戦いは一体どうなったのか。

 ある程度の予想こそ出来ているものの、その真相を知らない限りには、この街で起こっている問題に対して、終止符を打つことはできないだろう。


「うーん、そうね……一体、どこから話したものかしら」


 ナギサは人差し指を顎に当てながら、思案に耽る。

 やがて答えが出たのか、小さく頷くと話を切り出した。


「結論から言うと……アイツは逃げたわ。私が、真っ二つにされたあなたに気を取られている隙に、ね」

「逃げた……かぁ。まあ、妥当といえば妥当な判断だよね……」


 キラは脱力しながら肩を落とした。


 ……サツキの目的はあくまでも九嶺キラの殺害であり、黒瀬ナギサの殺害ではない。

 キラが意識を失う寸前、軍配がナギサの方へと傾き始めていたのを鑑みるに、戦況を立て直すのは極めて合理的な思考であると言えよう。


 となれば、だ。


 サツキの立場に立って、その合理的な思考というやつを考えたとき、取るであろう選択はただ一つ。


 ……分断だ。


 ナギサとキラ、二人の間に不調和をもたらし、自身に有利な状況を作り出すこと。

 それは戦いにおける常套手段であり、盤石な態勢を作り上げるためには必要不可欠な行動と言えるだろう。

 たとえそれが瞬間的なものだとしても、その合間に決定打を打ってしまえるのならば、戦略としては充分すぎる。

 ……けれど、そんな合理的な思考の中で一つ気がかりなことがあるとすると――、


「……」


 キラは、右手の刻印に視線を向けた。


 ……この印が右手に刻まれているのに気がついたあの朝、サツキは確かにこれを目にしていた。

 目にしていただけで何もしてこなかった。

 いや、そもそもの疑問として、どうして自分が、この連続殺人事件における第一の被害者になっていないのか。

 簡単に殺すことの出来る機会なら、いくらでもあったというのに、そうしてこなかったのはどうしてなのか。


 ――……まさか。


 ふと、キラの脳裏にある推測が浮かび上がる。


 ……いや、ありえない。そんなことはないはずだ。


 そんなはずはないのだ。だけど、もしそうなのだとしたら――


「九嶺さん?」

「へ? ……あ、ご、ごめん。ちょっと考えごとしてた」

「そう? なら、いいんだけど……あまり抱え込まないようにね。あなたみたいな人の方こそ、そうやって思い詰めていった結果、あらぬ方向へと向かってしまうことが多いんだから」


 キラの思考を遮るように、ナギサは話題を逸らした。

 ……それもある意味で、彼女なりの優しさなのかもしれないが。

 とはいえ、確かにいつまでもくよくよと思い悩んでいるわけにもいかないだろう。

 今ここで先の見えない未来のことについて考えていても仕方が無いし、何より目の前の現実と向き合うことこそが何よりも重要なのだ。

 キラは深く溜め息を吐くと、膝枕から上体を起こすのだった。

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