融氷
「え、えっと……」
ナギサの訪問を受けたキラは困惑していた。
……というのも、今の彼女が醸し出す剣呑な雰囲気から察するに、長丁場になることが容易に予想できたからだ。
「とりあえず中に入って、黒瀬さん。立ち話ってのも疲れるし、話はそこで聞くから」
「ありがとう。失礼させてもらうわね」
キラの勧めに従い、ナギサは部屋の中へと足を踏み入れると、ベッドの上に腰かける。
そして、小さく一息つくと、ぽんぽんと自らの隣を叩いてみせた。
……どうやら、ここに座れということらしい。
逆らうと余計に面倒なことになりそうだったので、キラは素直にナギサの隣へと腰掛けることにする。
「……それで、話っていうのは……」
「ちょっと待った、九嶺さん。早速、本題に入ろうとするのはいいんだけど、まずは一度、落ち着いてみて。そんな顔されたら、話せることも話せないでしょ?」
「……ぇ? あ、ごめん。私、そんなに怖い顔してた……?」
「いえ、そういうわけじゃないの。ただ、何と言うか……凄く辛そうな顔をしてたから、ちょっと気になってね」
言って、ナギサは張り詰めていた糸を緩めるように肩を竦めてみせた。
……彼女に気を遣わせてしまっていたらしい。
申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになりそうなキラだったが、ここで変に反応してしまえば余計に彼女の不安を煽ることになると思い、努めて平静を装うことにする。
「ごめんね、心配かけちゃったみたいで……でも大丈夫、本当に大丈夫だから」
「……無理に強がらなくたっていいのよ。辛かったら、吐き出してもいいんだから」
「だーかーらー、私は大丈夫だってば! 心配してくれる黒瀬さんの方こそ、身体の調子はどうなの?」
茶化すように言ってはみるものの、ナギサの表情は依然として険しいままだった。
「今は私のことなんてどうでもいいでしょ? いいから、正直に答えて」
「……えっと」
有無を言わさぬ口調で言ってから、ナギサはジッと、逡巡するキラの瞳を見つめてくる。
……彼女の前では誤魔化しは一切通用しないようだった。
最初の内こそ強がっていたキラだったが、やがてナギサの視線に耐えきれなくなり、彼女から視線を逸らす。
「別に辛くなんかないよ。この程度の悩みなんかどうとでも──」
「嘘ね」
言葉を遮って放たれた一言は、キラの心臓に深々と突き刺さった。
思わず息を詰まらせて硬直するキラに対し、ナギサは淡々と言葉を続ける。
「今の状況が辛くないのなら、どうして顔を背けるの? ……今の貴女、どこからどう見ても異常よ」
「……またまたー、そんなこと言っちゃって。私みたいなのが悲しい顔をする訳がないじゃん。黒瀬さんの見間違いじゃないの?」
「いいえ、見間違いなんかじゃないわ。この目ではっきりと見たもの。まるで、今にも泣き出しそうな子供のような顔をしているところをね」
「……っ」
苦し紛れの抵抗も虚しく、キラは言葉を詰まらせた。
「それにね、九嶺さん。あなた、自分で言ってたじゃない。
無理しない、溜め込まない、調子に乗らない。それが長生きするコツなんだって」
言いながらナギサはキラの両頬に手を添えて、無理矢理に視線を合わせてくる。
……辛かった。今のキラにとってはナギサの優しさが、触れ合いが、言葉が。
痛みを伴わないはずのその刺激は、キラの心を軋ませ、正常な判断力を着実に奪っていく。
「……めてよ」
「?」
「やめてよ、黒瀬さん……っ」
気がつけば、キラは感情の赴くままにナギサの両腕を掴んで、彼女を睨みつけていた。
「こんな、弱くて空っぽの私のことなんか放っておいてよ……っ! 同情なんかいらないっ! 気遣ってもらうだけの価値しかない私のことなんか、放っておいてよぉ……ッ!」
叫びながら、キラは両手に渾身の力を込めて、締め上げる。
ナギサが痛みで顔を顰めるも、キラは力を緩めることなく、そのまま彼女をベッドへと押し倒した。
「同情? 気遣ってる? 思い上がるのも大概にしなさい。私は貴女のことなんか、これっぽっちも心配なんてしてない」
「だったらっ! なんで私に構うの!? なんで気にかけるような真似をするのッ!」
咆哮と共に吐き出されたキラの言葉が、ナギサに無数の雫となって降り注ぐ。
両目から零れ落ちた大粒の涙が頬を伝い、キラの顔面を濡らしていく。
「私だって本当は分かっているんだよ! 私が弱いことなんか! 私が薄っぺらい存在だってことも!
……でも、こうするしかなかった。 死んでいった人達の犠牲を無駄にしない為には、残された私が全てを背負うしか、ないんだから……っ」
七年間も溜め込んできた想いの全てを、キラはナギサにぶちまけた。
……きっと、これは一種の八つ当たりだ。
こんなことをしてもナギサを困らせるだけだと理解はしているし、心の片隅では罪悪感が芽生えているというのに、激情に駆られてそれを抑えることが出来ないでいる。
どこまでも救いようがない己の醜さに直面し、キラは心の底から死にたくなった。
「ごめんなさい、黒瀬さん。こんなのは全部、私の身勝手なわがままでしかないんだってことは理解しているの……っ! けど、けどね……!」
自己嫌悪に襲われながらもキラは言葉を紡ぎ続ける。
自分は何て卑しい人間なのだろうと嘆きながら、それでも心の内の叫びを止められないでいる。
そんな彼女の心境を察したのか、ナギサは何も言葉を発することなく黙って耳を傾け続けていた。
「……ごめん、なさい……。強くなろうって決めてたのに……なれなくて……っ、ごめんなさい……っ」
か細い声で謝って、キラはナギサの腕を解放した。
赤く痕がついた腕を見て、目を伏せる。
……失望されたに違いない。
失望されるだけならまだしも、嫌われてしまったかもしれない。
自業自得とはいえ、これから先のことを考えると、心は自分に味方をしてくれる人間はいないのかもしれない、という恐怖と不安で押し潰されそうになる。
だって、誰だってこんなわがままな奴とは一緒にいたくはないだろうから──。
ナギサの上から退く為に身体を動かそうとしたキラだったが、その前に彼女の腕が首の後ろに回され、抱き寄せられた。
「……ごめん、なさい」
「どうしてあなたが謝るの?」
「……だって、私が弱いから。黒瀬さんを困らせるようなことばっかり言うし……こんなんじゃ嫌われるに決まってるもん」
「九嶺さん」
感情のない声で自分の名前を呼ばれ、キラは身体がビクリと震えるのを感じた。
そして、ナギサの口から紡がれるであろう言葉が何であるかに思い至り、彼女は内心で絶望する。
だが──、
「──弱くて何が悪いのかしら?」
「…………ぇ……?」
予想外の言葉が飛んできて、キラは呆気にとられた声を漏らした。
「これは私の友達の受け売りなのだけれどね、人間っていうのは必ずどこかに弱さを持っているの。……どうしようもないくらいに醜い部分だったり、絶対に直視したくないような過去があったり。
そして、それは私も同じよ」
ナギサはキラの頭を優しく撫でながら言葉を続ける。
「弱さのない人間なんて、この世界には存在しないわ。だって、弱いところのない人間なんて、そんなのはもう人の在り方じゃない。淡々と与えられたことのみを処理する、機械の在り方よ」
「……けど、だからと言って、弱さを肯定して開き直るのも間違ってると思う」
「ええ、その通りね。弱さをそのままにして、開き直るなんて愚か者のすること。だから私達は、自分に出来る限りのことをコツコツとやり続けるしかない」
「っ……」
ナギサの言葉が胸に突き刺さったキラは、痛みを堪えるかのように顔を歪めた。
……ずっと誰かに言ってほしかった言葉。自分が投げ出した弱さを否定するのではなく、認めるような優しい言葉が、胸の中に染み渡っていく。
「精一杯、頑張って前に進むしかないの。時には、道を見失いそうになったり、歩くのをやめたくなったりするかもしれない。人によっては、歩くだけで痛みを伴うことだってあるはずよ。
……けど、それでも私達は前に進み続ける。進んで、進んで、進み続けて。最終的に行き着く先が何も無い死だと分かっていたとしても、私達はその道を進むしかない」
だって──、と桜色の唇が開かれる。
「行き着く先はみんな同じであっても、一人一人が歩んでいった過程は新たな命の糧となるのだから」
「…………ぁ」
「少なくとも私はそう信じているわ。弱さは罪なんかじゃない、むしろ人を成長させるもの。私達は弱いからこそ前に進むことを選べるのよ」
「……ぅ……ぁ……」
嗚咽と共にこぼれた涙は止まらず、キラの瞳から大粒の雫となって流れ落ちる。
しかし、それは悲しみや後悔と言った負の感情によって零れたものでなく──、
「辛かったら泣いてもいいのよ。誰も咎めないし、誰にも咎めさせないから」
「……ぅぅ……っ!」
温かな言葉に背中を押されて、キラはナギサの胸の中で幼子のように泣き続ける。
……いや、実際のところはそうなのだろう。七年前に凍りついたはずの心と身体は、黒瀬ナギサという融氷剤に触れたことで、溶けつつあるのだから。
今この瞬間だけは、キラはたった一人の子供のように甘えることが出来る。
それが九嶺キラという少女にとって、どれほど幸せなことなのか──、 今のナギサには知る由もなかったが。
「少しは落ち着いたかしら?」
しばらくして、キラが泣き止むのを見計らってか、ナギサが声をかけてきた。
「……ん」
小さく返事をして、キラはこくり、と首を縦に振る。彼女の頬は赤く腫れていて、目元もすっかり赤くなっていた。
……こんなになるまで泣くことが出来たのは良いことなのか悪いことなのか分からないが、少なくとも溜め込んでいたものを吐き出すことが出来たのは事実らしい。
「そう……、なら良かったわ」
安堵の表情を浮かべて呟いた後、ナギサは再びキラの頭を優しく撫でてから口を開いた。
「……本当はね? 話があるっていうのは九嶺さんをこうやって甘やかす為の口実だったのよ」
「そうなの?」
「ええ。頑張った人が報われないのは面白くないし、寝てたらなんだか貴女のことが無性に気になってきてね。つい顔を見に来てしまったの」
「……そう、なんだ」
キラが恥ずかしさに目を逸しながら返事したその時──、
ヴー……、ヴー……、ヴー……。
ベッド脇に置かれたキラの携帯から電子音が鳴り響き、液晶に光が灯る。
「こんな真昼間に誰だろう? 時間的にみんな授業中だと思うんだけど……」
「もしかしてだけど、貴女の彼氏さんとかじゃなくて?」
「え? 彼氏なんかいないし、出来たことすらないよ? 中学の時に、よく映画とか遊園地に遊びに行った男の子はいたけど、流石にこれを彼氏と言うのはちょっと……」
「そこまで頑張っといて、友達としてしか見られてないのは、なんだか可哀想ね。その人」
「? 言っている意味がよく分からな──ぁ?」
軽口を叩き合いながら携帯を手に取るキラだったが、液晶に表示されていた文字を見て、絶句する。
「……どうかしたの、九嶺さん?」
唐突に様子の変わったキラを見て、ナギサは彼女の手の中にある携帯を覗き込む。
画面に表示されていたのは──『発信者:お母さん』の文字だった。
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