ドッペルゲンガー
「ん、うぅ……」
日が上がり始めた頃、キラは不意に目を覚まし、小さく声を漏らした。
窓から差し込む日の光を頼りに周囲を見回すと、そこは自分が泊めさせてもらっている客室ではなく、ナギサの自室であり、さらにはベッドの上で眠っていたことが分かった。
「あれ、私……いつの間にこんな所に……? 確か、黒瀬さんの部屋で……」
徐々に頭が冴えてきたキラは記憶を辿りながら自分の身体に視線を向けるとそこでふと違和感を抱いた。というより、眠る直前にいた自分と今の自分では変わった点があったのだ。
それは、
「な、なんで私……裸なの? それに……なんだか少し体が重いような……って、黒瀬さん!? なんで私に抱き着いて……!?」
「ん、すぅ……すぅ……?」
見れば、そこには自分と同じ一糸まとわぬ姿のナギサが裸で抱きついており、しかもその豊満な胸や長い黒髪がキラの身体を柔らかく包んでいた。
さらには足まで絡めてきているものだから逃げようもない。
どうしてこんな訳の分からない状況になってしまったのか、と思案を巡らせてみるが、一度でも混乱してしまった脳ではまともな記憶が出てこない。
というか、今はそれどころではなかった。
「く、黒瀬さん! 起きて、起きてください! なんでこんなことになっちゃったのかは知らないけど、今は寝てるどころじゃないの!」
「んぅ……んん……今日も朝から五月蝿いわね、ミハルぅ。もう少し静かに……?」
キラが必死にナギサの身体を揺らすと、彼女は鬱陶しげに眉を寄せながら、ゆっくりと瞼を開く。そして、目の前にいたキラの姿をその漆黒の宝玉に映した途端、
「? ……!? あなた、今まで何してたのよ!? 私を残して勝手に消えて、散々心配させておいた挙句にベッドに潜り込んでくるなんて! あなたがいない間に私、こんなに大きくなっちゃったのよ!? 責任取りなさいよ、このバカ!!」
大粒の涙を目元に湛えながら、キラの両肩を掴んでめちゃくちゃに揺さぶり始めた。
「え、ええ!? ちょっと落ち着いて、黒瀬さん!? 黒瀬さん!?」
「うるさい、うるさい!! 私のことほったらかしにして、勝手にあんな最低最悪の別れ方をしておいて、よくもまぁぬけぬけと……!!」
「く、黒瀬さん!? なんか唐突すぎて、よくわかんないけど、とりあえずごめん!? ごめんってば!?」
「うっさい、バカ! このバカ! ごめんなさいじゃなくて、もっと私になにか言うことあるでしょうが!! あと、その黒瀬さんっていう他人行儀な呼び方はやめなさい! この、ばかぁ……」
まるで、幼い子供のように泣きじゃくるナギサを必死に宥めるキラ。
が、その甲斐も虚しく、彼女の涙が止まる気配は一向にない。それどころか、徐々にシナシナと萎れていってしまっている。
……なんというか、少し意外だった。
学園では可憐な優等生を装い、私生活では全体的にクールな印象を受ける彼女がこんな風に取り乱す姿を、キラは想像できていなかったのだ。
だから、だろうか。
キラは、普段とは違う彼女の姿に、なんとも言えないむず痒さを覚えていた。
普段では恐らく見ることのできないであろう、ナギサの一面を、こんな形で自分だけが目にすることができるというこの奇妙な状況には、罪悪感よりも嬉しさの方が勝っていたのだ。
……いや、流石に喜んでる場合でもないか。
「えっと、ごめんね、黒瀬さ……じゃなくてナギサちゃん? 寝ぼけてるのかは知らないけど、 私が勝手をして心配かけちゃったみたいで……」
「ぐすっ……。ナギサちゃんじゃないわよ、このバカぁ……。昔みたいにナギサお姉ちゃんって呼んでよ、バカぁ……」
「え、えぇ……!? そ、それは流石に色々と……」
「じゃあ、ずっと私の側にいて! 私に、あなたのことを守らせてよ……。ずっと、一緒にいてよぉ……」
「そ、それもちょっと……」
キラは涙ながらに訴えるナギサに困り顔を浮かべると、ベッドから起き上がり裸の彼女から距離を取ろうと試みるが――
「……あうっ」
次の刹那には絡みつくように抱きつかれ、ベッドに押し倒される。
「ま、待って! お願いだから少し落ち着こ、黒瀬さん!? 今の自分がどんなことしようとしてるか、ちゃんとわかってる!?」
「やだ……離れたくない……。私から離れないでっ……」
まるで駄々っ子のようにイヤイヤと首を振りながら、キラの胸元に顔を埋めるナギサ。
そんな彼女の尋常ならざる様子に、キラは困惑しながらもなんとか宥めようと試みる。
「わ、分かった! 私はどこにも行かないし、黒瀬さんの側にいる! だから落ち着いて、ね?」
「……ほんとう? もう二度と私の側からいなくならない? もう二度と私をひとりぼっちにしない?」
「う……うん、本当……だよ?」
理由もわからず、胸の奥底から湯水の如く溢れ出てくる罪悪感に突き動かされ、キラはナギサを安心させるための言葉を紡いだ。
「……う、それじゃあ、約束の証! ちゃんと約束の証させて!」
「え、えぇ……? 証って……」
キラは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたナギサが顔を上げたかと思うと、唐突にそんなことを言い出して戸惑う。
――……証……約束の証。
言っていることがあまりにも抽象的すぎて、了見が得られない。
証というからには何か形に残るようなもののような気がするのだが、一体何をどうすればいいのだろう? と、キラが考えあぐねていると――
「あむ」
不意にナギサの顔が近付き、湿った感覚と共に鋭い痛みがキラの首筋を襲った。
「あいだだだだだ!! く、黒瀬さん、急になにを……!?」
「急になにを……って、証よ、証! あなたに私のものである印をつけたの!」
「だ、だからといって、会って二日三日の人の首筋に噛みつくのは人としてどうなの!? 少し信じられないんだけど!!」
「会って二日三日……? 何を言ってるか、よく分からないけど、別にいいじゃない! あなた、再生能力もってるんだから、実質的にノーダメージでしょ!!」
「うわ、ひどい暴論を見た!?」
キラはナギサの言い草に思わず眩暈を覚えたが、当の本人はそんなことはお構いなしとばかりに、再び胸に顔を埋めながら鼻を啜り、嗚咽を漏らす。
「……ぐすっ、ひぐっ……。なによ、あなたと別れる時、どれだけ私が苦しくて、辛くて、寂しかったか……。もう二度とあんな思いはしたくないのよ。だから、証が欲しかったの……」
「黒瀬さん……」
彼女の独白に、キラは申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
ナギサの泣きじゃくる姿を見て、胸の内によくわからない罪悪感と、迂闊と思う後悔の念が、混ざりあいながら重く圧し掛かってくる。だが――
――……あれ? もしかしてこの人、寝ぼけて私を他の誰かと勘違いしている?
なんとなく。
なんとなくではあるのだが、ナギサの態度は嘘をついている人のものとは思えなかった。
だが、そうなると彼女の言う『証』とやらはキラに対してではなく、他の誰かに向けられたものということになりはしないだろうか?
だってそうでもなければナギサが泣く必要なんてどこにも――
「……ん?」
ふと、ドアの向こう側――廊下の方からドタドタと大きな足音が近付いてきたかと思うと、勢いよくドアが開かれる。
「大丈夫ですか、お嬢様!? 先ほど、お嬢様の悲鳴のようなものが聞こえてきました、が……?」
そこに現れたのは、スーツの上にエプロンを着込んだミハルの姿だった。どうやら朝ごはんの準備中らしかった。
彼女は部屋に入るなり、裸で絡み合う二人を見て、
「おや、お楽しみ中でしたか。申し訳ありません。今すぐ退散しますね」
「いや、違いますから! 少し待ってください間園さんんん!?」
にっこり笑顔で、踵を返して部屋を出ていこうとするミハルを、キラは必死に引き留める。が、彼女はどこか冷めた表情でキラを見つめ返しながらこう言った。
「? いやしかし……お嬢様とお客様がそのような行為をしている最中に割って入るのも無粋というものでしょう。……あ、もしかして私ともども、お食べになるつもりで……!?」
このケダモノ……! とでも言いたげに、軽蔑するような視線でこちらを睨んでくるミハル。
「いや、だから違いますって! というか、今のこの状況を見てどうしてそんな発想になるんですか!?」
「え? だって、お嬢様とお客様が裸で、絡み合っているんですよ?」
何を今更……? と、首をかしげるミハル。
どうやら彼女の頭の中はキラの常識とはかけ離れたところにあるらしい。
典型的な魔剣士のタイプと言ってしまえば、そうなのだが、それでもこれまでの行動を加味して考えると、なんだか日常的にこれと突き合わせられているナギサが可哀想になってくる。
「と、とにかく! この状況を見て、そんなふざけたことを言ってられる余裕があるなら、私の上で泣きじゃくってる黒瀬さんをどうにかしてください!! 起きたときから重くて苦しいし、私を他の誰かと勘違いしているのか、ずっとこんな調子で……!」
「うぅ……ぐすっ……重いとは失礼ね……。私だって、あなたと同じ女の子なのよ?」
うわあああん、と駄々っ子のように泣き喚きながら、キラの身体に自身の身体をこれでもかというくらい密着させるナギサ。
それを見たミハルは「ふむ」と顎に手を当てて、しばらくの間、吟味すると、
「……仕方ないですね。本来なら、寝ぼけていらしたとしても、お嬢様の意思に逆らうのはメイドとしてあるまじき行いなのですが……」
渋々と言った様子で、キラに泣きついているナギサの元へと歩み寄る。
そして、彼女の脇に躊躇なく腕を突っ込むと、そのまま慣れた手つきでナギサの身体を軽々しく持ち上げ、キラの身体から引き剥がした。
「あ、ちょ……やめなさい、ミハル! 離しなさい! また、私からあの子を引き剥がして、何か碌でもないことをさせるつもり……!? 私が……私がどれだけ、あの子のことを……!」
「お嬢様。お気持ちは痛いほど分かりますが、一旦落ち着いてください。でないと、ご自身の首を絞めることになりますよ」
「うるさいっ! それがどうしたって言うのよっ!? その程度、どうとでもないわっ!!」
駄々っ子よろしく腕の中で暴れ始めるナギサ。
そのあまりの必死さに、ミハルも思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「……全く。あなたという方は、昔から全然変わりませんね。少しはご自身の立場というものを理解していただきたいのですが……」
「っ、 私の周りの大人たちはいつもそう! そうやって、私を財閥の令嬢という小さな枠で括って、一人の人間としてみてくれない!!」
「いえ、ですから……。……はぁ、分かりました。なら、こちらにも考えがあります。お客様、とりあえず部屋の外に出てもらえますか?」
お召しものは後ほど用意いたしますので、とキラに退室を促すミハル。
彼女はそれに従い、ベットから布団を一枚とると、それを身体に巻いて、扉の方へ足を向ける。
だが、その際にナギサの方へと振り返り、少し躊躇ったのちに、声をかけた。
「あ、あの……黒瀬さん?」
「……うぅっ、なによ。あなたまで、不甲斐ない私のことを馬鹿にするつもり……?」
「いや、そうじゃないけど……あまり、自分を傷つけないでほしいなって。過去にどんな悲劇があったかは知らないし、無理に聞き出そうとも思わないけど、黒瀬さんのことを想ってくれる人は必ずいるから」
「うるさいっ! そんなこと、あなたに言われなくたって分かってるわよ! でも……でもぉ……!」
キラの言葉にナギサは大声を上げて反論する。が、その言葉は次第に小さくなっていき、やがて嗚咽へと変わっていった。
「う、ぐすっ……。やっぱり私なんかに、誰かを守る資格なんてなかったんだわ……」
「そ、そんなことないよ! 少なくとも私は黒瀬さんのこと嫌いじゃないし、むしろ好感を持てる人だと思ってる。だからこそ、だよ」
「…………、」
キラの慰めにナギサは無言になって、がっくりと項垂れる。
そんな主の姿にミハルは、はあ……と煩わしげに嘆息すると、再びキラに部屋から出るよう促したのだった。
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