偽物の君へ

 ナギサの部屋を出て、一人になってみると、頭に昇っていた血が引いていく感覚と共に、冷静さを取り戻す。

 そして、キラは自分が何故、裸で寝ていたのか。何故、ナギサのベッドで彼女と抱き合って寝ていたのかについて、思いだした。


 ……そう。アレは些細なきっかけ。九嶺キラから始まった物語。


 事件の発端は昨夜。ナギサの部屋にて今後のことについて話し合っていた時に起こった。

 ナギサから力のことや例の殺人鬼について質問攻めされている最中、唐突に猛烈な睡魔が襲ってきたキラは、そのまま現実と夢の世界の反復横跳びを開始。

 なんとか、日付が更新されるまでは持ち堪えていたのはいいものの、最終的にはソファーの上で寝てしまったはずなのだが……。


「……あれ、おかしいな……。それだと、私と黒瀬さんが裸で抱き合って寝てたことの説明がつかないんだけど……」


 ナギサのベッドの上で寝ていたのは、まあ百歩譲って目を瞑ろう。

 ナギサが自らの手でキラをベッドへと移動させた線もありえなくはないし。

 だが、それだと……どうして裸で抱き合っていたのかが分からない。

 いくらウトウトしていたとしても、服を着て寝るくらいの判断はできるはずだし、ナギサが服を着ていたのなら、キラもちゃんと服を着て寝るはずだ。

 となれば……やはり、可能性としては一つしか考えられない。


「つまりこれは……私が黒瀬さんを襲ったってこと!?」


 ――どうして!?  いやどの角度から見ても普通に可愛い女の子ではあるけど!  でも、そんな展開に発展する要素なんてどこにもなかったし、そもそも私が黒瀬さんのことをそういう対象としてみるはずが……!


「いや、まさか……。これはアレかな。寝ぼけて黒瀬さんを襲ったんじゃなくて、逆に私が黒瀬さんに食べられちゃったパターン?」


 ……ありえない。実にありえない。


 黒瀬ナギサは自らの口でこう明言していたはずだ。


 九嶺キラのような人間は好みのタイプでもなんでもない、と。


 にもかかわらず、あのナギサがこんな暴挙に出るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 となると。


「そうだ、そうだよ……。そもそもの話として黒瀬さんが私を襲うっていうシチュエーション自体、どう考えたっておかしいし……!  やっぱり、私が寝ぼけて黒瀬さんを襲って、そのまま朝チュンしてしまったというのが真相なはず!」

「ふむ、なるほど。つまりアレは一夜の過ちの結果というやつですか」

「そう! 一夜の過ち!! 私と黒瀬さんはたった一夜の気まぐれで、肉体的に繋がって、結ばれて、激しく愛し合って……って、いつから聞いていたんですか、間園さん!?」


 飛んできた声に顔を上げてみれば、そこにはちょうど部屋から出てきたミハルが立っていた。

 彼女はキラの驚愕に染まった表情を見て、満足気に頷くと、


「いやはや、お客様がなにやら随分と面白そうなことを口走っておられたので。つい扉越しに聞き耳を立ててしまいました。あ、ちなみに謝るつもりはありませんよ?」

「あ、はい。そうですか……」


 別に謝れとも思っていなかったキラは、適当に相槌を打ちつつも、ミハルの言葉に耳を傾ける。


「いやーしかし、一夜の過ちですかー。お客様もなかなか隅に置けませんねー。まあ、そういうことがしたくなる気持ちも分からなくはないですけどー」

「はぁ。それで、黒瀬さんの方はどうなったんですか……? ものすごく、取り乱していましたけど……」

「簀巻きにしてきましたが何か……? あ、あと床にお召しものが散乱していたので回収してきました」


 どうぞ、とミハルは手に持ったそれをキラに手渡した。


「簀巻きにしてきましたが何か……じゃないですよ、間園さん。服を回収してくださったのは感謝しますが、それだと黒瀬さんが可哀想じゃないですか。てっきり、落ち着くまで面倒をみるものかと……」


 受け取った服を着込みながら、怪訝な視線を送るキラに、ミハルはやれやれと肩をすくめてこう答えた。


「まさか。お嬢様の面倒をみるのは、従者である私の役目です。ですが、それとこれとは別。こういう時は簀巻きにしてあげるのがよろしいのですよ」

「そういうもの、なんですか……?」

「そういうものなのですよ。ですが、久しぶりに見ましたね、お嬢様のメンヘラモード。ストレスがよほど溜まったり、かつてのご友人を思い出すことがなければ、滅多にああはならないはずなのですが………………あ」

「な、なんですか、舐め回すような視線で私なんかを見つめて。そんなに見つめても、私からは何もドロップしませんよ……?」

「い、いえ、そうではなく。……ただ、その何と申しましょうか……」

「? ただ、なんですか? はっきりと言ってくれないと私が困ります」


 唐突に値踏みするかのような視線を向けてきたかと思えば、今度はやけに気まずそうに、視線を逸らし始めるミハル。


 そして、数秒か数十秒か分からぬくらいの沈黙の後に、彼女は再び口を開いた。


「いえ、その……何と言えばいいのでしょうか……。この話を知ってしまったら、あなたはきっと後悔する。それでも良いと言うなら、お話ししますが……どうしますか?」


 後悔、という言葉に、全身が強張る。

 眼前に立っているのが、一人の罪人であり、傍観者でもあるかのような錯覚に陥り、ごくりと喉を鳴らした。

 だが、それでも。そんな言葉で止まれるほど、少女の心は弱く出来ていなかった。

 与えられた機会を無下にしないためにも、少女はその選択へと手を伸ばす。


「えっと、お願いします。その話、どうか私に聞かせてください」


 そう、はっきりと。

 覚悟を胸に宿し、少女は静かに懇願した。


「そう、ですか……なら、私も覚悟を決めましょう」


 ふう、と息を吐いてからミハルは重い口を開いた。


「結論から言いますと、あなたはお嬢様のかつてのご友人によく似ているのです」

「? 私が、黒瀬さんの昔の友達に似てる……?」

「ええ。どこをとっても非常によく似ていますよ。容姿も、性格も、仕草すらも全て……まるでドッペルゲンガーという存在が虚構ではなく、現実として目の前に現れたのかとでも疑うほどに」

「は、はあ……」


 いまいちピンとこないミハルの応答にキラは気の抜けた相槌を打った。


「それで、その方と黒瀬さんとはどんな間柄だったんですか……? あの反応を見る限りだと、友達という簡単な言葉で纏めてしまうには、些か無理がある気がするんですが……」


 キラの脳裏に浮かぶのは、涙に濡れたナギサの表情。

 目を放したらすぐにでも死んでしまいそうなまでに脆く、儚いあの姿を思いだし、キラは眉をひそめた。


「そうですね……。まあ、一言で表すならば姉妹のような関係、といったところでしょうか。実の兄姉よりも親密で、どこに行くにも、お嬢様の隣には、彼女の姿がありました」

「なるほど、姉妹ですか。それはなんというか……随分と濃い関係ですね」

「ええ、はい。一言で説明するならそうでしょうが……何というかその言い方だと語弊がある気が……」


 ミハルは何かを言い淀むような素振りを見せるも、結局言葉を呑み込んで話を続けた。


「まあ、いいです。話を戻しましょう。お嬢様と彼女の関係は一言では表せないほどに複雑で……それこそ、一言で表現できる言葉などこの世には存在しないでしょう」

「そんなにですか……」

「はい。それほどまでにお二人の関係は深いものでしたから。彼女がお嬢様を慕い、お嬢様もまた彼女のことを心から愛していました。ですが……」

「彼女は……この世にはもういないと?」

「……はい」


 キラの言葉にミハルは深く首肯した。


 確かに、ナギサのあの反応を見れば、薄々そうなのではないかと想像してはいたが……しかし本当にそうだったとは驚きでしかない。


 ふぅ、とミハルは一息ついた後、言葉を続けた。


「あなたは、ちょうど七年前に東京で起こった厄災を覚えていますか? 空から突如として、数え切れないほどの使徒が現れ、未曾有の死傷者を出した、あの事件を」

「……覚えているも何も、私も当時その場に居合わせていたのでよく知っていますよ、その事件」


 七年前に東京で起きた厄災。

 それは、大量の使徒が空から降り注ぎ、多くの人々を虐殺した事件であり、九嶺キラを魔剣士の道へと押しやった大きな出来事だ。

 事件を起こした使徒の総数は実に数千体。そのいずれもが、高位に位置付けられる狂暴な個体で、中には最凶と謳われる六大使徒にも並ぶ力を持つ強大な存在も確認された。

 死傷者及び行方不明者は、世界でもトップクラスの人口密集地域とあってか、正確な数こそ把握できていないが、一千万人は下らないと言われている――が、しかし。


 ――だが、しかし。


 ――何故、このタイミングでこの話をするのか。


 キラは、次にミハルの口から出てくるであろう言葉に見当をつけ、来たるであろう衝撃に備える。


「そう……ですか。なら話は早いです」


 そして、ミハルは蒼白くなった顔を隠しもせず、言葉を紡いだ。


「そのご友人というのは、人が困っているのを黙って見ていられないといった悪癖をもっていましてね。東京から逃げる道すがら、お嬢様の反対を振り切り、逃げ遅れた人々を助けに行ってしまったのです」

「……その結果、黒瀬さんは彼女を守ることができなかった自分に嫌気が差して、あんな性格になってしまった、と?」

「ええ、そうです。お嬢様は彼女が死んだのは自分のせいだと、自分を酷く責めました。それこそ……見ていられないほどに」


 ミハルは悔しげに唇を噛み締め、顔を俯かせた。


 ……悔恨。あるいは、悲哀。


 目の前に潜むその感情は、計り知れないほどに深く、暗く、暗澹としている。


「……」


 そんな痛々しいほどの静寂が包む中、キラは考える。


 たった一人の大切な人間と、見ず知らずの多くの命。

 どちらが重いか、と言われれば当然答えなんて決まっている。そのことに関しては考えるまでも、悩むまでもなかった。


 ……だが、それでも。


 黒瀬ナギサという可哀想な女の子に掛けるべき言葉を見つけらずにいる自分が、どうしようもなく嫌だった。

 なぜならば、黒瀬ナギサの友が取ったという選択は誰よりも正しくて、その行動は美談に違いないからだ。

 少なくともキラはそう考えるし、何より綺麗事を貫くことだって、たった一人を守ることと何ら変わりはない。

 それを否定することは、キラには絶対に出来ないし、しようとも思わない。


 しかし、ナギサはそう思っていないのだろう。


 大勢の命なんかよりも、愛しいたった一人の人間を守るべきだと、彼女はそう思っているに違いない。

 だからこそ、ナギサは抱えきれなくなってしまった傷を人格の奥底に閉じ込めたのだろう。


 己という人間が愛した友の死を無かったことにしないため。


 だというのに、キラは傷を開いてしまった。たとえ、それが偶然の一致であったとしても。

 キラは彼女の傷口に塩を塗り込み、無理矢理に広げてしまったのだ。


「……なるほど。それで黒瀬さんは、私とその方との姿が重なってしまい取り乱した、と。そういうことですか」


 耳にこびりついたナギサの慟哭が、胸をズキズキと刺激する激痛に耐えながら、キラは努めて冷静に答えを口にした。


「おそらくですが……そういうことかと」


 ミハルは力なく頷き、


「……お嬢様のこと、気持ち悪いと思いますか? 出会って一週間もない他人に、ただ似ているからという身勝手な理由で、誰かも分からない人間の影を重ねられ、もうどこにも行かないでと縋られ。それでもあなたはお嬢様のことを、嫌いじゃないと。お嬢様の目の前でそう言えますか?」


 悲しい笑みを浮かべながら、今度はしっかりとキラの瞳を見つめ、問うた。


「それは……」


 対するキラは言葉に詰まった。


 別に嫌いというわけではない。むしろその逆で、あのように寝起きで錯乱しきってるのが分かっている以上、ナギサのことを嫌いになれるはずがないのだ。

 ただ、自分の中でベストと言えるアンサーが見つからないだけで。


「分からないですよ、そんなの」


 しばしの沈黙の後、キラは震える声で小さく呟いた。


「私が誰かに似ていようが、誰かに似てなかろうが私は私です。それは黒瀬さんだって同じだと思います。そして、黒瀬さんには、黒瀬さんなりの世界の見方があるはずです」

「……ですが、それでは――」

「なら、それでいいじゃないですか。私と黒瀬さんは違う。違うなら、考えが理解できないのも必然。そんなことを言われても、私には理解しかねます」


 ミハルの言葉を遮り、キラはナイフの先端を突きつけるかの如く、自分の意思を言葉に乗せてミハルへとぶつけてみせた。


「だから、私は黒瀬さんを拒絶なんてしないし、私という人間を見てくれないのも仕方ないと割り切ります」

「割り切る、ですか……」

「はい。だって、黒瀬さんが私をどう見ようが私の知ったことではありませんし、それに黒瀬さんの考え方を否定するつもりも毛頭ありませんから」


 ミハルはキラの割り切るという言葉に、呆気に取られた表情を浮かべ、薄く微笑んだ。


「……そうですか。しかし、これは少し予想外でしたね」

「予想外?」

「ええ、予想外です。まさか、二十六にもなって、歳下からそんな初歩的なことを諭されるとは」


 最近の子も侮れないものですね、とミハルは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに呟いた。


「そうですか?  私からすると歳なんか関係なく、当たり前のことだと思うのですが……」

「……そういうものですかね。まあ、いいでしょう。とりあえずあなたの中でお嬢様への対応が決まっているのなら、私はそれで構いませんので」


 キラの真っ直ぐな瞳に見つめられて、考えの浅かった己が気恥ずかしくなったのだろうか。

 ミハルは、にわかに頬を赤らめると、潤んだ瞳を隠すように鋼で出来た手で目下を覆った。


「ああ、それと最後に一つ。私があの子の側に居られない時は、あなたが近くに居てあげてください。あの子、意外と寂しがり屋ですから」

「?  それってどういう……?」

「いえ、何でも。あまり気にしないでください」


 キラが何かを言おうと口を開くも、ミハルがそれを遮るように咳払いをする。

 そして、そのまま踵を返すと、「では、私はこれで」と一言だけ残して、足音は遠ざかっていく。


 最後に一つと伝えられた、言葉の意図を掴めなかったキラには、その背中を追うだけの気概は存在していなかった。


 ――ただ、それでも。


 去り際の背中に、哀愁のような感情を抱いたことだけは確かだった。

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