一人だけの味方と多くの味方

「見知らぬ街をクラスメイトと二人きりで歩くというのは、こんなにも心が躍るものなのですね。なんだか、少し意外です」

「……もしかしてだけどさ、黒瀬さん。いま怒ってる?」

「いえ、別に? ただ周りの目がちょっとうざいなとは思っていますが、怒ってはいません。むしろ、私が怒っていると思った理由の方を知りたいぐらいです」

「いや……だって……、プライベートだと高飛車な感じの口調なのに、こういう人の目がある所だと敬語になるのがなんというか違和感があるっていうか……。正直に言って、怖い!!」

「……なんですか、それ。意味が分かりません。私はあくまで公私に分別をつけて、普通に話しているだけです」

「多重人格を疑うレベルでひどいのを普通とは思えないから、こうやって言ってるんだけど……」


 ほどなくして太陽が青空を茜へと染めようかという、昼下り。

 キラとナギサの二人は、雑踏ひしめく繁華街へと繰り出していた。

 なんでもナギサ曰く、まだ引っ越してきてばかりで、土地勘がないからどこに何があるのかを把握しておきたいとのことらしい。

 のだが……。


「まぁいいや、それは。それで結局のところ覚えてないの? 今朝のアレ」

「?  アレってなんのことですか?」

「ほら、起きたら裸の私と黒瀬さんが同じベッドの中で眠ってたっていう、アレのこと」

「……? 寝言は寝てから言ってください。あなたまであのバカに毒されたのですか? 正直に言って、すごく気持ち悪いです」

「いや、だから――ぐふっ!」

「だからもなにもないです。大体、私があなたとなんて、ありえないでしょう? そもそもの話として私達は同性ですし、あなたのこと好きじゃないですし」

「け、けれどさ、わざわざ肘鉄をお腹にぶち込むことはないんじゃないかな? わりと痛いんだけど……」

「……自業自得です」

「じ、自業自得かぁ……」


 この通り、黒瀬ナギサの記憶では今朝のやり取りが無かったことになっているようだった。


 だが、キラは直接それを指摘する気にはなれなかった。

 何せ、あれだけの醜態を他人に見られたのだ。恥ずかしくないわけがないし、きっとその記憶は彼女の中で消しておきたいものなのだろう。

 そんな記憶を抉り返すほど、野暮ではないという自覚はあった。


 ……いや、そうではなく。ただ単に、彼女に嫌われたくない。その一心だったのかもしれない。


 その実、キラは今までに、心の奥底から特定の誰かに恋することもなければ、嫌いになることもなかった。

 故にキラの愛には隣人愛や友愛といったものしか存在しなく、良くて親愛といった所なのだ。


 だが、初めてだった。


 誰かをこれほどまでに好きになったのも、恋愛という言葉を意識したのも、誰かを愛することに理由なんかいらないと思えたのも、黒瀬ナギサが初めてだった。

 けれども、その恋が実ることはないだろう。

 庶民と令嬢、身分の差という大人の事情は、仮にナギサの弱みにつけ込んだとしても、そうそう覆せるものではないのは自明だ。


 しかし、それでも構わない。


 所詮は叶わぬ恋。ならばせめて、かつてナギサの側にいたという少女の代替品になろう――と。

 そんな煩悩と打算に塗れた、不純な恋慕。

 それを自覚したキラは、なんと可笑しなことかと、自嘲する。

 ナギサと出会ってからというもの、自分はどこかおかしいのだ。

 己に課したルールを破ってまで、彼女に干渉しようとする自分がいる。

 ナギサのことを知るたびに、彼女に惹かれていく自分がいる。

 それはまるで、誰かに自分の心を操られているかのような奇怪な感覚だった。


「はぁ……」

「どうしたんですか、いきなり溜息なんか吐いて? もしかしなくても欲求不満ですか?」

「ん、ああ……いや。黒瀬さんの言う通り、変態性を拗らせようとしている自分がちょっと嫌になっただけ」

「全くもってその通りです。あなたみたいな性欲を持て余した大馬鹿者がいるから、性犯罪は無くならないのです。公衆の面前なのですから、少しは自重してください」

「あはは……反省しておきます」


 大真面目な顔で毒を吐いてくるナギサに、キラは苦笑いを浮かべた。

 だが、これはこれで悪くないと思えてしまうあたり、自分の心は重症かもしれない。

 そんなキラの想いなど露知らず、ナギサは「ふん」と鼻を鳴らすと、


「他にも色々と言いたいことはありますが、まぁいいです。とりあえず、今は私を案内することに専念してください」


 不機嫌を隠そうともせずに、そう言い放った。


「うん、そうだね。いや、それにしても凄い人混みだ……」


 そしてキラはナギサの不機嫌な態度に、眉尻を八の字にしながら同意を示して、道行く人々に目を走らせる。


 普段ならばこうやって街を歩く時は、あまりこういったことは意識しないのだが、件の殺人鬼のこともある。

 だから、今は視界に入っている人々の中に不審な挙動やモノがないか目を光らせる必要があるのだ。


 ……にしても。普段の休日というのは、こんなにも人が多かったものだっただろうか?


 キラは気を抜けば人にぶつかりそうになるほどの人混みに辟易としながら、街が賑わっている理由を考え始める。

 別にキラ自身、そこまで人混みというものが苦手な訳ではない。むしろ、人の雑踏や笑い声というものは、見ているだけ聞こえてくるだけでも楽しいものだ。

 だとしたら、こんなにも人が多いように感じてしまうのは、何故だろう。

 いつも通りの見慣れた光景が、まるで知らない街みたいに思えてしまうのは、何故だろう。


 その答えは、程なくしてすぐに見つかった。


 ――ああ、そうか。今日は私の隣に黒瀬さんが居るからか。


 彼女と共に街を歩いているという今の状況が、いつもの景色を全く違うものに錯覚させていたのだ。


「なんだか、デートみたい……」

「? 何か言いましたか?」

「あ、いや! 何でも!」

「そうですか。なら、いいのですが」


 思わずぽつりと溢れた呟きに反応したナギサが訝しむような目を向けてくるも、キラは咄嗟に首を振って誤魔化した。


 無論、ここで『君とデートをしているみたいで楽しい』などと素直に言ってしまえるのならば話は早いのだが、生憎とそんな勇気はない。

 というか普通に考えて、好きでもない同性から言われるのは、気味が悪い以外の何者でもないだろう。

 キラは己の浅慮を恥じつつ、小さく頭を振った。


「それよりさ、黒瀬さん」

「はい?  なんですか?」

「あの人は連れてこなくて良かったの? あの人、あんなでも元はめっちゃ凄い魔剣士なんでしょ? それなら、件の殺人鬼と遭遇した時に凄く頼りになると思うんだけど……」

「ああ、あのバカのことですか」


 キラの言葉にナギサは顎に手を当てて暫しの間考える素振りをすると、ややあってから口を開いた。


「いえ、アレはダメです。論外です」

「へ、へぇ。それはまたなんで?」

「九嶺さんの知っての通り、アレには変な癖が多々あります。例えば、路地裏に連れてかれたと思ったら、勝手に私の身体を触りだしたり、抵抗したらしたで訳の分からないことを口走ってきたり。そんなことをされた日には、たまったものじゃないです」

「た、確かにあの人ならやりそうかも……」

「ですから、あのバカには留守番をさせました。公衆の面前であられもない醜態を晒す訳にもいきませんから」

「そ、それはなんというかご愁傷さまだね……」


 ナギサの口ぶりからして、日常的に繰り返されているらしいその行為に、キラは頬を引き攣らせた。


「――そっか。じゃあ、今日は本当に私と黒瀬さんの二人きりっていうことなんだ」

「……? それが今更、なんだと言うのですか?」

「いや、なんとなく再確認しただけ。それよりも、この人混みだとちょっとはぐれちゃうかもしれないし……。えっと……はい」


 頬を赤らめながら言ってキラは、ナギサへと手を差し伸べた。

 無論、それはただ単にエスコートをしたいという気持ちからの行動であり、決してやましい気持ちからの行動ではない。

 だが、そんなキラの内心など知る由もないナギサは、その行動を懐疑の視線で見つめてから口を開いた。


「なんですか、その手?」

「……えっと、だからその……この人混みだとはぐれちゃうかもしれないからエスコートしようかなって……」

「エスコート?  あなたが、私を?」

「……うん。これでも私、ここら辺にはそれなりに土地勘あるし……それにほら、黒瀬さんってすっごく美人だから変な人に声かけられるかもしれないし……」

「……そう」


 キラのたどたどしい返事に、ナギサは差し伸べられた手をじっと見つめると、


「じゃあ、よろしくね。可愛い魔剣士見習いさん」


 悪戯な笑みを浮かべて、キラの手に自分の手を重ねた。

 日が沈むまでには、まだ時間があった。


 ◆◇◆


 活気に彩られた街中でもナギサとキラの二人は、存分に目を集めた。

 まるで絵の中から飛び出してきたかのような可憐さと気品を兼ね備えた美少女と、その手を預かって傍らに立つ、あどけない桃髪の少女。

 少し風変わりなこの組み合わせは、普通に生きている限りでは、そうそうお目にかかれるものではないだろう。

 道行く人は皆一様にして、一瞬だけ歩くことを忘れ、その姿を目で追った。

 だが、そんな人々の視線も、街中で目を引く二人組の片割れであるナギサが一瞥をくれれば、その意識は全てそちらへと吸い込まれてしまう。

 当然であろう。何しろ彼女は正真正銘、本物の『お姫様』なのだ。普段ならばまず出会うこともない雲の上の存在なのだ。

 ただそこに存在するだけで、その場の空気を自分の色に染め上げることが出来る、選ばれた存在。

 故にナギサが気まぐれに微笑みを浮かべれば、人々はまるで神秘に魅入られたかのようにその思考を止め、数秒後にはまた何事もなかったかのように思考を始める。

 けれども、そうして自分を見つめながら追い抜いて行く無数の視線も、ナギサにとっては幼い時からの日常と大差ないものであり、特段意識するに値しないもの――のはずだった。


 では、何が彼女にそれを意識させたのか。


 答えは単純。


 己の手を握る少女の存在だ。


 少女はナギサが周囲の視線を惹きつける度に、その身を縮こませ、小動物のように小刻みに震えていた。

 ナギサがそういった視線に慣れていても、少女は違う。

 少女はその視線に怯えるように、ナギサの手をぎゅっと握りしめるのだ。まるで、自分はあなたのものだと言わんばかりに。

 そんな少女の姿は、ナギサにとってはひどく滑稽で――そして同時にまずいことをしているのだと、痛感させられる光景だった。

 何故なら、ナギサにとって、自分自身に課したルールに反するものであり、同時にそれを守れない己が気に食わなかったからだ。

 故に、少女にちょっとした休息を与えてあげようとアパレルショップやファストフード店などに入って、腰を落ち着けてみたりもした。

 が、やはりというべきか、少女はその度に不安そうに周囲を警戒した。

 そうこうしてる内に、いつしか太陽は壁の向こうへと完全に沈み、街の灯りが夜を彩り始めた。

 そして――その光から視線から逃れるように二人の少女は閑散とした夜の公園へと足を運んでいた。

 少し寂れた公園のベンチにナギサとキラは、肩を並べて腰掛ける。


「ふぅ……。やっぱり、ここまでくるとなんだか少し落ち着くね」


 キラは肩の荷が下りたとばかりに伸びをして、ほうっと息を吐いた。


「そうね。ここまで来ると、人の目が少なくなって気もだいぶ楽になるわね」


 ナギサの言葉に何かを感じたのか、キラは、きょとんと首を傾げて、目をぱちくりと開閉させると――


「あ、口調もどってる! 平常運転の黒瀬さんだ!」


 大袈裟に言って、嬉しそうに笑った。


「……む。何よ、それ。その言い草だと私がさっきまで平常運転じゃなかったみたいじゃない」

「いやいや、実際そうだったでしょ。昼間も言ったと思うけど、人がいっぱいいる所だと口調とか印象がガラリと変わるんだもん」

「だから、それはあくまで公私に分別をつけてるだけであって……」


 はぁ、とため息をつきながらナギサは公園全体に意識を巡らせる。

 周囲には人の気配はなく、夜風が枝葉を揺らす音が辺りを包み込んでいる。

 まるで世界が自分とキラの二人だけになったかのような、そんな不思議な錯覚を覚えるほどだった。


「いやー、それにしても本当にびっくりしたよ。まさか黒瀬さんがジャンクフード好きだっただなんてー」

「?  別に、好きという訳じゃないわ。ただ、家の都合上、あまり食べたことがないから、気になって味を確認しようとした。それだけよ」

「またまたぁ、そんなこと言っちゃってぇ。この前の昼休みのときだって、幸せそうに食べてたじゃん。購買の魚肉ハンバーガー!」


 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるキラに、ナギサは鬱陶しさに目を細めた。


「いちいちうるさいわね……。あれは単に、私があまり知らない食べ物だったから気になっただけ。……それに」

「?」

「ハンバーガーは……、その……とても美味しかったし……」


 ナギサは段々と小さくなる声でぼそぼそと呟くと、不意に顔を沸騰させて黙り込んだ。

 キラはそんなナギサの様子に一瞬だけ目を丸くしてから、やがてぷっと噴き出した。


「な、なによ……。別に笑うようなことじゃないでしょ……」

「いや、ごめん。ただ、やっぱり黒瀬さんって可愛いなぁって思ったら、つい」

「……っ!  なに馬鹿なことをいけしゃあしゃあと抜かしてるのよ!  その程度の台詞で私を口説けると思ったら、大間違いなんだから!」

「あはは、ごめんごめん。別に他意はないよ。ただ思ったことをそのまま口にしちゃっただけ」

「あなたのそういうところ。今のうちに直しとかないと絶対にあとで損するわよ」


 頭を抱えながら言うナギサに、キラは「かもねー」と呑気に笑った。


「けど、私はそれでもいいかなって思ってるんだ」

「?」

「だって、平気で嘘をつくような人間よりも、多少不器用でも素直に自分の気持ちを言える人間の方がみんな好きでしょ?」

「それは……確かにそうかもしれないけど……」


 キラの言葉にナギサは納得しかけるが、しかしすぐに首を横に振って否定する。


「けど、私は自分の言葉に責任を持たないような人は嫌いよ。自分の発言に最後まで責任を持つことは人間ならば当然の責務だもの」

「あはは、黒瀬さんは真面目だなぁ」

「私は別に真面目なんかじゃないわ。ただ、当たり前のことを当たり前に言っている。それだけよ」


 ナギサは嘲笑を浮かべながら、ぶっきらぼうに言った。


「じゃあ、そんな真面目な黒瀬さんに一つ質問なんだけど……」

「……なにかしら?」


 一瞬にして、キラの顔に陰りが出来たことを感じ取ったナギサは、探りを入れるべく、声を発した。


「もしも……もしもだよ? 自分が絶対に守りたいものと、多くの知らない命。どっちかを選べって言われたら……どうする?」


 そう問いかけた桃色の瞳は、先程までの戯けたモノとは打って変わって、僅かに揺れていた。


「?  なんなの、そのトロッコ問題みたいな質問は。少し性格が悪いわよ」

「そうかな? これぐらいの問題は友達同士だったら、よくやってると思うけど」

「……なんだか、あなたってあんまり友達がいなさそうね」

「あー、ひどい。かくいう黒瀬さんだって友達少なそうなくせにー」

「うぐっ……。わ、私の場合は、友達が出来ないんじゃなくて、作らないようにしているだけ。いわば、戦略的ぼっちよ」


 ふーん、と興味なさげにキラは呟いて、


「……それで、結局のところどうなの? 見ず知らずの大多数と、自分にとって大切なもの。黒瀬さんはどっちを守るの?」


 と、再度問うた。


 ……黒瀬ナギサは知っている。

 彼女がただの好奇心や興味本位でこのような質問をした訳ではないということを。


 ――そして。


 九嶺キラは、恐らく自分に求めているのだ。

 守るべきものを見定める為の、明確な基準点を。


 それはもしかしたら、今のキラにとって何よりも大事なことで――自分一人で解を導き出せなくなったからこそ、自分に問いかけているのだろう。

 故にナギサは考える。

 この質問に対する答えを模索する中で、真っ先に思い浮かんだのは、黒瀬ナギサという人間の根幹を成す『過去』の姿だった。


「……そうね。そんなの考えるまでもないわ」


 ナギサは一呼吸置くと、毅然とした口調でキラに言った。


「私は、自分にとって大切なモノを守るわ。そして、その多くの人が死んだあとに、自分の手で大切なものも壊し、自決する」

「……? それってつまり……どういうこと?」

「どういうこともなにも、言葉通りの意味よ」


 ナギサの答えにキラは首を傾げて、疑問符を浮かべた。


「私の言っていることがよく分かっていなそうな顔ね。けど、頭でよーく考えてみれば、すぐにわかるはずよ」


 ナギサは淡々と言葉を続ける。


「そもそもの話として、こういった類いの問題は、どちらかの命を奪うことを前提として作られているの。解答者という人間が何を重んじ、何を犠牲にするのか。それを問うのがこの問題の本質よ」


 ……誰かを救うということは、誰かを救わないということ。万人を救いたいという願いはただの詭弁に過ぎず、それに縋っている時点でとっくに破綻している。


「なら、もう答えは出ているでしょう? どちらを選ぶべきなのか。それは天秤で量るようなものではなくて、もっと根本的な価値観の問題よ」


 要するに――とナギサは続けた。


「命の奪うことを良しとしてしまった時点で、それはもう殺人鬼やテロリストという部類の人達と同類よ。そんな人間、早急に死んでしまった方が世のためになるわ」


 ……そう。どんな理由があるにしろ、一度でも人を殺すことを良しとしてしまった人間は、再び同じことが起こった瞬間、また同じ過ちを繰り返すに違いないのだ。

 やがて、その行為は取り返しのつかない域にまで達し、いずれは最初に自分で救ったはずの命すら、その手にかけてしまうだろう。

 ……そんなもの、もはや人間とは呼べない。ただの人殺しだ。

 それこそが黒瀬ナギサの『過去』が導き出した、究極の論理だった。


「……けど、それってなんか違うんじゃない? 未来を守る為に目の前のモノ全てを犠牲にするなんて、それはそれで問題がある気がするんだけど……」

「じゃあ、逆に聞くけれど。あなたは私に、どんな手を使ってでも目の前のモノ全てを守れと強制するつもりなのかしら?」

「えっと、それは……」


 キラは言葉を詰まらせ、視線を彷徨わせ、小さく俯いた。


「ほら、やっぱりそうじゃない。あなたの中での正しさというのは、その場しのぎの薄っぺらい言葉で塗り固められた、未熟で、曖昧なもの。そんなものじゃ、誰も救えないし何も守れないわ」


 ――それが最後の一撃だった。


 未だに『守るべきモノ』がぼやけて、しっかりと見定まっていないキラにとって、ナギサの台詞はあまりに重く、ずっしりと心に響くものだった。


「確かに……黒瀬さんの言う通り、私はまだ自分の中の正しさが何なのか答えられないよ」


 ……でも、とキラは顔を上げて言った。


「でも、だからと言って何もしなくて良い理由にはならないんじゃないかな。たとえ、未熟で曖昧な正しさしか持てなくても、人の為になることはしていくべきだと思う。自分の手で真に大切なモノを守れるよう強くなるためにも」

「……」


 ……真っ直ぐな瞳だった。そこには一点の曇りもなく、ただ純粋な強い意志だけが宿っている。


「そう……。なら好きにするといいわ」


 ナギサは小さく息を吐いた。


「あなたの人生を決めるのは、いつだってあなた自身だもの。私に出来ることと言ったら、少し性格の悪いアドバイスぐらいが、せいぜいよ」


 ぷいっとそっぽを向きながら、素っ気なく言うナギサに、キラはくすりと小さな笑みを浮かべる。


「…………なに笑ってるのよ。やっぱり性格が悪いんじゃないかしら、あなた」

「あはは、そうかも。でも、今の黒瀬さんの言い方って、なんだか――?」

「……どうしたのよ、九嶺さん。急に切羽詰まったような顔なんか浮かべて」


 唐突すぎるほどに言葉を詰まらせて、冷や汗を流し始めるキラに、ナギサは尋ねる。


「いや、なんというか違和感? みたいなのを感じて。それになんか……この辺り、寒くない?」


 寒がりさん? と軽口を叩いてみるが、キラはすぐに「ううん」と首を横に振った。


「そういう寒さじゃなくて……なんていうか、こう。誰かに見られているような、そんな寒気が――」

「?  私は別に何も感じないけれど」


 ナギサは周囲をぐるりと見回すが、やはりそれらしき気配はなかった。


「とにかくだよ、黒瀬さん。もっと私の側に寄って」

「えっ?」


 乱雑にナギサの肩を掴んだキラは、そのまま彼女を抱き寄せると、力任せにベンチの上に押し倒した。


「ちょっ、なにするのっ!?」


 そう言った瞬間だった。


 二人の頭上を赤い刃が通過した。


「っ!?」


 キラの判断が少しでも遅れていたら、二人の首は今ごろ胴体と泣き別れしていたことだろう。

 その事実に戦慄すると共に、ナギサは咄嗟の判断でキラの身体を抱えると、ベンチから転がり落ちる。


「っ……!」


 寝返りをうつように転がり落ちたためか、キラの表情が衝撃に歪む。

 が、それも一瞬。

 キラは身体の上に覆いかぶさるナギサを退かすと、すぐさま態勢を整えた。


「大丈夫、九嶺さん? 私の方はあなたをクッションにしたからどうということはないけれど」


「うん、私の方も大丈夫。この程度の痛みには昔から慣れているから。それより黒瀬さん、アレ――」


 そこまで言って、キラの視線が一点に固定される。

 つられて、ナギサの視線もそちらへと引き寄せられた。


 ……そこにはいつの間にやって来ていたのやら、街灯に照らされて伸びる影が一つ。

 影を視線で辿って行くと、やがてその正体が明らかになる。

 その人物は、やはりというべきか、五日前に夜の校庭で剣を交えたあの仮面の女だった。


「ちっ、やっぱりバレてしまったか。何も気づかぬまま首を切られれば、楽に死ねるだろうと気を遣ったつもりだったのに」


 女は露骨に舌打ちをすると、わざとらしく肩をすくめてみせた。


「あら、それはわざわざご親切にどうも。そんな気遣い、一ミリたりとも要らないけれど」


 挑発するように言って、ナギサは懐に忍ばせておいた刀身の無い剣を取り出し、構えをとる。


「あははっ、威勢がいいな! 黒瀬のお姫さま。けど、いずれは人類を担うであろう者として、それはどうなんだ?」

「何が言いたいのかしら?  それと、その呼び方はやめてもらえる?」


 不快だわ、と眉をひそめるナギサに、女は芝居がかった口調で続けた。


「いやいや、だってそうだろう? お姫さまってのは普通、こんな地方で起こっている事件に首なんか突っ込まないし、自分の価値を把握しているものだと思うんだ」

「なるほど。つまり、私が自分の立場すら理解出来ていない馬鹿だとでも言いたいのかしら?」


 遠回しな物言いをする仮面の女に、苛立ちを覚えたナギサは、静かに柄を握り込む。

 すると、どこからともなく黒い粒子が現れ、さざめきながら彼女の手許へと集まっていく。

 やがて、粒子は握られた柄の前方へと束ねられ、瞬く間に一振りの剣へと姿を変えた。


「ああ、そうだとも。しかし、勘違いをしないで欲しい」


 殺人鬼は一歩、前へ踏み出す。


「馬鹿は馬鹿でも、君は魔剣士として大成するタイプの馬鹿だ。そこの甘ちゃんとは違ってな」

「……」


 殺人鬼の言葉に何か思い当たる節があったのか、キラの肩がかすかに揺れた。

 だが、彼女は殺人鬼を睨んだまま、何も言い返さない。虎視眈々。そんな言葉が相応しい目つきだった。


「あはっ、あははははは! いいね、それでこそ私の獲物だ! 殺し甲斐がある!」


 狂熱に笑うと、女は赤い刀をだらりと垂らしながら、身体を低く沈め、


「――それじゃあ、あの夜の続きといこうか、二人とも。思う存分、殺し合おうじゃないか!」


 叫ぶと同時、凄まじい速度で突撃。あっという間に二人との間合いを詰めると、目にも留まらぬスピードで刀を振るった。

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