変わらない日常

 閉めきったカーテンの隙間から差し込む、陽の光。

 ベランダの手すりに留まって朝の訪れを告げる、小鳥たちのさえずり。

 古い一日は思い出の中に仕舞われ、新たな一日に生まれ変わる。


「んん……」


 まだ少しだけ重い瞼を擦りながら、柔らかなベッドの中で、九嶺キラはぼんやりと目を覚ました。


 ――朝……?


 寝ぼけ眼で部屋を見回せば、そこは見慣れた自分の部屋だ。

 棚にびっしりと並べられた教科書類に、壁に飾られた木剣の数々……。

 少女の部屋と呼ぶには、些か無粋がすぎる光景。

 しかし、この部屋の主であるキラにとっては、それだけで充分だった。

 部屋を見渡し、なにも変わっていないことを確認すると、キラは静かに息を漏らして、枕元に置いてあったデジタル時計へと手を伸ばし。


「ひゃ……!?」


 毛布から出した左手に、まだ冷たい春の空気が触れてきて、今度は変な声を漏らすものの、時計をすぐに毛布の中に引きずりこむ。

 西暦や日付、曜日までもが表示される、そこそこの値段がつく時計だ。

 八歳の時の退院祝いに、剣は危ないからという理由から買って貰ったもので、持っているモノの中で、最も年季が入っている。あともう少しで、これも壊れてしまうことだろう。


【2044】


 普段は意識しない表示に視線をやってから、時刻を確認。


【四月二十日 水曜 6:23】


 四月二十日。

 遅れて満開となった桜が散り始める頃。

 始まりたての学園生活とはいえ、今日も学校。  

 特に代わり映えのない平日の始まりだ。


 少し憂鬱な気持ちになりながらも、もぞもぞと布団の中から這い出て、パジャマを脱ぐ。


 と、パジャマの下に隠れていた白い肌が露わになる。


 無駄を極限まで省いたような体つきだが、その割にはしっかりとした肉付きをしている。健康的な色艶といい、ほどよくついた筋肉といい、小柄でありながらまるでスポーツマンのような体型だ。


 そして、そんな彼女の心臓を抉り取るかのように、左胸に刻まれた大きな傷跡。


 それは、七年前の大災害に巻き込まれた時に負った傷であると同時に、彼女に命を与えてくれた恩人の形見でもあった。


「…………」


 キラは慈しむように、その傷跡を指先でなぞると、そのままクローゼットを開ける。


 中には、第八魔剣士学園の制服と私服が何着か入っているだけで、これといった特徴はない。

 正直言って、何一つ面白みのない女の子だと、自分で思う。


 ――ま、今の自分にはそれぐらいがちょうどいいんだけどね……。


 自嘲気味に微笑みながら、キラは制服に手をかける。


 ――そう言えば、病院にいた頃は、何から何まで大変だったなぁ……。


 着替えながら、キラは昔を思い出していた。

 入院中のキラにとって、一番辛かったことは食事だ。

 病院食というものは、栄養バランスこそ考えられてはいるが、いかんせん味気がないのだ。

 それに、毎日のように出される薬入りのお粥だけでは、育ち盛りの彼女としては物足りなかったものがあるし、その影響なのか身体の成長は退院してすぐのタイミングで止まった。


 ――でも今は……。


 そこまで考えて、彼女はふっと口許を緩める。


 あの頃よりずっと幸せなんだと、噛み締めるように思いながら。


「よし」


 着替を済ませて、クローゼットの隣にある姿鏡の前に立つ。


 白いブレザーに、同色のプリーツスカート。要所要所に施された八つの花弁を模した校章は、この学校に通う生徒たちまだ未熟であることの証左に他ならない。

 人類を守る魔剣士を育成するためだけに造られた、全国で片手で数えられる程度しかない、魔剣士教育機関――魔剣士学園の制服に身を包むと、自然と背筋が伸びるような気がした。


 壁掛けの時計を確認しつつ、くしで少し寝癖のついた桃色の髪をすく。


 髪はクラスの女の子たちより、少し長いから、念入りに。


「あとは……」


 寝癖がないことを確認してから、余計な髪を髪紐で、邪魔にならないようにまとめ――


 ――これで完璧。


 心の中で呟いてから、いつもどおりの日常を満喫するため、外で騒ぐ小鳥たちの喧騒を意識の外に追い出し、部屋を出てリビングに入る。


「あ、おはようキラ」

「うん、おはようお母さん。今朝はそれなりに時間があるんだね」


 ソファーに腰掛けながらコーヒカップ片手に朝の新聞を読んでいた養母にキラは挨拶をして、キッチンへと入った。


 中学を卒業するまでは、この家の家事全般は全て養母が担っていたのだが、第八魔剣士学園への入学が決まったその翌日から、当番制になったのだ。

 なんでも、一年の夏休みあたりに控えている壁外訓練に向けて、少しでも多くの料理経験を積ませておきたいらしい。

 そんな養母の願いもあってか、今ではもうすっかり料理にも慣れたものだ。


 キラが冷蔵庫から卵を取り出したのと同時に、背後からテレビの音声が聞こえてくる。

 どうやら、新聞を読み終えたらしく、今度はテレビを見ながら朝食ができるのを待つつもりなのだろう。


 そんな養母の姿を横目に見ながら、フライパンに油を引いて火にかけ、温まるまでの間に調味料を準備。

 次いで、卵をいい感じに熱くなったフライパンへと割り入れる。


 卵料理というのは、不思議なものだとキラは思う。

 玉子一つあれば、目玉焼きでもスクランブルエッグでも作ることができる。

 手間を加えれば、オムレツや菓子の類いにだって変身するし、その可能性はまさに無限大。

 しかも、調理する人の腕によって味も千差万別ときたものだ。

 卵に秘められたポテンシャルは計り知れないとキラは思う。


『――東京陥落から今日でちょうど七年。依然として都市奪還の目処は立っておらず――』

「……」


 ふと、ニュースの内容が耳に飛び込んできて、キラの手が止まった。


「そっか……、あれからもう七年か」


 もう手慣れた動きで卵の面倒をみながら、画面へと視線を送る。


 画面には、滅茶苦茶に破壊された街の様子が映し出されていた。

 街を大きく二分するかのように刻まれた、巨大な亀裂。倒壊し、瓦礫の山と化した高層ビル群。

 まるで大怪獣でも通ったのかと疑いたくなるような、見るも無惨な有様だった。


 キラは眉間に小さくシワをつくり、小さな息とともに言葉を零す。


「……あれだけのことがあったのに、よくここは無事だったよね……」

「ま、使徒の方にも色々と事情があったんじゃない? 全人類を相手にしているんだもの。東京の壁を破壊するので手一杯、精一杯だったんでしょ」


 他人事のように言いながら、養母は湯気の立つコーヒーカップを口に運んだ。


 使徒と呼ばれる宇宙からの侵略者。

 姿形は様々で、人のような姿をしたものもいれば、鳥や魚、あるいは虫のような見た目をしたものまでいる。

 そして、その全てが他の個体とは異なった『奇跡』と呼称される能力を持ち、同時に『対文明防御』という人の力を一切合切、寄せつけないバリアのようなものを常時展開している、侵略に特化したような生物。

 この生物が初めて確認されたのは、およそ三〇年前のことである。

 中東アジア――当時のイスラエルやサウジアラビアといった紛争地域を小手調べのような調子で蹂躙した彼らは、瞬く間に世界の主要都市を壊滅させ、この星の絶対的王者として君臨した。

 キラたちの世代ともなれば、彼らの存在を教科書で嫌となるほど教え込まれてきているし、彼らとの戦闘を見越した訓練も義務教育課程において実施されているくらいだ。


『――続いてのニュースです。神ヶ咲市で連日発生している猟奇殺人事件が――』

「キラ? 卵が焦げてるわよ?」

「えっ? あ、 あぁ! ごめん!」


 養母の声で我に返ったキラは、慌ててコンロに向き直り、火を止める。


 幸いにも完全に真っ黒になる前に火を止めれたらしく、若干焦げ付いた程度で被害は抑えられた。


「あちゃ〜。少し失敗しちゃったわね〜」

「うぅ……。ごめんなさい……」

「いいのよ。気にしないで」

「いや、でもこれはちょっと……」


 言いながら、キラは皿の上に失敗作を盛り付ける。


「大丈夫だって。味はそこまで変わらないんだし、焦げている方が食べ応えがあって、私は好きだし」

「お母さん……。それはフォローになってないと思うよ……」

「そうかしら?」


 首を傾げる養母に、キラは「そうだよ」と言って肩を落とす。


 それから数分後。


 二人はテーブルを挟んで向かい合い、朝食を食べ始めた。


「うん。やっぱりおいしいわ。これなら魔剣士じゃなくて、料理人としての道を目指した方がいいんじゃないかしら」

「またそういうこと言う。私、魔剣士になるって決めたから、あの学校を選んだんだよ?  もう進路変更なんてできないんだから」

「冗談よ、冗談。あなたは私の自慢の娘なんだから、なにをしたって上手くいくに決まっているじゃない」


 むすっと唇を尖らせるキラに、養母は微笑みながら、「けどね」と言葉を続けた。


「私みたいに魔剣士になって欲しくないってのは本当。あれだけは、いつ死んだっておかしくない職業なんだから」

「……うん」


 その気持ちは、子供であるキラにもよくわかる。

 魔剣士というのは、言ってしまえば人類最後の砦なのだ。

 壁外を支配している使徒たちと戦う為の剣であり、人類の盾。

 そんな仕事だから、命の危険が伴うことは言うまでもないし、現実問題として日常茶飯事のように殉職者だって出ているというのが実態だ。


「……でも、安心して。お母さんが生きている内は死ぬつもりなんかないし、外の世界でも死なない程度の努力はしているつもりだから」


 心配させまいと笑顔を浮かべる娘に、養母は小さく嘆息した。


「ま、そこまで言うならこれ以上は何も言わないけれど。気をつけておいてよね。無理することだけは」

「わかっています。お母さん」


 やけに素直な娘の態度に、今度は養母が面食らう番だった。


 いつもならば、もう少し反抗的なのだが、今日に限って妙に大人である。


 それが少しだけ不安だったようだが――


「――そういえば、右手のそれ。すごく赤くなっているけど、どうしたの? どこかにぶつけた?」


 それ以上に別のことが気になったらしく、養母はその部分を指差しながら訊いた。


「……? なんだろ、これ?」


 キラは自分の手を見下ろして、目を丸くする。


 そこには、赤い十字の紋様が刻まれていた。

 まるで刺青でも入れたかのようにくっきりと。

 だが、キラにそういった類いの趣味はない。


 では一体なんなのか。


 疑問は残るものの、今は特に痛みなどを感じないため放置しておくことにした。


「別になんでもないよ。寝ぼけてどこか適当なところにでもぶつけたんじゃない?」

「そういうもの?  まぁ、痛みがないのであればそれでいいんだけど……」


 キラの言葉にどこか釈然としないものを覚えながらも、ひとまず納得することにしたのか、養母は小さく息をついた。


「だけど? どうしたの?」

「……いや、なんでも。ただ、昔に見たドラマのことを思い出しちゃって。いつかあなたも大人になって私から離れていくのかなって思っただけだから」

「なにそれ。まだ彼氏の一人すら出来たことないのに」


 苦笑しつつキラが言うと、養母は「それもそうね」と肩を竦めるのだった。


 ◆◇◆


 キラが学園に着いたのは、午前の八時二〇分を過ぎた頃だった。

 遅刻ギリギリというわけではないが、かといって余裕があるわけでもない微妙な時間帯。

 廊下でエンカウントした中学からの親友と軽く話を交わしてから、一年間を過ごす教室に入っていく。


「おふぁよー」


 あくび混じりにクラスメイトに挨拶をしながら、キラは窓側から数えて二列目の席に鞄を置き、そのまま椅子に座って机に突っ伏す。


 ……単純に身体が重かった。


 普段ならここまで眠くなることはないはずなのに、なぜか朝から微妙にだるくて仕方がなかったのだ。


 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 頬をペチペチと軽く叩いて意識を覚醒させ、ゆっくりと顔を上げる。


 ――夢にまで見た学園生活だっていうのに、たったの一週間で気が緩んでいるようじゃ、今後が思いやられるよ……。


 七年前に東京が陥落したあと、魔剣士育成機関である第八魔剣士学園は使徒が跋扈する東京から、ここ神ヶ咲の街へと移転されたのだ。

 その際に魔剣士を育成するのにちょうどいい設備が無かったとか何とかで、新たに作られたのがこの校舎である。


 そのため、公立校とは思えないほどの充実した設備を誇り、内も外も含めて損傷がほとんどないのが、この学園の取り柄であるのだが――


 辛いことといえば、不定期に行われる実技テストだろうか。

 一定の基準値を越えていない場合、放課後は学園に残って、次のテストまでに技術なり体力なりを向上させなければいけないのだ。


「……はぁ」


 ため息を零し、ぼんやりと窓の外へと視線を向ける。


 視界に映るのは、まるで高さでも競うかのようにして乱立する高層ビル群に、その合間合間を縫うようにして建設された風力発電の三枚プロペラの数々。

 そして、その遥か先に見える巨大な壁。

 一〇キロメートル以上も離れた、ここからでもはっきりと視認できるほどの大きさを誇るコンクリートの壁は、この街全体を囲いこむようにして聳え立ち、外敵からの侵略を防いでいる。


「――みなさんおはようございますー。そろそろ朝のホームルームを始めますよ。みんな、席についてくださいー」


 担任の女性教師がガラガラと扉を開け、教室に入ってくると、同時。生徒たちは教師の姿を視界に確認して、一斉に自分の席に戻っていく。


 そんな生徒たちの姿に女性教師は満足げに微笑むと――


「今日は転校生を紹介します」


 教壇に立つなり、そんな突拍子もないことを言い出した。

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